『なりたくて』
-1-
シチュエーション


今年の夏はおかしい。
連日の暑さにやられて、毎年そう言っているような気もするけど、このときのおかしいは
違う意味だった。

「……終わっちゃったよ」

自室の座卓の上に積み重ねられたノートや参考書の山を見つめながら、ぼくは思わず
つぶやいていた。
夏休みの宿題をすべて終わらせた。
当たり前のことと思うなかれ。今はまだ八月頭なのだ。いつもだったら後半までかかって
しまうのに、今年は夏休み開始二週間足らずで片付けることができた。
無論、ぼく一人の力で達成したのではない。

「お疲れ様でした」

向かいに座る少女が、我がことのように喜んでいる。白い薄手のワンピース姿で見せる
笑顔がまぶしい。
彼女の手伝いがなかったら、到底ぼくは宿題を終わらせられなかっただろう。
一学年下にもかかわらず、彼女の学力はぼくより上なのだ。わからないところを的確に
教えてもらえたのは、多少情けなくも思ったけれど、とてもありがたかった。

「本当にありがとう。こんなに早く終わらせたのは初めてだよ」
「私もここまで早く終わることは稀です」

初めてではないのね。

「やっぱり一緒にしたことがよかったのではないでしょうか?」

そう彼女は言うけど、『一緒に宿題をする』というのはたぶんあまり効率のいいものでは
ない。おしゃべりを始めたりして、最後まで集中が続かないからだ。
しかし彼女は違った。アドバイスをしたり、ぼくの質問に丁寧に答える以外は、まったくの
無言でシャーペンを動かし続けるのが常だった。
彼女がいてくれて本当によかった。これで残り一ヶ月近い休みを満喫できる。

が、彼女はやはりまじめだった。

「勉強はきちんとしないとダメですよ」
「え」
「受験まで一年半しかないんですから、気を抜きすぎるのはダメです」

まるでお母さんのようだ。ぼくの母親は放任主義なのでそんなことは言わないのだけれど。

「……ヤリマスヨ、モチロン」
「どうしてカタコトなんですか」
「ハハハ、気のせいアルヨ」
「……まあ落ちても学年が一緒になるから、それはそれでかまいませんけど」

おおう、言うね。
この間の夏祭りから、彼女の物言いにさらに遠慮がなくなった気がする。
それは愛莉さんに対する接し方に近いと思うのだ。
そんな彼女の態度が嬉しくて、ぼくもつい軽口を叩いてしまう。
彼女がボケじゃなくてツッコミタイプだから、必然的にぼくがボケにまわるだけなのかも
しれないけど。
それはともかく。

「まあそれはおいといて。少し休憩しようよ。アイス買ってきてるから」
「あ、手伝います」

ぼくの動きにつられるように、彼女も立ち上がろうとした。ぼくは慌てて押しとどめる。

「足、まだ万全じゃないでしょ?」

彼女は先週、右足に怪我をした。軽い捻挫で、腫れはもう引いているようだけど、あまり
激しい動きは出来ないらしい。本当なら家で安静にしておくべきなんだろうけど。

「えっと、もう痛みも特にないですし、きちんと歩けますし、お手伝いくらいは、」
「お客様は座ってて。アイス持ってくるだけだから」
「……じゃあ、お願いします」

座りなおす彼女に尋ねた。

「バニラとチョコとイチゴ、あと抹茶があるけど、どれがいい?」

彼女は少しだけ考えて、

「バニラでお願いします」
「了解」

ぼくは頷いて、一階のキッチンに向かった。

◇◇◇

彼の背中を見送って一人になると、私はほう、と息をつきました。
足の痛みはもうほとんど無いのですけど、少しだけうずいたような気がしました。たぶん
緊張しているせいだと思います。
そう、私は今、緊張しています。
初めて、男の子の部屋に入りました。
とても片付いてすっきりしています。机の上から本棚、床の隅々に至るまで、とても綺麗に
されています。
普段からそうなのか、それとも昨日の夜、電話で約束をしてから大急ぎで掃除をしたのかは
わかりません。彼は真面目な性格なので、そこまでずぼらだとは思いませんけど。

あの縁日の夜から、十日が経ちました。
怪我は本当にたいしたことはありませんでした。一応病院にも行きましたが、骨にも異常は
なく、包帯で固定する必要もありませんでした。用心のために松葉杖もレンタルしましたが、
一週間で不要になりました。いただいた湿布薬だけ、右足の付け根に貼っています。
あれはひょっとしたら、神様が私の願いを聞き入れてくれたのかもしれません。
ずっとそうなればと思っていました。
彼の本当の彼女になりたいと、思っていました。
私は彼が好きです。それはもう確かな想いとして私の中に満ち満ちています。しかし私は、
彼の想いに十分応え切れていない気がしていました。
彼だって、男の子ですから。
あの人は優しい人です。私は大事にされていると思います。もちろん嬉しいことですけど、
しかし彼に悪いとも思っていました。
彼がときおり私に熱っぽい視線を向けてくることがありました。きっとそれは、私を、その、
「そういう対象」として、見ていたのだと思います。
当たり前です。だって、彼女なんですから。求められて当然です。でも彼はそういうことを
言い出しませんでした。私の性格を慮ったのでしょう。私の潜在的な恐れが彼に伝わって
しまってそうさせたのだとしたら、申し訳ないことです。
でも私はその視線を、意識しないようにしていました。
気づいていながら、彼の気遣いに甘えていました。過去を知られるのが怖くて、関係を
深めることを躊躇して、結果そのことを考えないようにしていたのです。
時間が経てばそのうち関係も深まると、たかをくくっていました。でもそんなわけありません。
いつだって人は動かないと、何かを生み出せないのです。
彼と今こうして一緒にいられるのも、私なりに動いた結果です。それを忘れてはいけません。
荒療治でも、この怪我があってよかったと思います。

ふと気になって、私はベッドの下を覗き込みました。
何もありませんでした。こういうところに隠したりはしないものなのでしょうか。
一度気になりだすと、好奇心というものはどんどん膨れ上がっていきます。改めて部屋を
見回すと、どこもかしこも怪しく映ります。机の引き出し、クローゼットの中、本棚の裏側に
果ては床下まで。どこかに隠しているのではないかと疑ってしまいます。何を疑っているかは
お察しください。
もちろん人様の部屋ですから、不躾なことはできません。プライバシーの侵害です。ひょっと
したらこの部屋にはなくて、別の部屋に移動させているのかもしれませんし。いえ、そうじゃ
なくて、詮索はいけません。彼も男の子ですから、そういう類の物の一つや二つ。いえ、です
からそうじゃなくて、そう、忘れましょう。そういうことを考えてはいけません。第一はしたない
ではありませんか。
それに、ひょっとしたら彼はそういうものを持っていないかもしれません。可能性としては、
決してないとは言い切れないのではないでしょうか。何といっても彼は優しく、見た目も
清潔感があって、そういうことをする人には見えません。優しいのは関係ない気もしますが、
とにかく。

「お待たせ」

急にドアが開いて、彼が戻ってきました。右手に二つのカップアイス、左手にスプーンを
二本持っています。私は水に打たれたように敏感に反応しました。顔を反射的に上げて、
彼の顔を見つめたきり、硬直してしまいます。

「どうしたの?」
「い、いえ、なんでみょ、なんでもありません!」

噛んでしまいました。慌てすぎです。挙動不審です。
彼はものすごく訝しげな目を向けてきました。

「……えっと、バニラだよね?」
「……はい」

私は真っ赤になりながら、アイスを受け取りました。
この火照った頭を冷やしたい。そんなことを思いながら、バニラアイスを食べます。冷たい
甘さが口の中に広がり、少しクールダウンできました。
彼はチョコアイスを手にしています。そちらもおいしそうです。

「あの」
「ん?」
「この後どうしましょうか」

宿題は終わらせました。今日の勉強はもう十分でしょう。しかし特に予定を聞いていないので、
私は尋ねました。

「DVDでも観る?それともゲームかな」

どちらかというとゲームの方が好きです。DVDだと見入ってしまって、会話が途切れてしまい
がちになりますので(ゲームも、ジャンルによりますが)。
ただ、今はそれより。

「お話しませんか?」
「……何の話?」
「なんでもいいと思いますよ。そうですね、お借りした本の話とか」

お話をするのは好きです。私はあまりおしゃべりな方ではありませんが、彼と一緒の時は
比較的饒舌になります。
彼とお話をするのが大好きです。ゲームやDVDよりずっと。
彼もそうであってほしいのですが。

「えーと、いろいろ貸したと思ったけど、どれか読んだ?」
「『李歐』を」
「ああ。おもしろかった?」
「ちょっといやな感じがしました」

私は正直に答えました。彼のうろたえる顔がちょっとおもしろいです。

「……つまらなかったかな」
「いえ、内容はおもしろかったですよ。ただ、その、ちょっと」

ハードボイルドは、私には合わないようです。登場人物はかっこよかったのですけど。

「……女の子に薦める話じゃなかったかもね」
「それに、ちょっとエッチな場面もありましたし」

彼の顔が引きつりました。あまりいじめるのもかわいそうなので、少し手控えましょう。
自分で言い出しておきながら、私は話題を逸らしました。いえ、断じて気まずいからとか
恥ずかしいからとか、そういう理由ではなくてですね。

「ところで、私が貸した本はどうでした?」
「ええと……ああ、おもしろかったよ。『ビスコを食べればよいのです!』に笑っちゃった」
「素敵なヒロインですよね」
「憧れとか?」
「あんなにかわいくないですよ」

彼はそんなことないけどと首を傾げました。そんなことあります。ああいうキャラは現実に
いたら、失礼ながらアホの子扱いされると思います。お話の中だから、あんなにも輝くのです。
大学生なので、今の私より年上なんですけど。

「同じ作家の本なら『太陽の塔』もおすすめですよ」
「……岡本太郎?」

タイトルからはとても想像できない内容だと思います。概要は伏せておきました。
彼も私も読書が大好きです。彼はサスペンスやミステリー、ハードボイルドを好むよう
ですが、私はどちらかというとやさしい話が好きです。人が殺される話は、ちょっと。

「昔の本も読んでみたいけど、読んだことある?」
「夏目漱石とかですか?読みやすいと思いますよ」
「芥川なら読んだことある」

教科書に出てきますしね。

「ぼくは海外作品を読んでみたいんだ」
「?ヘミングウェイとかですか?」
「いや、クリスティ」

やっぱり彼はミステリーが好きなようです。

「あとドイルとか、ポーも」
「私は殺人ものは苦手です」
「じゃあ少年探偵団とかどうかな?」
「国内じゃないですか」

時代にこだわらず、好きなものを読むのが一番だと思いますが。
ちなみに少年探偵団は既読です。二十面相はどうして後になって殺人をも辞さない
凶悪犯になったのでしょうか。殺人を好まないという設定が好きなんですけど。

「ハッピーエンドが好きなの?」

彼が尋ねてきます。私は頷きました。

「昔はそこまで考えてなかったんですけど、ここ二年くらいは、そうですね、選んでます」

すると彼は微かに目を細め、気遣わしげに言いました。

「ごめん、あまり考えて渡してなかった」
「え?」

私はその意味がわからず、訊き返しました。

「貸した本だよ。もっと内容を考えるべきだった」
「いえ、でもそれは」
「君の過去を知っていながら、配慮が足りなかった。ごめん」

彼はそう言って頭を垂れました。
私はその姿を見て、申し訳ないと思いました。しかしそれは僅かなことで、それよりも
腹立たしい気持ちになりました。
彼の態度は、よくありません。

「何でも謝らないでください」

強い調子で言うと、彼はきょとんとした様子で顔を上げました。

「あなたが私を心配してくれるのは嬉しいです。でもたかが本の貸し借りくらいで謝ることは
ありませんよ」
「……それは」
「趣味嗜好が変わるなんてよくあることじゃないですか。先日の件があったから、過敏に
反応するのもわかりますけど、あれからもう少し強くなりましたよ、私」
「……」
「心配してくれてありがとうございます。でも、過剰はいけません。はっきり言っておきます」
「……ずけずけ言うね」

彼は苦笑を浮かべて頬を掻きました。

「はい、彼女ですから」
「うん。ぼくも遠慮なく言わないと駄目だね。彼氏なんだから」

私たちは顔を見合わせて、くすくす笑いました。
穏やかに。和やかに。
六畳間の部屋で二人して過ごす時間は、とても優しく温かいものでした。真夏の熱気を
和らげるくらいに、平和なひと時でした。
少しばかり溶けたアイスは、ほんのり幸せな味がしました。

◇◇◇

アイスも食べ終えて、しばらく他愛の無い話をしていると、突然彼女が何かに気づいた
ようにはっとなった。
ポケットから携帯を取り出すと、こちらに軽く目礼した。立ち上がって部屋を出て行く。
ドアを閉めると、その向こうから話し声が聞こえてきた。
しばらく待っていると、彼女が戻ってきた。

「何かあった?」

すると彼女は言いよどんだ。

「えと、あの……」
「どうしたの?」
「愛莉からでした」

彼女の家にはお手伝いさんが一人いる。昔から彼女の身の回りの世話をしていると
いう愛莉さんだ。親元から離れて生活をしている彼女の、いわば保護者に当たる。親と
いうより姉のような存在で、たぶん彼女はぼく以上に、愛莉さんには気を許している。
それがちょっとくやしかったり。

「愛莉さん、なんて?」
「……急用ができて、出かけるそうです。今夜は帰らないって」
「じゃあ、今日は一人?」
「そう、なりそうですね……」

彼女はさびしそうに答えた。
そのあとの提案が、果たして『チャンスだ』と思ったから出たのか、それとも彼女のその
表情を和らげたくて出たのか、ぼくには判別がつかなかった。ひょっとしたら両方かも
しれない。
ただそのときはとにかく、彼女を引き止めたくて仕方がなかった。

「……泊まっていく?」

まとまらない思考のまま、ぼくは彼女にそんなことを言っていた。言ってしまっていた。
綺麗な顔が、寂しげなものから驚きのものに変化する。

「え?」

意外そうに聞き返されて、ぼくは即座に後悔した。何を言ってるんだろう。いきなりそんな
提案、ありえない。

「あ、いやその、うちはいつも両親が遅いんだけど、でもえっと別にちゃんと帰ってくるし
変な意味は全然なくてその、」
「……迷惑じゃありませんか?」

彼女の声に、不思議と拒絶の響きはまったくなかった。
ぼくは一瞬戸惑って、しかしすぐに答えた。
下心かもしれないけど、でも。

「全然!そんなことまったくないから!」
「でも、あまりに急ですし……」
「うちの親にはちゃんと説明する。それに、家に一人きりなんて危ないよ」
「……はしたなくありませんか?」

彼女は恥じ入るように顔を伏せた。

「いくらお付き合いをしていても、男性の方のお宅に泊まるというのは、その……やっぱり
褒められたことじゃありませんよね」
「……」

それはその通りで、でも、

「つまり、駄目ってこと?」
「……いいえ」

彼女は消え入りそうな声で答えた。

「ご迷惑じゃなければ、その、私は……」
「……いいの?」
「でも、やっぱりいけないことかもしれないと、そんな思いも、その、あります」

ぼくは少しだけ、じれったく思った。

彼女がぼくと一緒にいたいと思ってくれていることは、痛いほど伝わる。しかし一方で、
節度ある付き合いが大事だという思いもあって、彼女は迷っている。
彼女らしいその迷いを好ましく思いながらも、同時にぼくは煩わしさを覚えている。
今すぐ彼女を自分のものにしてしまいたい。
心も、体も、すべてをぼくのものにしたい。
そんな支配欲が、ヘドロのように奥底にあって。
ぼくは決して聖人じゃない。彼女はひょっとしたら、ぼくを綺麗なものとして見ているの
かもしれないけど、でもそれはぼくがそう見せているだけだ。
汚い部分は、隠している。彼女にだけは見られたくない。
失望させたくない。そして、嫌われたくない。

「……あの」

考えをまとめたのか、おずおずと彼女が口を開いた。

「着替えを、取ってきますね」
「……え?」

ぼくは彼女のぎこちない笑顔をぼんやり見やった。

「必要ですから」
「……じゃあ」
「はい。お世話になります。それと」

彼女はぼくの隣に腰を下ろすと、そっと身を寄せてきた。
肩が触れ合うくらい、近く。
彼女の温もりと匂いを感じて、ぼくはどきりとする。

「な、なに?」
「責任、取ってくれますか?」

微笑みがぼくの心を揺さぶる。

「好きです。言葉じゃ表せないくらい、あなたのことが好きです。そうさせたのはあなたです」

言葉が、

「このあいだ、言ってましたよね。『もっと惚れさせないといけない』って。もう十分です。
これ以上好きになれないくらい好きです」

想いが、

「あなたのこと、もう嫌いになれないくらい好きなんです。だから、もう少し私にぶつけて
いいんですよ?したいことを、もっと見せてください。きっと受け止めてみせますから」

決意が、ぼくの稚拙な仮面を壊す。
かっこつけてるだけのぼくに、彼女は笑って寄り添ってくれる。

「私を惚れさせた責任、ちゃんと取ってくださいね」

頬を赤く染めながら、彼女は少しだけいたずらっぽく。
本当に変わった。
もう君は、世界に対して怯えていない。目を逸らさないで、物事を見据えることができる。
一年前、初めて言葉を交わした時と比べたら、すっかり見違えた。
そんな君をぼくは凄いと思うし、尊敬している。君はぼくのおかげだと言うけど、間違いなく
君自身の努力の賜物だ。
そんな君に想われていることが、誇らしい。
縁日の夜に、君の真摯な想いを聞いて、ぼくは嬉しかった。そして、その想いに負けない
ように、ぼくも頑張らないといけない。
君と一緒にこれからを歩みたい。

責任、取らせてくれる?

「言っておくけど、遠慮したわけじゃないからね」
「……違うんですか?」
「ぼくも男だからさ、いろいろ、その……欲情するんだ」

彼女の顔が真っ赤になった。

「そういうのを見られたり知られたりすると、ちょっと恥ずかしい。だから遠慮というよりは、
かっこつけてるだけなんだ。初めて付き合った女の子には、特に」
「……え、えっと……わ、私、平気ですよ?」

声が上ずっている。明らかに動揺している。
その様子がおかしくて、ぼくの顔は緩んでしまう。

「笑わないでくださいよ」
「ぶつけていい?」

ぼくはすぐ隣にある彼女の顔に、急接近した。
彼女の表情が固まる。
間近で見ると、本当に綺麗な作りをしている。絵画のように繊細に整っていて、ため息が
洩れそうだ。
高鳴る胸を苦しく思いながら、ぼくは彼女を抱きしめた。

「いつだって、こうしたいんだ」

細く柔らかい彼女の体は、服の上からでも温かく、触れ合うだけで心地良い気分になる。
突然の抱擁に、彼女は固まったまま動かない。
ぼくの方は幾分落ち着いている。
この間も同じようなことをしたけど、あのときよりはもう少し冷静だ。
あのときは彼女の奥にある不安をとにかく取り除きたくて無我夢中だった。

「平気?」
「……はい」

その声には緊張が窺えたけど、でも恐れはなさそうだった。

「ちょっと、恥ずかしいですけど」
「うん」

手のひらが背中に触れると、彼女の鼓動が微かに伝わってくる。
耳元で呼吸の音がして、それも心地良い。
このまま押し倒してしまいたいくらい、欲する気持ちが強くなる。

「あの、着替えを……」

わかっている。今はまだ抑えないと。
名残惜しくも離れると、彼女はぼくの顔を見て苦笑した。

「そんなに残念そうな顔をしなくても」

慌てて表情を引き締めた。どんな顔をしていたのだろう。自覚はなかった。

「それじゃ、一旦家に戻りますね」
「……うん」

勉強道具をまとめてバッグに入れると、彼女は玄関先でぺこりと頭を下げ、ぼくの家を
後にした。
その後ろ姿を見ていたら不安になってきた。本当に戻ってくるだろうか。やっぱり二人
きりはよくないと、心変わりしないだろうか。
彼女がぼくに嘘をついたことなんて一度もないのだけど、でも、
どうかお願いします。ちゃんと戻ってきてください。
彼女がいなくなった道の先を見つめながら、ぼくは必死に祈っていた。

◇◇◇

荷物は多くありません。夏場で、着替えがかさばらないのが大きいとは思いますが、
物を増やすと迷惑になりそうですし、極力控えめにしようと思います。
彼の家にお泊りすることになりました。
ドキドキします。緊張で、手に汗が浮き出てしまいます。
いろいろと考えてしまうのは、仕方ないことでしょうか。
さっきまで、彼の腕の中にいたことを思い出します。
羞恥や緊張に体が固まりながらも、同時にすごくほっとしました。
私は、彼に抱きしめられることができます。
正面から、彼の鼓動を感じることができます。
それが私にとって、どれほどすばらしく幸運なことか。
人の温もりを受け取ることができるというのは、幸せなことです。
誰かの行為を、恐れず受け取れる。それがいかに大切かを、私はこの一年で知りました。
彼との出会いによって。
でもそれは私から見た場合の話です。
彼にとってはどうでしょうか。
私は受け取るばかりになってませんでしょうか。私は彼に、きちんと何かをあげることが
できているでしょうか。
彼は私から、何かを受け取ることができているでしょうか。
私にはわかりません。でも、彼は私を抱きしめてくれました。
彼の欲がはっきりと伝わってきました。
それを怖いとは思いません。逆に嬉しく感じます。
求められて嬉しいのです、私は。
彼が求めるのなら、喜んで応えたい。
遠慮なんかしてほしくないのです。

「……よし」

戸締りを確認すると、私はバッグを持って外へと出ました。時刻は三時半。昼と夕方の
隙間のような時間帯です。夏の日差しは相変わらず強く、熱気は夜まで続くでしょう。軽く
シャワーも浴びたのですけど、すぐに汗が流れます。
この熱さから逃れるためにも、早く彼の家に戻りたいと思いました。

彼の家を再び訪れると、迎えてくれた彼はどこか安堵したように微笑みました。

「どうしたんですか?」
「いや……戻ってきてくれるか不安だったから」

思わず眉根を寄せました。

「ひょっとして、私信用されてません?」
「え!?いや、そんなことはないけど」
「さっきの言葉、本気ですからね」

嫌いになれないくらいあなたが好き。
改めて彼の部屋へと入ると、エアコンの涼しげな風が歓迎してくれました。荷物を置いて、
私はベッドに腰掛けました。

……ちょっと無用心でしょうか。
彼の目が少し熱っぽく、私の体を見つめています。

「あの、ちょっと恥ずかしいです……」
「え?あ、ご、ごめん」
「いえ、その、見られること自体は、少し嬉しい気持ちもあったりするんですけど」

目力が強いと、さすがに意識してしまって。
視線には物理法則を超えた、何かしらの力があるんじゃないかと思います。

「……」
「……」

沈黙。
彼の微かな息遣いが聞き取れます。
私の息遣いも聞こえているのでしょうか?
目の前がぐるぐる回るような、奇妙な感覚に襲われました。五感を手放し、意識が浮遊
するような、そんなめまいにも近い感覚が私を覆います。本を長く読んでいるときに、たまに
文字が大きく見えたり小さく見えたり、浮ついた感覚になることがありますが、あれに近い
です。
隣に彼が腰掛けました。
私は少しだけ身じろぎ、居住まいを正しました。
本気です。だけど、

「……緊張するね、なんか」

彼が口を開きました。
私は頷きます。緊張は、さっき家で準備をしていたときからずっと続いています。

「あの……どうしますか?」
「あ、え?」

私が訊ねると、彼は少し焦ったような声を出しました。

「い、いや、どうって」
「え、と、その……」

今、私は何を言ったのでしょう。何かとんちんかんなことを言ってしまったような。
こういうとき、本や映画ではどのように事が展開したでしょうか。
頭がうまく働きません。

「……ごはんにするにはちょっと早いよね」

壁掛け時計が規則正しい音を立てています。四時半です。
時間はあります。
テレビを観たり、お菓子を食べたり、そんな選択肢ももちろんあります。

だけど。

「……手を握ってもらえますか?」
「……うん」

一回り大きな手が、私の右手を包み込みました。
温かいその感触に、私は安心します。
目を閉じて、彼と過ごした日々をゆっくりと思い出します。
窓の向こうから笑いかけてくれて、止まっていた私の時間を動かしてくれたあのときから、
私はずっと彼のことが好きでした。
こうして隣にいられることがどれほど幸せなことか、わかるでしょうか。
「好き」なんて、もうそんな言葉だけで収まるものではありません。
愛しています。
誰よりも愛しく思っています。
愛情はよく海の深さにたとえられますが、底が見えないほどの想いがあることを、私は
知りませんでした。
こうして手をつなぐだけで、身を焦がすほどに熱が高まっていきます。
私の想いは届いているでしょうか。
彼が体をこちらに向けました。
空いてる右手を私の左肩に伸ばして、そのまま抱きしめてきました。
それに応えるように、私も抱きしめ返しました。つないでいた手を離し、お互いを拘束する
ように背中に腕を回し合って、体をくっつけました。
彼は一見細身ですが、こうして密着すると意外とがっしりしていて、やっぱり男の子なんだと
強く意識してしまいます。
不安はあります。しかしそれは小さなもので、心地良さの方がはるかに勝りました。
見つめ合い、ゆっくり顔を近づけます。
三度目の口付けを交わしました。
長いキスでした。前二回とは違い、相手を強く求めるような、そんな情熱がありました。
密着が強まり、キスも激しいものになりました。

「んっ」

思わず声が洩れたのは、呼吸がうまくできなかったからです。唇を離して、彼の肩に
頭を預けるように顎を乗せました。

「……激しいですね」
「ごめん」
「私は構いませんけど……」

逡巡を見せると、彼は腕の力を緩めました。

「どうしたの?」
「……いえ、その」
「……なに?」
「……これ以上続けると、止まらなくなりそうで、少し怖いです」

彼は私の後頭部に手を添えて、優しく撫でました。

「ぼくも同じ」
「そうなんですか?」
「……いや、正確にはちょっと違うかな」

言うが早いか、再び唇を奪われました。
私はひどく驚いて、しかし咄嗟には反応できなくて、されるがままになってしまいます。
そのまま体を傾けて、押し倒されました。
重みはあまり感じませんでした。体重をかけないように気を遣ってくれているのがわかって、
私は体から力を抜きます。

顔を離して、彼がどこか熱っぽい視線を向けてきました。

「怖いっていうか、なんかもう怖いものなくなりそうっていうか」
「なんですか、それ」
「あー、もうやばい。止まんない」

冗談めかした口調で、そんなことを言います。

「あの、遠慮しないでください」
「うん」
「本当に、したいことしていいんですよ」
「うん。でも、それだと不公平な気もする」
「不公平、ですか?」
「君も、したいことしていいんだよ」

思ってもみないことを言われました。

「ぼくばかりだとフェアじゃないし。したいことはないの?」
「……そ、それは」

すぐには答えられません。
私から何かするというのは、考えていませんでした。ずっと彼に応えてあげたいとばかり
思っていましたから。
でも確かに、そうしてもいいはずです。

「こうして抱き合っているだけで私は満足ですけど……」
「けど?」
「……………………肌には、さ、触ってみたい、です」

それだけを言うのに、三十秒はかかったでしょうか。
言い切ると、私の顔は燃えるように熱くなりました。真っ赤になっていくのがわかります。
こんなことを言うようになるなんて。
彼は口元を緩めてなんだかおかしそうにしています。
あなたのせいです、まったく。

「や、やっぱり今の無しでお願いします!」
「肌だけ?」
「なっ」

何を言ってるんでしょうかこの人は。
私の髪を手櫛で梳きながら、彼は微笑みます。

「今からぼく、結構暴走するかもしれないから」
「そういうこと、こんなときに言わないでください」
「一方通行は嫌なんだ。ぼくも、君に応えたい」
「言葉だけだとすごく真面目に聞こえますよね」

ああ、この人のせいでツッコミ癖がついてしまったかもしれません。
彼がくっ、と喉を鳴らして笑いました。
私は呆れましたが、つられて笑ってしまいます。
不安が少し薄れたような気がしました。






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