気は病から
-3-
シチュエーション


「私、ちょっと淫乱気味なの」

「ブスと接吻はしたくない?」
「いや、だから美人だって何度も……」
「したくない?」
「……したいです、棗様と」

最後の最後で勝ってしまうのは、やはり青少年の本能なのか。
棗に押し倒された有真は、諸手を上げた。降参の体勢である。

「本当に?……やっぱり、私、まだ残っているの。拒絶されないか心配なのよ、これでも」

劣等感の話だろう。見れば、彼女の指はぷるぷると震えていた。
当然の結果なのかもしれない。
劣等感を捨て去れ、と言った有真ではあるが、あれは勢いのままに発したものだ。
彼女と知り合ってからたったの一年、それだけで有真が彼女の十数年をくつがえせるわけがないのだから。

「拒絶は絶対にしないよ。それに、俺みたいな愚鈍者、好いてくれる人がいるだけでも幸福だし」
「有真こそ自虐発言やめなさいよ……って、ちょ、なに、んうッ!?」

気付けば、有真は棗に口付けていた。
白雪のごとき肌理の上にひときわ輝く桜色の口唇。それは相手の精神を溶けさせ、堕落への一途を歩ませようとするほどの艶やかさ。
棗の、その唇は、有真の理性を削っていた。元来の気質ならば消極的である有真は、相手の唇にむさぼりついたりはしないであろう。
溶けていたのだ。何もかもが溶けて、どろどろになっていた。理性という名の壁でさえも。

「ふぁ……ん、ぁあぁっ……はむぅ……んんっ……!」

唇と唇が触れ合う中で、有真は舌を出す。それに応じるように、棗も舌を出す。
軟体生物のごとくうねる互いの舌は、互いの口腔というフィールド内で激しく暴れ回った。
唾液を散らし、口を押し付け、互いは互いをむさぼる。
棗の舌は有真の歯ぐき、歯の裏、頬の裏の肉までをも攻め、それによって生じる唾液は口の端からあごまでへと。
ぴちゃりぴちゃりと跳ね合う唾液の音は、互いの口腔のみならず、互いの顔をも。
有真の舌がうごめき、棗の歯ぐきをなぞるようにすれば、ぴくりと震える棗の背中。

それは、どこまでも支配的な口付けだった。
狙ってやっているのではない。有真は棗を、棗は有真を、互いに想ってはいる。
ただ、それが明確な恋慕の情かどうかと言えば確証はなかろう。
だから全力投球をするしかない。後ろ盾がないからこそ、最後の最後で思い切った行動に走ることが出来てしまう。
勿論、ふたりは気付いていないのだろうが、それは本能のようなもので、気付くことなどまずありえない。

「はあぁッ……!ん、んぅっ……!あ、ふ、んぁぁぁっ……!」

あえぎ声を上げるのは、有真と比べれば小柄な体躯の棗。
少女の肺活量では、成人男性に勝ることは出来なかった。
唇と唇が触れ合い、舌と舌とが互い互いを陵辱する。
唾液が流れ、制服には染みが出来、肌は汗ばみ心は熱く。

しばしの深い接吻を終え、互いに唇を離せば、そこに出来るのは銀の架け橋。
それはすぐさまぷつりと途切れて落下し、有真の制服に染みを作った。

だが、それでも止まらなかった。ふたりの頬は触れれば火傷してしまいそうと錯覚させかねないほどに赤い。
棗は躊躇せずに制服を脱ぎ出す。

「ここ、学校なんだけど」
「……うん。でも、もう駄目。止まらないの。
おかしいわね、ちょっと前までは、学校で性交するなんて駄目人間だけと思っていたけれど」
「まあ、俺らも若いってことで完結」
「そう、みたいね。……どうせ有真も、歯止め利かないんでしょう?」
「……はい。あ、でも棗の体が変になったら強制終了はする」

有真の言に対し棗は微笑み、またも口付けた。
圧倒的な艶の暴力。舌と舌とが混ざり合い、互いの精神を焼き、唾液を交換する。
こくりこくりと有真ののどがうごめいたかと思えば、棗ののどもうごめく。互いの唾液を嚥下するという、どこまでも深い深い接吻。

「私としちゃって、後悔しない?」
「どうして?」

二回目の口付けを終えた瞬間、棗は悪戯めいた微笑を浮かべて問うた。有真はそれに対し、首をかしげるだけ。

「私の病気は、まだ知られていないものだけれど……。お医者さんが言ったの。
冗談抜きで、いつ死んでも異常ではないって。
それは、私の体が危ないというよりかは、突発的な死がいつ来るかどうか待っているようなもの。
十年先か五十年先か、あるいは明日かもしれない。
有真は、いいの? 私、先に死んじゃうかもしれないのよ?」

だからこそ、今まで棗は悩んでいた。そうして、彼女はこれからも悩むのだろう。
自分がそこにいて良いのか、自分がこうして良いのか、ずっと自問自答をくり返しながら。
それは有真が手を貸せる問題ではない。
ただ、彼に出来ることは、それを見守る程度のものである。

「いいんだ。正直、この理屈っぽい性格では異性と関係を築けないと考慮していた。だから、いい。別にいいんだ」
「ふぅん。……でも、もしもっていう話があるし。浮気したら去勢するからね。家畜人ヤプーみたいに」
「したくもないし、出来はしない。余計な心配だと思う」
「ほんと、可愛くないわね。だから……好き、なんだけれど」

頬を染めて肩をすくめ、棗は小さく苦笑する。照れ隠しの仕草であろうが、隠せていない。ばればれである。

有真は彼女に気付かれぬよう、触手よろしくするすると両手を動かし、半ばまでまくられた彼女の制服を剥ぎ取った。

「ちょっ……!もう少し、情趣ってもんを……!ぁ、ゃああぁっ……!」

同時に、その小ぶりな乳房を揉みしだく。棗の白い肌は、触れれば壊れるガラス細工のような、あまりにも繊細なさま。
恐る恐る、といった調子で指をうごめかし、有真はひたすらに棗の胸部を揉んでいく。
力の強弱、攻める場所、そういった要素うんぬんはほとんど頭の中になかった。
ただ、揉みたいから揉んだ、男の思考など、それくらい単純なものなのかもしれない。
所詮は、オスである。

「お、男って本当に、馬鹿……!む、胸ばっかり気に、しな、あ、ゃああっ…やだ、やだぁぁっ……!」
「うへへ、いやとはいってもかわいいこえがでているぜ、おらおら」
「りょ、陵辱する際の決まり文句みたいなこと、言っちゃ……って、ゃああぁ、だめ、ほんとにそこ、や、やぁっ」
「……すみません、もうモラル破壊されそうです」

普段は結構なすまし顔、暴走したのならば悪鬼羅刹のごとき表情。
その、棗の顔をよく見てきた有真ではあるが、今のような表情は見たことがない。
口元からよだれを垂らし、羞恥に頬を染めて恥ずかしげに相手を見やり、目をつぶってあえぐその姿など。
言葉も幼児的になり、いやいやと首を振るその仕草たるや、普段の棗からは想像もつかぬほどの痴態である。

ギャップというものはいつでも異性の心をとらえて放さない。
今回、棗が見せたそれは、有真にとっては、直球だった。

かたちこそ棗に押し倒されてはいる有真ではあるが、主導権を握っているのは彼である。
棗の体は相当に敏感であるようで、胸を有真に揉まれるだけでぴくぴくと体をくねらせて、全身脱力の状態。

「ぁぁ、ゃあっ……!胸、むねばかり、やだ、やだやだぁっ……!」
「あ、ごめん。じゃあ、こことか」
「ひっ!?」

次に有真がさわった場所は、あろうことかへその穴周辺。
滑らかな傾斜を描く棗の肌は、健康な成人男性ならばひっぺがしてむしゃぶりつきたくなるほどの色香がある。
だが、眼前であえぐ少女のあられもない痴態に魅せられた有真は。
その傾斜よりも少女の顔にばかり集中していて、一瞥もせず。

「ゃ、ゃあぁぁっ……!おなか、撫でないで、やだ、冷たいの、や」
「……すみません、俺、サディストの気持ちがほんの少し分かりました。ゆえにやめない」
「ぁぁぁああああっ!?つまんじゃやだ、やだやだやだぁぁっ、やめ……んあぁっ!」
「わ、エロすぎ……」

言葉こそふざけている有真ではあるが。
ふざけでもしないと棗を押し倒してめちゃくちゃに犯してしまいそうなので、そうしているまで。
男の独占欲とでもいおうか。欲望は、好いた相手があえいでいることを察した際、嗜虐心となりて本能を猛らせる。
ましてや、棗のその容姿たるや、人形はだしの姿。
いつものすまし顔はそこになく、ただただ触られあえぐ、『女』がひとりいるだけだ。

その姿は、あまりに凄艶。見ればよだれどころか精液を垂れ流しにしかねない、そんな艶やかなる痴態だった。

棗が身をくねらせば、彼女の身を包んでいた制服はどんどんと乱れていく。スカートがひるがえり、その奥が有真の目に映る。
飾り気のない、白色の下着。彼女の白い肌によく似合うそれは、傍目からもよく分かるほどの大きな染みを作っていた。
そんな光景を間近で見せられれば、さすがに有真も理性が危険領域へと達する。というよりも、そこに片足を突っ込んでいた。

有真は躊躇もせずに、棗の下着を剥ぎ取る。そこの辺りの工程は全く記憶にない。
理性という回路が焼き切れてしまったのか、それとも下着の問題など些事と考えていたのだろうか。
とかく、濡れて光る桃色の秘所を目の当たりにした有真は、自分でも驚くほど冷静に棗の姿を見やっていた。

上気した肌、荒い吐息、ぴくりぴくりと震える小柄な体躯。
制服はほとんど脱げかけている状態で、髪も乱れ、情交後の姿と錯覚してしまうほど。
不安げに開かれた口からは、とろとろと唾液が流れ落ち、棗自身の肌と有真の制服を濡らしに濡らしていた。
垂涎必至、その艶姿は、同級生をして『朴訥』と言わせしめた有真の理性を、あっという間に崩壊寸前へと追いやった。

「やだ、やぁ……!見ない、で……!」
「ごめん、無理。オス個体はこういうのに興味ありんす」
「い、異様なまでに冷静なのが、こっちにしてみれば屈辱……!」
「謝罪はする。けど、本当にごめん……。正直、そっちが美形すぎてやばい」

ふざけた物言いにもいささか力がなくなってきたことを感じながら、有真は棗を攻めた。
文字通り、攻めたのである。

膣の近くにそびえる淫核を指の腹で圧迫し、折りたたんだ指を膣に入れてかき回し。
乳房の先端部をひっぱり、へそのあたりを指の腹で撫で、つまみ、軽くつねる。
とかく、今だけでも思いつく前戯を、有真は棗の体に叩き入れた。

反応は、劇的だった。

「ふあぁぁぁぁぁっ!?やあ、やだ、そんなの駄目、それ駄目、怖い、やだ、あああぁぁぁぁっ!」
「大丈夫……だと思う。制御は、してるから……一応」
「そ、そんな言い方されても信憑性ゼロ、って、ちょ、やああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「本当にごめん、その、止まらない」
「やらぁ…っ!こんなの、こんなの、あ、んあああぁぁっ!」

有真は性交の経験がない。
ゆえに、知識と勘のみで相手の体を開発せねばならなかった。
が、この時にふたりとも予測出来なかったのは、有真がそっちの方面において、抜きん出た才をもっていたこと。
天稟(てんびん)の指づかいは、棗の理性すらをも瓦解させるほどの威力だった。

「は、はあぁぁっ……!だめ、らめ、ぇぇぇぇ……!わたし、もう、わたしぃ……!」

焦点の合わぬ目で虚空を見つめる棗の姿を見て、ようやく有真に正気が戻る。
気付いた時にはすでに遅し。棗は、有真の技術に、溺れていた。

「だ、大丈夫!?」
「こんなの、こんなのぉぉ……!はじめてなのに……!私、はじめてだったのにぃぃぃ……!」
「な、棗。あの、その、これは」
「こんな、こんなにされて……!恥ずかしくてぇ……!」

やっちまった、と有真は思うも、その瞬間に視界は暗転。
有真が気付けば、いつの間にやら体勢が入れ替わっていた。
棗がその小柄な体を用いて、上下を反転させたのである。当然、有真は棗を押し倒すかたちとなる。


「でも、さ……。嫌じゃなかった。好きな人にこうされるって……こんなにも幸せなんだね」


衝撃。
有真にとっては、棗の照れたようなその発言は、強靭にも過ぎる鋼鉄の剣となりて理性を砕く。
絶対強者の誘惑行為は、絶対不可避の一撃。


剣崎 棗の言葉は、佐藤 有真の最後の良心を、木っ端微塵に破砕した。

「棗」
「呼んで」
「棗、棗」
「もっと呼んで」

「棗、棗、なつめ」
「もっと呼んで!もっと私を縛って!もっと私の私でいさせて!もっと、あなたの私でいさせて!」
「棗っ!」

「来て」

余計な言葉はいらなかった。
ただ、互いが互いを認識し、互いの存在を認め、分かち合った際。

有真の股間から伸びる生殖器は、棗の秘所を貫いていた。

「ぅあぁッ……!」

あっけなく。
本当にあっけなく。時間にしてみれば一秒あったかどうかの間で。
有真の股間から伸びた剛直は、棗の濡れそぼった秘所を貫いていた。

肉体的快楽は、有真の身にはほとんどなかった。
何故だろうか知らないが、生殖器の感覚すらどこかおぼろで。
まるで、棗という個人に生命も五感も全て吸い取られてしまったかのよう。


されど、精神的な快楽は――筆舌に尽くしがたい領域のそれだった。


「ゆう、ま……!わたし、わたし、セックス、できたよ?」
「?」
「こんな、私でも、出来たんだよ……!?好きで、好きを好きって、主張出来たんだよ……?」
「棗……?」
「あなたを、好きでいて、良かった。あなただから、出来た。だから……ね? 動いて?」

有真の肉槍に貫かれた棗の秘所からは、血が流れ落ちることなどなかった。
いつも暴れている彼女のことだ。運動した際に処女膜が切れてしまったのだろう。
それに、血の有無など関係ないしくだらない、そう思い、有真は腰を動かした。

「あああぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁッ!?え、だめ、こんなの、強すぎ、強すぎちゃう、あああぁぁぁっ!?」
「ちょ、待った、エロすぎ……」
「いやぁ、いやあぁぁぁっ……!言わないで、はずか、恥ずかしいのおぉぉっ……!」

ぐちゅり、と淫水の音が教室内に響き渡る。
性器と性器の結合した部位は、棗が分泌した白濁の液に染まり、そこここに水音を振りまいている。
痛々しく割れた女性器を、有真の暴力的な形状の肉槍が蹂躙する。
体液が飛び散り、あえぎ声は響き渡り、淫らな匂いがふたりの体を中心として広がる。

淫猥、淫靡、凄艶。いかな言葉をもってしても、交わるふたりの姿は表現出来ない。

「棗、なつめっ……!」
「もっと、もっと、もっとしてぇぇぇぇぇっ!塗り替えて!染めて!お願い、ゆーま、おねがいぃぃぃっ!」
「俺、そろそろッ……!」
「……ッ!欲しいの……!ほしぃのぉぉぉぉぉっ!」

懇願するかのように放たれた棗の言葉。
それでも、有真は理解することが出来た。
ただ、それだけで理解が出来た。


「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


獣のような声を上げる棗。それは、絶頂と称するよりかは咆哮。
快楽の大海嘯(かいしょう)に身を震わせる棗の姿を見て。
有真の股間も彼女に呼応するかのように痙攣し。
有真は、彼女の膣へと粘性の高い液体を放ちに放ち、最後の一滴まで注ぎ込み。



そこで、有真の意識は、白濁、のちに暗転した。


雪が降っている。
白い、白い雪。
それは、小さな校舎を埋め尽くし、白に染め、原型をおぼろなるさまにしていた。

ちらほらと降る雪は、冷たいその身をそこここにある者へと、その体温を提供する。
ぺそりぺそり、と地に落ちる雪の欠片。その姿を遠い目で見やりながら。

佐藤 有真は、背後の気配を感じながら、小さく嘆息した。

「……ここにいたのね」
「うん。屋上はいいよ、本当に。空からの恩恵を、地に這う人よりも先に受けられる」
「ひねくれ者」
「否定はしない」

ざり、と雪を踏む音を鳴らしながら舞い降りたのは、漆黒の髪を流す少女。
屋上という空間内において、黒を黒のまま主張する彼女は、冬という季節にはあまりにも不釣合い。
されど、彼女は屋上へとたたずむ青年のもとへ歩み寄り、そのまま抱きついた。

温かな笑みを浮かべる青年。温かな雰囲気をまとう青年。

棗は、有真の体を感じていた。

「病気、研究は?」
「未だに進展なし。……発作も、周期が短くなっているわ」
「そっか。……あーあー、やだねぇ、運命様ってのは」
「有真。……それでも、私はつきまとっていい?」
「答える必要、ないんじゃない?」
「それもそうね」

黒髪を流し、棗は有真のそばに寄り添った。
その行為には、昔日にありし劣等感の気色(けしき)など微塵もなし。

「……あったかいね、有真は」
「心が冷たいから」
「それは違う。……恋、しているからじゃないの?」
「かもね、まだ実体はつかめないけれど」

棗は、有真に抱きつく。胸の辺りに手を這わせ、ゆっくりとゆっくりと愛撫していく。
じゃれつきそのものの仕草。性的な意味合いなど全くないその行為。
ただ、相手が相手であるために。
相手の存在を感知するために行われるそれは、性的な意味合いなど寸毫微塵たりともなかった。

「棗は、変わったね」
「そう?」
「ずいぶん、前よりもさらに積極的になった。劣等感とか、もうなくしたんじゃない?」
「そうじゃない」

棗の手は、震えていた。歓喜ではない、怯えの色彩。

「……過去の自分に、決別は、出来ないの。でも、いいの。私は、変わった、変わってしまった」
「原因は?」
「あなたのせい。……ね? 病は気から、というけれど」
「うん」
「気は病から、と私は思うわ」
「……棗がそうなったのも、それのせい?」

どこか探るような有真の言葉に対して、棗は満面の笑みと、それに付随する言葉で返した。



「恋の病。すんげぇ恥ずかしい台詞だけれどね。
それが私を変えたの、少しだけ。
……だから、気は病から」


屋上で空を見ながら笑う棗の姿を見て、有真は微笑んだ。

これから先、彼女の身がどうなるのかは誰にも分からない。
もしかすると明日にでも逝ってしまうのかもしれない。
棗と有真が共に歩いた先に、未来に、幸福というものが待っているとは限らない。

だが、それでも。

「さ、行こうか、一緒に」

手は引っ込めない。有真は棗に、手を差し伸べる。
対する棗はしばしの逡巡ののち、満面の笑みを浮かべてその手を取った。

「また、さぼっちゃったね」
「一緒にな」
「一緒じゃないと意味がないから」
「そのとおり」

雪が降っている。
小さな白い粒が、欠片が、ふたりの身に降り注ぐ。

「やっぱり、寂しいとか怖いとか、悲しいとか、そういった感情はあるのよ」
「うん」
「でも……苦痛じゃない」

有真の右手に、熱がこもる。棗の手が、有真の手をきつく取っている。
言葉にせずとも、顔に出さずとも、ただそれだけの仕草で察することが出来た。




――つらいことや悲しいことがあったとしても。

――私を、少しだけ変えてくれたあなたがいるのならば。

――日々を、毎日を、笑ってすごすことが出来ます。

――明日の空を、待ち続けることが出来ます。

――この、空から降ってくる雪のように。

――あなたと、一緒に、ずっと一緒に。

――溶けて、しまいたい。



空は残酷なほどに美しい灰色、雲の数々は誰の上にもへだたりなく広がる。
空と雲、その隙間から出でた小さな小さな光は。
地の上で溶けるのを待っていた積雪へと照射され、反射光となって。

有真と棗の、その手を、淡く、照らした。

――ふたり、一緒に。


(おわり)




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