病室はお静かに(非エロ)
シチュエーション


病室のドアを開けると、それまで歩いていた廊下の病院独特な匂いが少しやわらいだ気がした。
広めの個室には、いつも通りあいつがいた。ベッドにちんまり座って、何とはなしに投げていた視線だけを窓からオレに向けて。

「…よぅ。」

声をかけられたあいつは、目をこっちに合わせたまま、返す。

「…うん。」

オレたちの会話は、だいたいこんな感じだ。


大森 水香。
名前を呼ばなくなってから、ずいぶん経つ。
小学生くらいの頃から見知っている、オレの幼なじみ。
よく遊んでた。同じ小学生の奴らとひとかたまりになって、あっちに行ったりこっちに行ったり。
水香はいつもニコニコしながらついて来てた。

学年が上がってクラス替えしても、オレたちはよく遊んだ。水香も呼んで。
水香はやっぱりニコニコしながら、少し遅れてついて来てた。

卒業して中学生になっても、相変わらずオレたちは遊んだ。水香を呼んで。
水香は……ついて来れなくなっていた。
ひどい息切れをして、ガードレールにもたれかかって、胸を苦しそうにかきむしって。

救急車を呼んだりして大騒ぎした後日、けしていたずらに言いふらしたりしないように、と集めたオレたちに前置きして、医者は伝えた。

水香は生まれつき、人より体が弱いこと。
様々な場所に行くうちに、何か体に悪いものを吸い込んでしまったらしいこと。
それでも歩き回ることで体に無理がきて、悪いものに拍車をかけてしまったらしいこと。
そして……、言いにくそうに顔をしかめて、医者は言った。
けして死んでしまうような状態ではない、だが今までのように遊ぶのは………少しの間我慢してほしいと。
それが、今から数年前。

水香の入院生活が始まって間もないうちは、よく遊び仲間も見舞いに来てた。
具合が悪いならなんで言わなかったのと泣いたり怒ったりするオレたちに、あのおとなしい水香が珍しくはっきり言った。
だって楽しかったから。
みんなといるのが…楽しかったから。
言葉に詰まるオレたちに、水香はこうも言った。
いつもといっしょだよ。私はちょっと遅れてついてくから気にしないで。
すぐに治るからお見舞いにも来なくていい。あんまり私にかまってたら、みんなも遅れちゃうよ。だから気にしないで。

…思えば、水香がこんなふうに自分の考えをはっきり口にするのは、長く付き合ってきて初めてだったかもしれない。

そうして数年の時が経つ間に、仲間は歩みの遅れ始めた水香を何度も何度も振り返り、幾度となく手を差し伸べ、他でもない水香自身にその手を振り払われた。
それを繰り返す内に…一人、また一人と仲間は離れていった。何も力になれないと、悔しさに肩を震わせて。

…残ったのは、オレ一人。

高校生になったオレは、今でも二週間に一度、かかさずに病院に顔を出している。
他の仲間とは事情が違うから、オレだけは通うのを絶対にやめない。

病院生活が続くうち、水香は変わった。
夏の頃にはよく焼けたねと言い合っていた肌は、長く続く病室での毎日に少しずつ薄れ、透けるほど白くなった。
もともとあまり口数の多い方ではなかったが、診察を静養という退屈な日々が徐々に話題をなくし、声を聞くのも珍しくなってしまった。
そしてなにより、遊びに出かけていた時の、あの嬉しくて楽しくてたまらないと言わんばかりのニコニコが水香の顔から消えてから、…もうどのくらいだろう。
今の水香は、薬を飲み、静養して診察を受け、体が快方に向かうのをただ祈り、そして眠る――。
そんな日々を送っている。

…大森 水香。
それが、あいつ。

今日も、来てくれた。

お母さんが持ってきた、子猫のジグソーパズルを覗き込むようにして、あの人が顎をつまんでる。
考え込んでいるときの、あの人のくせ。私は本を読むふりをして、そんな仕草を盗み見ては目をそらす。
ばらばらのピースはまだ山のようで、なかなか一枚の絵にならない。
いつまでも完成しなければいいのに、なんて思ってること知ったら、あの人は怒るかな。


松崎 洋一。

…よーくん。

私の『とくべつ』な人。
私を「普通」に変えた人。

小さな頃から、少し暑かったりするだけで、おなかが痛くなった。
ちょっとおにごっこをしただけなのに、目の前がぐるぐるして、気がついたら倒れてた。

…次の日には、みんなが知ってた。

『あの子は、ビョウジャク。』

…ビョウジャクだから、遊んじゃだめなんだよ。
…ビョウジャクは、ろうかを走れないんだよ。
…ビョウジャクにさわったら、病気がうつるよ。

…ビョウジャクが来たぞー…

その日から、私はビョウジャクになった。

(水香ちゃんは、ちょっとまわりの子とは違うのよ。『とくべつ』なの。)

泣きながら帰ってきた私に、お母さんはそう言ってなぐさめてくれた。
けど私は、『とくべつ』なんていやだった。

普通の子が、うらやましかった。
普通の子は、ドッジボールができる。私はできない。
普通の子は、おにごっこができる。私はできない。

どんどん私は一人になった。
一人で学校に来て、一人で給食を食べて、一人で家まで歩いて帰る。

…楽しくない。

全然、楽しくない。
毎日、早く学校が終わらないかなって思ってた。

――そんな、帰り道。

(ねえねえ、『たんけん』しない?)

声をかけてくれたのが、あの人。

(みずかっていうの?じゃあ、ミッカちゃんだね!)

その日、私に初めての友達ができた。
あの人と、ケンタくんと、ミキちゃん。みんなクラスはばらばらだったけど、帰り道が一緒だった。

…初めての『たんけん』。

楽しくて、嬉しくて、ずっと笑ってた。
見つけた公園で「おにごっこしよう!」って言われて、真っ青になった。

(どうしたの?)
(…わ、私、おにごっこは…)
(いやなの?)

《ビョウジャク…》

(は、走るの…は…)
(じゃあ、かくれんぼしよう!)
(え…)
(だめ?)
(………………いいの?)
(なにが?)

《ビョウジャク…》

(………おにごっこ、できなくて………いいの?)
(いいよ?早く遊ぼうよ!)
(…………)

その日も、暗くなるまでめいっぱい遊んだ。
ちょっとだけ泣いていたのは、ひみつ。

あれからずっと、みんなは友だち。
中学生になって、私の体に変なものが入って、みんなと遊べなくなるまで、ずっと。

「…じゃ、そろそろ行くわ。」
「あ……。」

立ち上がって言う彼に、私はいつも通り答える。

「……うん。」

ドアまで歩いていって部屋を出る前に、彼は振り返って声をかけてくれた。

「またな。」
「…。」

少しうなずいたのを見ると、彼は満足そうに微笑んで、家に帰っていった。

「……。」

さっきよりもいちだんと静かになった病室に、私の独り言がこだまする。

「…かえっちゃった…。」

寂しいのと、少し安心したのと。ちょうど半分くらいのため息。
寂しいのは、もちろんあの人がいなくなったから。
安心したのは…、今日も、あの人の前で、発作が起きなかったから。

あの人も、ミキちゃんも、ケンタくんも、みんな私の『とくべつ』。
みんなのことは、好き。すごくすごく、好き。
でも、好きだから……会いたく、ない。
みんな、私が発作を起こすと、すごくつらそうな顔をするから。
ごめんね、なんて謝ったりするから。

…悪いのは、ぜんぶ私なのに。

私のせいで、みんながつらそうにしてる。
私が治らないせいで、みんなを苦しくさせてる。
そんなのいや。
絶対に、いや。だから、だから………

私のことは気にしないで。
お見舞いにも、…来なくていい。
会えなくて寂しいけど、私が治ればぜんぶ元通りだから。

…治ったら、すぐにみんなに会いに行くから。

「…ぐす…」

そうしたら聞かせてね。みんなのいろんな話。

「ぐすっ…」

私もね、話したいことがいっぱいあるんだ。

ミキちゃん、誕生日にくれたイルカのペンダントのお礼、まだしてないよね。
すごくすごく嬉しくて、つけるのがもったいなくて、今でも大切に引き出しのなかにしまってるよ。

「ぐすっ…はぁあ…」

よーくん、今年の夏はどんな所に行くの?
私にまでおこづかいをくれた、あのおばあちゃんは元気にしてる?

「はあっ…、はあっ…」

ケンタくんが拾った子猫はもう大きくなった?
名前はなんて呼ぶの?
よーくんに聞いたら話してくれるかな。でもだめだよね。

「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ…」

私、話を聞いたらみんなに会いたくなっちゃうもんね。
だから治ったら。ぜんぶ、治ったら…。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ…」

治 っ… ら、…話…… て …

「……ぅぶ!?」

しゅうっと音がして、目の前がはっきりしてくる。

「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ…」
「ゆっくり息をして!大丈夫、落ち着いて…」

看護士さん…?ユキさん…だ…。
いつもの酸素のスプレーを、私の口に当てている。

「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ…」
「そうよ、ゆっくり…痛いところはない?」

…いたい…?

気がついたら、私は床に寝ていた。

「はあっ…、はあーっ…」

…ああ、ベッドから落ちちゃったんだ。今になって、体がじんじんし始める。

「大丈夫よ、すぐに先生も来るから…」
「はぁ…、はぁ…ぐすっ…」

じわっと涙がわいてくる。やっぱり、みんなにはまだ会えないよ。
こんな姿、こんな私、見られたくない。

「落ち着いて…」

もういや…。こんなの、いや…。
こんな体、こんな病気、早く治して……、
なお、して……

「みんなに……」

よーくんに。
ミキちゃんに。
ケンタくんに。


「…あい、たい……。」


酸素スプレーをあてがったまま、大粒の涙を隠そうともせずに泣きじゃくる水香を前にして、

「……そうよね……」

若い看護士は、自分も泣きそうになるのを懸命にこらえていた。






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