この春に、桜と君とエピローグ(非エロ)
シチュエーション


抜けるような青い空の下、淡い色の花弁が舞っている空間の中で、僕は一つ嘆息を零した。
随分と長い歳月が過ぎて、僕ももう大人と呼べる人間となっていた。
けれど、幾ら僕が大人として心身ともに成長を遂げたとしても、心の内には絶対に変わらぬものがあった。それ
は未来永劫、決して変わる事のない絶対不変の僕だけの想い。
その想いが確立したあの時の事は今も鮮明に覚えている。何故なら、あの日はずっとすれ違っていた僕達が漸く
その糸を手繰り寄せる事が出来た日だからだ。

今はもう、この手にその糸は残っていないけれど、だからこそあの日が尊ぶべきものになっている。過去に囚わ
れている訳ではなく、あの過去があったからこそ僕は此処まで歩いて来れた。彼女には幾ら感謝してもし足りない
くらいに色んなものを貰った。お礼をしたくても、もう僕の声は彼女の耳に届く事はないけれど。
想い出の、この場所に僕は毎年足を運んでいる。住居も変わり、此処に気軽に来る事は出来ないけれど、桜が咲
き誇るこの季節には必ず訪れるのだ。
そして、来る度に思う事がある。
それは僕がどんなに長い時間を掛けても答えが見つからない自問だった。
彼女でなければ、この問いに答えられる者は居ないのだ。
けれど、彼女はもう居ないから、僕は心の内でずっと同じ自問を繰り返す。彼女ならば、こう答えてくれるだろ
うか、こんな笑い方をして僕をからかってくるだろうか、そんな事を考えつつ。
そして、その度に悔恨の念が湧き上がり、どうしようもなく泣きたくなる衝動に駆られてしまうのだ。

想いを通じ合わせる事はもっと早く出来たはずなのに、僕はそうする事が出来なかった。彼女の必死の慟哭に気
付いていながらも、僕は何もしなかったのだ。僕が行動を起こした時に、彼女は既に死を宣告されていた。
それでは遅すぎたのだ。だからこそ、僕は今も後悔している。あの不毛な時間をもっと有意義なものに変える事
が出来ていたならば、僕はこんな後悔もしなかっただろうから。
けれど人間は過去に戻れはしない。僕達は、過去の過ちを忘れる事なく前を向いて生きて行く事に決めたのだ。
僕達の想いが通じ合った、あの春の日に。
あの日、彼女は子を身籠った。
それは至極当然の事でありながら、僕に言い知れない不安と喜びを感じさせた。彼女のお腹に宿った命は、疑い
ようもなく僕と彼女の間に出来たものだったからだ。彼女の体は不安定だった。それ故に不安で、けれど僕達が生
きた証が出来た事がそれを上回る喜びを僕達に与えてくれた。
発作に苦しみ、次第に体力を失っていくだろう彼女は出産をするのなら死は覚悟しなければならないという診断
を受けた。そのまま子供を産むかどうかの決断を迫られたが、担当医師にその旨を伝えられた時に彼女は間髪すら、
思考の逡巡すら見せずに「産みます」と言った。
それは同時に、生き続ける覚悟と、死の覚悟を同時に決めた瞬間だった。
僕は最後まで彼女を応援する事にした。
例え子供を産もうとして、彼女が命を落とす事になろうと、彼女が決めた決断を僕が否定する訳にはいかなかった
からだ。彼女が居なくなってしまう事を考えると、それは断腸の思いではあったけれど、彼女の強い目の光を見る
と不思議と安心感が込み上げてきた。だから、僕も覚悟を決める事が出来た。
彼女を失うかも知れない覚悟と、そして生き続ける覚悟を。
それは僕に生きると言う事をこれ以上になく実感させた。どんな事があっても、生き続ける覚悟を僕はまだまだ
餓鬼だった心に堅く決めたのだ。その道は、過酷なものではあったけれど。

それから色々な事があった。彼女が逝くまでの間に、本当に色んな事があった。とてつもなく密度の高い日々を
僕達は送った。彼女が元気な姿を見せていられる間だけは、僕も元気でいる事が出来た。
お互いの両親に僕達の関係を告げた時は、双方ともに驚く事はしなかった。ただ、暖かい笑みを浮かべて応援す
る、と言ってくれた。春香が妊娠した時も、それは同じだった。お陰で僕達の方が拍子抜けしてしまった。特に僕
なんかは、何か言われても反論の余地なんて無かったから。
それから、両親たちの協力もあって、僕達は形式だけの結婚式を挙げた。その前に彼女にあげた、安物のシルバ
ーリングは彼女の左手の薬指に光っていた。形式だけの結婚式は何処か寂寥が漂う小さな教会で行われたが、それ
でも僕達の心は満たされた。彼女に永遠の愛を誓う事がこんなに嬉しい事だったなんて、知らなかった。
彼女と一緒に、育児の本を読み漁った事もあった。着せる服、与える玩具、女の子だろうか。男の子だろうか。
そんな色々な事を話して、希望に胸を膨らませた。着せる服とかは彼女の意見と衝突する事もしばしばだったけれ
ど、名前は何にしようか、と僕が言ったら僕達は揃ってこう答えた。
女の子でも男の子でも、桜。
そうして、二人で笑い合った。

それから彼女の命は徐々に蝕まれて行った。
発作の周期が急速なペースで縮まっていき、日を追うごとに眼に見えて彼女は顔色を悪くしていった。発作に苦
しむ彼女の姿を見るのも、一度や二度の話ではなくなっていた。
彼女に会いに行く度に、彼女は発作で苦しんだ。その度に僕は彼女の手を握っていたが、その苦しみようは半端
なものではなくて、僕の手が砕けてしまいそうな力で彼女は僕の手を握った。
発作に見舞われる度に彼女は強い目の光をより一層強くした。お腹に宿る小さな命を守りたい一心で、自らに降
りかかる苦痛に耐え抜いた。けれど、体が限界を訴え始めるのも時間の問題だった。
彼女が子を身籠ってから半年と数カ月が過ぎた辺りには、彼女はベッドから起き上がる事も困難な状況になって
いた。発作の周期は、限りなく短くなっていて、もうその痛みすら麻痺してしまっているようだった。
それでも彼女は耐えた。
苦しい発作に歯を食い縛って耐え、僕の手を握って何時までも耐え続けた。僕はそんな彼女を見るのが辛かった。
僕は彼女の手を握って支える事しか出来なかったから、その度に自分の無力さに苛まれた。
けれど、彼女はそんな僕の姿を見る度に、発作で苦しいはずなのにその唇に緩やかな曲線を描いて微笑を称え、
「大丈夫だから」と言った。それは何よりも僕を救う慰めの言葉だったが、それ故に辛かった。
だけど、彼女は発作が治まって余裕が出来た時に決まってこう言うのだ。
"彬も辛い思いをしてるんだから、同じなのよ"、と。それに潔く納得する事は出来なかったけれど、それでも幾
らかは救われる気がした。何よりも、自分の身が大変な状況であるはずなのに僕の事を気に掛けてくれている事が、
僕を落胆に沈める事を許さなかった。
そして、とうとう彼女は出産の気配を見せた。その時には、子を身籠ってから実に十か月が過ぎていて、何時出
産してもおかしくないくらいの時期だった。けれど、それと同じように彼女の発作の周期はもっと短くなっていた。
出産の準備が出来ても、その間に発作が起こる確率は高過ぎた。
それでも彼女は出産を決意した。もう、歩く事さえ覚束なく、喋る事さえ難しくなっていても、子を産む事を決
意したのだ。僕は始終彼女に付き添った。出来る事と言えば、彼女の手を握り続ける事ぐらいのものだったけれど、
少しでも力になりたかった。そして、彼女もそんな僕の心持を嬉しく思ってくれているようだった。
出産は、難産を極めた。
体力が著しく低下していた春香には負担が大きすぎて、とても耐えられるものではなかったのだ。
そして、彼女がとうとう子を産んだ時には、その少なすぎる体力はとうに枯渇していた。過酷な試練に耐え続け
てきた彼女の命の灯火は、風前の灯火と言う他無く、周りで叫んでいる医師達の声がそれを示唆していた。
彼女の最後の言葉は今も鮮明に脳裏に焼き付いて、僕を離さない。
慌ただしく医師達が動く中で、彼女は僕に囁いた。蚊の鳴くようなか細い声で、精一杯に自分の気持ちを伝えよ
うとした。そして、僕はそれを確かに聞き取ったのだ。
周りの喧騒が一切消えて、僕達二人だけになったかのような静けさを感じていた。その中で、彼女は言った。胸
に小さな命を抱え、本当に、本当に幸せそうに、言った。

"ありがとう、よろしくお願いね"

その言葉は、僕の心を震撼させて、何もかも無視して叫び出したい衝動を僕に与えた。言葉には到底表わせず、
この世のどんな美しいものもその言葉には敵わない。
その後彼女は、優しい微笑を称えて、それきり動かなくなった。
何かの機械の高音が五月蠅く室内に響き渡っていた。
僕は力なく垂れた彼女の手を、尚も強く握り締めていた。
何が起こったのか、僕の頭は理解しようとしなかった。
けれど、現実は重く僕に圧し掛かっていて、僕は人目も憚らずに大声を出して泣いた。
周りに居た医師達の誰もが慌ただしい動きを止めていた。最早、彼女に尽くす手は底を尽きていたのだ。新たな
る生命を産み出して、春香はその温もりに数秒触れただけで、逝った。
そして、その途端に加わった泣き声は僕のものと混じり合っていた。動かない彼女の胸に未だに抱かれていた小
さな命は、彼女の死を悲しむかのように大声を出して泣いていたのだ。
僕はその体を抱き締めた。
彼女の体ごと、出来るだけ優しく抱き締めた。
そうして僕が冷静になった時には、既に彼女の遺体はあるべき場所に在った。
葬儀では、僕はもう前を向いている事が出来た。
彼女は言ったのだ、他の誰にでもない、この僕に、

"ありがとう、よろしくお願いね"、と。

だから、僕は彼女との間に出来た子供を抱きながら、彼女の冥福を祈った。有りっ丈の感謝と愛情を以てして、
彼女を見送った。涙は出たし、悲しくもあったが、不思議と僕は落ち着いていた。
彼女を弔うのに、取り乱したくはなかったのかも知れない。そうすれば、きっと彼女は"男の癖に"なんて言って
僕をからかうだろうから。
葬儀の日に降っていた雪は、とても冷たく、そして暖かった。

――僕は今、目的を持っている。
医師になる、と言う中々壮大で難しい夢だ。
彼女が逝ってから見付ける事が出来るなんて、皮肉な話だけれど、一人でも多くの人を救いたいと思った。僕と
彼女のような人達を救いたかったのだ。
それらは全部、彼女が教えてくれた事だった。彼女の人生を通して、僕が教わった事だ。
未だに収まらない感謝の気持ちは彼女に伝えられないけれど、彼女が今も僕達を青空の向こうから見守っていて
くれていると信じて、僕は日々彼女に感謝している。

そして、僕に抱き抱えられているこの子もきっと、君に感謝していると思う。目元が君にそっくりな子だ。唇の
形なんかは僕に似ていると人は言うけれど、それこそが僕と君との間で出来た子だと証明する特徴なのだろう。

「――桜、お母さんに挨拶しようか」
「うんっ」

僕がそう聞くと、四歳になったばかりの桜は元気よく頷いた。そして、僕が教えた通りに僕達の前で咲き誇る桜
の木に向かって手を合わせ、祈った。
僕はそんな桜の様子を微笑を称えて見守ると、同じように桜の木を見上げた。雄大に聳え立つその木は、僕達を
見下ろして、春の風に吹かれて花弁を舞わせている。
そんな、何処か幻想的な風景の向こうに僕は見た。
彼女が桜の吹雪に抱かれながら僕達に向かって手を振っているのが、確かに見えたのだ。
僕は、自問する。
僕では決して答えの分からない自問だ。その答えを知っているのは、今は亡き彼女だけで、僕に出来るのは彼女
だったらどんな答え方をするのだろう、どんな笑いを称えて言うのだろう、と想像する事だけで。
それでも、今日は、今日だけは。
何かが違うと思えたんだ。この桜の向こう側に、君が居るように思えたから。

――春香、君は今幸せだろうか?

今ばかりは自問ではなく、君に宛てたこの問いを。春の匂いを運んで、桜の花弁を掬うこの風に乗せて届けよう。
すると、君は幻想的な風景の向こう、満面の笑みを浮かべて僕らに向かって大きく手を振った。
そして、僕には確かに聞こえたのだ。春香の凛と透き通る優しい声が水の潺湲よりも綺麗な声音が、この幽邃な
景色の中に木霊したのだ。

"当たり前!"

と、最後に春香はそう言い残して。
柔らかな風が、舞う花弁を全て運び去った時には、春香はもう居なかった。
抜けるような青い空の下、僕達の見詰める先にある桜の木に向かって、二人して手を振った。それに応えるよう
にして、一陣の風が僕達の髪を撫でて、過ぎ去って行った。

僕はもう、生きる意識に希薄な人間ではなかった。
僕に生の原動力をくれていた人はもう居ないけれど、それでも僕は毎日の生を実感しながら生きている。春香が
逝去してから気付くなんて皮肉な話もあるものだと思ったけれど、僕の生きる原動力は春香のお陰で見付かったの
だ。

「ありがとう」

彼女が逝く前に残した言葉を言ってから、僕は桜の身体を抱き締めた。




――完






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