囚われの身の、お姫様(非エロ)
シチュエーション


鳥の囀りが心地良く朝の陽が差し込む窓から聞こえている。空に漂う雲は悠久の時を人に感じさせるが如く緩やか
に流れ、青の絵具を白いキャンパスの上に塗りたくったかのような快晴の広がる空には颯爽と雀達が飛び交っていた。
窓から差し込む陽の光は、その部屋の全貌を余す事なく照らし出し、その部屋の中央に置かれている寝台にも降り
注ぐ。そこに横たわる人影が、朝陽に瞼を照らされて小さく身じろぎ、億劫そうに呻く。しかし、未だ深い眠りに就
いているその人は身体をまだ起こさなかった。

この部屋に居るのはただ一人であるようだった。それにも関わらず、この部屋は一人で使うには余りにも広く、そ
して余りにも豪奢だった。何処も彼処も見るからに高級そうな家具がその存在を誇示し、そこに在るのに意味は無い
であろう壁に掛けられた絵画は金の額縁に収まって、更にその価値の凄まじさを彷彿とさせる。
まるで、一国の主が住まう城の一室のようなこの部屋は、それこそそれ相応の威厳がある一国の主が住まうに相応
しいとも思えるが、寝台にて穏やかに寝息を立てている少女は、そのような想像を裏切る容貌をしていた。
けれども、この部屋に住まうに相応しくないと云う訳ではなく、むしろ彼女こそがこの部屋の一部であるかのよう
にその姿は部屋の背景に溶け込み、同化している。
純白のシーツに広がる髪の毛は、金塊の如く朝陽を跳ね返して金色に輝いている。その繊維の一本一本が糸よりも細
く、さながら綺麗な黄金の水の潺湲を思わせた。寝巻きから伸びる、雪国に積もる真白な積雪のような肌は人形のよう
で、目鼻立ちの整った顔は美しいと云う他なく、可憐とも美麗とも、どちらで形容しても一向に差し支えなかった。
そのような容貌を持つ彼女は照り付く朝日にとうとう敗北を喫したのか長い睫毛が伸びる瞼を漸く開いた。そこか
ら覗く碧眼は宝石の如く炯々と輝いていて、その輝きは彼女の容貌を合わせれば太陽にさえ敵うのではないかと思える
ほどに神々しく、輝かしく、そして何より、美しい。

彼女は、容赦なく降り注ぐ陽光に目を細めると、腕を傘にそれを遮って身体を起こした。ぎしりと軋む寝台の上に上
体を起こして座り、大きく伸びをすると一気に身体の力を抜いてぼんやりと窓の外に目を向ける。そこにはやはり、窓
枠に飾られた絵画のような青空が広がっていた。

「朝ね……」

一言、恨めしそうにそう呟くと、彼女は欠伸を一つ噛み潰して寝台から脚を下ろした。裾が七分辺りまでの寝巻きか
ら覗いた足もまた、細く頼りなく見えたが、彼女を美しく魅せるのに相違はなかった。
そして、彼女が起き上がるタイミングを予め予期していたかのように、豪勢な装飾が施された扉がコン、と叩かれ
る。彼女はまた、忌々しげな表情を作りながらそこを見遣り、呆れたように嘆息した。
「入りなさい」と、一言呟きながら。


――「囚われの身の、お姫様」


「失礼します」

細く、低い男の声が丁寧な挨拶を扉の向こう側で云った。そして僅かばかりの逡巡の後、ゆっくりと扉は開かれ、そ
こから一人の男が姿を現した。
漆黒に染まるスーツに身を包み、襟元に蝶結びで赤いリボンを付けている。胸元から見える白いワイシャツは黒とは
対照的な、一点の汚れすら見付からない白。清楚が極められたかのような風采の男は、少し目に掛かる程度の髪の毛を
しっかりと整えて、中世の頃の執事のような佇まいをしていた。

「おはようございます。麗華お嬢様」

男は緩やかな微笑を湛えてそう云うと麗華の傍まで歩み寄り、寝台の端の方に着替えを置いた。そうしてまた、軽い
お辞儀を彼女に見せると、黒曜石のような瞳で彼女を見詰めた。顔にはやはり穏やかな微笑が残っている。
寝台に腰を落ち付けながら、怪訝な目でそれを眺める少女は目の前に彼が居るにも関わらず大きく溜息を吐くと、そ
の溜息を出させた本人である彼を下から覗き込んだ。
それでも全く気分を害する事なく微笑んでいる彼を見て、彼女はまた何か判然としない苛立ちを覚えるのだが、寝起
きの倦怠感が付き纏う身体でそれをぶちまける事など出来ようはずもなく、そのような自分に呆れているのか、彼に対
して諦念のようなものを感じているのか、よく分からない溜息を吐くのみだった。

「あたしは監視カメラで二十四時間絶賛監視中なのかしらね、黒川?」
「どのような意味でしょう」
「何でいつもあたしが目を覚ましたと同時に来るのよ。監視されてるとしか思えないわ」

彼女は不満げにそう云った。成程、彼女の云い分も分からなくはない。
彼女の部屋にカメラなど勿論設置されてはいないのだが、それにも関わらず黒川と呼ばれた男は、毎朝彼女が目を覚
まして足を寝台から降ろすと同時にあの豪奢な扉を控え目に叩く。その理由が未だに分からない彼女からすれば、それ
は異常な事と云っても差支えはなかった。
けれども、彼は麗華がそれを尋ねる度に笑みを少しばかり深くさせて、毎回同じ事を云うのである。その台詞が、彼
女には酷くもどかしく、そしてこそばゆいように感ぜられるのだった。

「私の、お嬢様への忠誠心があってこそです」

黒川はまた、そう云って笑みを深くさせた。麗華とはまた違った美しさを持つ彼がそれをすると、彼女は何時も同じ
事を思う。まるで、夜の接客業の頂点に君臨している男のようだと。
しかし、彼の言動は常に丁寧で遠慮をした事など過去に在りはしない。麗華よりも少しばかり年上の彼は、麗華が幼
い頃から彼女に仕えていたが、それでもこうして執事として型に嵌ったような言葉使いしかしないのだ。
何度か、もっと気楽に話して欲しい、と彼女が云った時も彼は「私はお嬢様に仕えさせて頂いている身の上ですから」
と云うばかりで取り合わなかった。

「……まあいいわ。今日の朝食は和風が良いわね。お願いできるかしら」
「卓越ながら、既に用意させて頂きました。お着替えになられましたら、食卓の方までいらして下さい」
「……」

お辞儀を一つ残して踵を返した彼を見遣り、麗華はまた怪訝な目付きで彼の背中を見詰めた。歩き方でさえも礼儀正
しい黒川の靴音が、朝の音色に混じって行く。
黒川が「失礼しました」と云って扉を閉めると、麗華はまだ一日が始まったばかりにも関わらずもう何度目かも知れ
ない溜息を吐いて、寝台に置かれ、丁寧に畳まれた自分の着替えを見て何処か遠い目をした。
態度こそ高貴な所を常々見せている麗華ではあったが、その外見とは裏腹に心中はそれを諫めている彼女が居る事
を、自身で理解しているのだ。
麗華が住んでいるこの屋敷は、近所から――と云っても一番近い家屋ですらかなり離れた位置にあるのだが、「囚わ
れた姫君の城」と云うのが通称だった。何処から吹聴されたのかは最早見当の付けようも無いが、子供から伝わり、そ
れが徐々に脚色を加えられながら伝播されて行ったのであろう。確かであるその通称の由来は、まるで一国の姫君のよ
うな彼女が滅多に外出をする事がなく、月に何回かの通院時にだけその姿を外界に見せるからである。

本人はそれを気に留めたりはしていなかったが、それでも払拭しきれぬ不安は何時でも在った。
麗華は月に何度か、決まった日に街の病院へと赴く。それは、思春期に入った辺りから患っている病気の所為なので
あるが、その病気と云うのが死の脅威こそ無くても頻繁に症状が浮き彫りになる。忽ちその病気が片鱗を覗かせると、
彼女はとてもじゃないが身体を動かせなくなる。体が熱く≠ネり、ある衝動に苛まれるのだ。
麗華の歳は既に十七を迎えようとしているが、以前は通えていた学校にもその病気の所為で通えなくなり、勿論不定
期に襲ってくる症状の所為で外出も極力避けている生活が続く事になったのである。
それはまだ色々な事を学びたての彼女にとっては拷問に等しいものだった。

「はあ……今日は発作が出なければいいんだけど」

朝が来ても麗華の生活は一向変わらない。家の中で時が過ぎるのを感じ、薄暮の頃に此処に来る家庭教師に勉強を教
わり、そしてまた惰性的に過ごす――病気が発症してからその生活は変わる事を知らなかった。だから、麗華は朝が来
ても嬉しいとは思わない。ただ、またつまらない日常が始まりを告げたのだと、諦念するのみである。

麗華はおもむろに寝台に置いてある着替えに手を伸ばすと、それを自分の前に広げた。黒川が選択したので相違ない
が、どうにも彼が選んでくる着替えは何時も堅苦しいものばかりだった。長い裾を持つ黒のスカートと、体の線を示す
かのように小さめな白のブラウス。その襟元に飾る、彼と同じ赤いリボン。
単純で着易いのは良かったが、お嬢様扱いされるのは気が引けた。幾ら黒川の方が年上だとしても、そこまで年の離
れない人間にそう云った扱いをされるのが彼女は好きではなかった。そう思う度に、麗華はそれが自分の身から出た錆
なのだと思い知る事になるのだが、今更自分を罵倒しても何も始まらない。

「あんな事、云わない方が良かったかも知れないわね」

自身の過去を省みるも、現状はそう易々と変わってはくれず、溜息を一つ落としてから麗華は着替え始めた。肌触り
でさえそこらの洋服に使われている生地よりも格段に良い洋服は、滑らかに彼女の身体を滑って行った。



深紅の絨毯が敷かれた階段を手擦りに手を置きながら下って行くと、食堂のある一階に差し掛かった所で用意されて
いるだろう朝食の良い匂いが此処まで漂ってきた。その匂いを感じつつ、麗華は部屋を出て此処まで来る間に、誰一人
としてすれ違う者が居ない事を今一度思い知った。
廊下を歩いていても擦れ違う人は一人として居らず、少しだけ開いている部屋の扉の隙間から室内を窺って見てもや
はり誰も居ない。その全ての理由は、この屋敷に仕えている使用人が去年の中頃から暇を出されて既に此処を出払って
いる所にある。それこそが彼女が省みていた事であり、最早どうしようもなくなった事であった。

更に運の悪い事に、麗華が病を患った時期は丁度両親が仕事で海外へと行く事になった時期と重なってしまったの
だ。前々から聞かされている事ではあったものの、両親が自分から離れるのは寂しいもので、更に自分が病気に罹って
いるとなればその寂しさは果てのないものだった。
一人、此処に取り残されて多くの使用人達と過ごす生活など、彼女には信じ難い事であった。堅苦しい対応しかしな
い使用人達は彼女の暇潰しの相手には成り得ないし、かと云って病気に蝕まれている状態では学校にも行けない。まる
で窮屈な鳥籠の中に閉じ込められてしまったようで、麗華は酷く居たたまれない心持を覚えた。
その結果、両親が海外へと出発する直前に彼女が頼んだ事は、黒川以外の使用人を全て出払わせる、と云うものだった。
何故黒川を残したのかは、彼女自身余り理解していない。ただ、年が一番近かったからなのか、その容貌があったから
なのかは未だに不明瞭なままだが、それでも麗華は今の自分の状態を考えると何時も一つの結果に逢着する。

麗華は自分でも知らない内に彼に惹かれていたのだ。何時も自分の云った事と仕事以外はしない彼だったが、それで
も麗華にはそれが優しく感ぜられた。黒川の一挙一動に恩倖が込められているような気がした。そしてそれを享受して
いる内に、彼女の心はすっかりと黒川に惹かれていたのだった。
けれども、彼は相変わらず仕事と命令以外の事で彼女と接しようとはせず、何時でも使用人としての壁を麗華との間
に築いていた。余りに高く聳え立つその壁を超える術を、麗華は持ち合わせていない。彼女もまた、主人と云う壁を彼
との間に隔てていたからだ。今となっては、その二つの壁はどうしても瓦解させる事の出来ないものになっていた。

「使用人なんて、辞めさせようかしら」

云って、麗華は自嘲気味な笑みを湛えながら首を振った。
何度そのような事を考えただろうか。そして、その度に挫折しただろうか。彼女はそれを思うと、結局その考えを思
考の中から排除するのだ。――使用人と主人と云う繋がりが消えてしまえば、彼は必ず自分から離れて行く、そのよう
に思慮してしまい、同じ所を低回するのみで何も変わらない。
嘆息を一つ零して、麗華はもう目の前に食堂の扉がある事に気付いた。煩悶していたら、何時の間にか此処まで来て
しまっていた。彼女は一度深く空気を吸い込んで気を静めると、食堂の扉を開いて中へと入った。その途端に、鼻孔を
擽っていた朝食の匂いはより濃く彼女に届いた。

「朝食の支度は出来ております。どうぞ召し上がって下さい」

長い食卓机の先端、一人分の食事が置かれている場所の傍らに佇む黒川は麗華が入ってくるなりそう云った。軽く十
人は共に食事を摂る事が出来るだろうその机は、使用されている箇所が全体の一割にも満たない所為で酷く寂寞を漂わ
せている。麗華はその光景に落胆すると同時に諦めて、黒川が差し出した椅子に腰掛けた。
目の前には見ているだけで食欲をそそられる料理が並べられている。見た目こそ普通の家庭の料理と比べても差異は
無いが、その実、そこに使われている食材はどれを取っても高級料理店で使われるような逸品だった。
しかし、それが麗華を嬉々とさせる事はない。見慣れてしまったこの光景も、変化が無ければ彼女にとってただの食
事と変わりないのだ。

「たまには、あなたも一緒に食べたら?でないとこんなに大きな机が勿体ないじゃない」

箸を持とうとした時、麗華はそう提案する。これも何度掛けたか分からぬ言葉だ。それでも、今日は何か変わるかも
知れないと、僅かばかりの期待に想いを馳せながら彼女は時々こうして提案していた。
しかし、黒川はやはり首を申し訳なさそうに横に振って、その誘いを断るのだった。飽くまで彼らの関係は使用人と
主人であり、共に食事を摂る事などは考えられない事である。それは麗華も重々承知の上だった。

「恐れ入りますが、辞退させて頂きます。私は使用人、お嬢様はその主人ですから」
「じゃあ、主人として命令よ。今日はあたしと朝食を食べなさい」
「申し訳ありませんが、出来ません」

そう云って黒川は深々と頭を下げた。とても申し訳なさそうな顔をして、如何にも残念だと訴えるように。
けれども、麗華はそれを素直に信じる事が出来ない人間であった。彼がその表情を作っているのだとしたら、と
疑ってしまう。もしかしたなら、彼のその表情は麗華を傷付けないようにと配慮しているものかも知れない。彼の本当
の気持ちは、その表情を裏切って全く別のものかも分からないのだ。
何とかその考えを頭の中から追い出して、麗華は瞳に影を忍ばせながら箸を持つ。
そうして目の前の小皿に盛られた漬物を一口食べると、顔を顰めた。
その料理は美味しいものであるはずなのは分かり切っている事なのに、酷く味気ない物のような気がした。味のな
い、砂を噛んでいるかのようで、麗華は詰まらなそうに箸を動かして行った。
黒川は依然として麗華の座る椅子の隣に立っている。その顔はやはり使用人のそれで、彼女の心持を良くさせるには
及ばなく、そしてこの日常に変化をもたらすような事も到底成し遂げられないであろう表情だった。

「何だか、味気無いわ」
「お嬢様のご健康の為に、薄味にしています。
……詳しい病状などが分かれば更に最適な物をご用意出来ますが」
「……黒川が知る必要のある事じゃないし、これからもこの味で結構よ」

食事に対する批評を漏らして、麗華は直ぐに自分の発言が軽率だったと気付いた。
そして、黒川の好意に素気なく答えると、彼女は決まり悪そうに味噌汁に口を付けた。

彼女は黒川に対して自身の病状を打ち明けていなかった。それには勿論理由があるのだが、それは口が裂けても黒
川――だけに関わらず、どのような人間であっても彼女はそれを打ち明けるような真似はしない。麗華の病気の事を
知っているのはただ一人、彼女を担当する医師だけなのだから、麗華がどれだけの間閉口を続けているかと云う事は
想像に難くないだろう。けれども、麗華がつい口を滑らせて自身の身体の事や健康の事などを黒川の前で話してしま
うと、彼は間髪入れずにそれらを病気の事に関連付けて、何かと麗華の世話を焼くのだ。
勿論その気遣いはとても喜ばしいものなのだが、やはり病気の事となると彼女は閉口せざるを得なくなる。心配を
掛けている者に対して口を閉ざすなど、自分で遣っていて罪悪感を覚えている麗華であったが、しかしそれも致し方
のない事と云える。彼女を蝕む病気は、どちらかと云えば精神を苦しめる物だったからだ。

「失礼ですが、お嬢様。私にだけでもご自身の病気の事をお話して頂けませんでしょうか。
……使用人である以上、私はお嬢様のご健康の為に尽力しなければなりませんから」

黒川は、彼女の素っ気ない答えに眉根を下げると、遠慮がちにそう云った。
麗華は心臓が大きく跳ねている感覚を覚えたが、何とかそれを自分の内に隠すと、平然を装って暖かいお茶を一口
喉に流し込んだ。苦みのあるお茶は余り好物ではなかったが、彼女の舌はそのような事を感じる暇もないようだった。
そうしてお茶の入った湯呑を机の上に置くと、麗華は隣で立っている黒川に視線を合わせた。
純粋に自分を心配してくれているだろう黒川の目付きは優しいそれで、麗華は今度は先刻とは別の意味を持った心
臓の動悸を胸に感じていた。漆黒の瞳が自分の全てを見透かしているようで、いっそ全てを打ち明けてみようか、と
今まで考えた事もない考えが彼女の思量の中に生まれる。
しかし、それは彼女の誇りと自尊心とが、阻む結果になってしまった。
――あのような病気の事を、誰が他人に云えるだろう。
一人で抱え込む事しか出来ない麗華は、何時もそう思う度に誰にともなく慙恚した。一人煩悶して、それでも最善
の対策など皆無に等しい中で、麗華は苦しんだ。羞恥と噴悶、時には自身の身体を怨嗟した事すらある。彼女の場合、
他人に手を差し伸ばされようとも簡単にそれを受け取る事が出来ない境遇に居たのである。

「……大丈夫。命に関わるような病気じゃないし、食事とかで解決する問題でもないもの。
ただでさえ黒川は一人で色々やってるんだから、余計な事は心配しなくてもいいのよ」

云って、彼女の心には針で突かれたが如くチクリと小さな痛みが広がった。黒川が一人で色々遣っているのは他で
もない麗華の所為であるにも関わらず、それを理由に自分の事は心配しなくても大丈夫、などと云われても大多数の
人間は簡単に納得する事が出来ない事だろう。
しかし、こと黒川に関しては納得するのが義務になっているかのように、とても簡単に彼は頷く。悄然する様子
など片鱗すら窺わせず、ただ「了解致しました」と云って黙り込む。
それが、彼と彼女との間にある壁が成す、お互いへの干渉の仕方であった。

「……悪いけど、今日はもういいわ。何だか食欲も無いし、私は部屋に戻るから」
「かしこまりました。何か御用がありましたら、遠慮なさらずにお申付け下さい」

麗華は箸を置いて立ち上がると、随分と残っている朝食の残肴を見て、また申し訳ない心持になった。
彼が丹精込めて作っているだろうこの豪勢な料理に殆ど手も付けずに下げさせるなんて、と罪悪感が彼女の中で木
霊する。炊事だけでなく、その他の家事諸々、全てを黒川は一人で行っている。掃除などは、屋敷が余りにも広い為
に全てを綺麗にし終わる頃には一週間が過ぎてしまうほどだ。
そのような多忙な仕事を持つ黒川を蔑ろにする自分が、まるで権力を盾に威張り散らす暴君のように見えてしまって、
彼女は何処か憫然とした様子を漂わせながら無駄に広い食堂を後にした。
最後まで、彼女は彼を振り返らなかった。
その所為で、黒川の独り言を麗華が耳にする事は無かった。

「……麗華お嬢様に関するもので、余計な事など、ありません」

朝を喜びながら迎える鳥達の囀りが、彼の言葉を彩って、そして消して行く。
麗華が出て行った扉を見詰めて、黒川は行き場の無い自身の想いに打ちひしがれた。それは果して、お嬢様≠心
配するが故なのか、麗華≠心配するが故なのか、彼の真意を知る者は彼以外に存在しない。
丁度、彼女が病の事をひた隠しにしているように。






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