シチュエーション
![]() 「君の奥さん、火曜の午後に若い男と歩いてたぜ、気をつけな」と同僚に言われた。 余計なお世話もあったものだ。妻が男をとっかえひっかえしているのは知っている。 気づかないふりをしていたものを、他人から言われたら気にしなくてはならなくなる。 帰ってから、妻の笑顔を眺めたが、何の感情もわかなくて、夕食のコロッケが旨い。 夜半、ひさしぶりに妻のふとんにもぐり込むと、しなやかな腕にふっ、とつつまれた。 しかし、やっぱりと言うべきか、寝つけない…… 外套をはおって、家を抜けだした。 残雪に凍りついた道で、流しの円タクをつかまえ、乗りつけた先は…… 玉の井だ。 玉の井は亭主持ちの女郎の多いところだが、若い娘の肌が恋しい感じだったので、 旧道のほうまでいったら、お稲荷さんの前に、銀杏返しに結った別嬪が座っていた。 元禄の昔には、苦界に落ちても色好み、という女がいたそうだが、そんな風だった。 腕の内側で、じきに赤みのさすのがわかり、すそを蹴った太股がからみついてくる。 「大昔、どこかで会った気がするね」と言ったら、童女のように首をかしげてみせた。 時は流れ、十年後…… 北支事変のはじまった年、二等兵で大陸にひっぱられた。 広大な戦場を、転戦につぐ転戦で、武漢三鎮が陥落してから、ようやく一息ついた。 酒保やピー屋は許可に手間どったらしく、漢口にできたのは翌年の、梅の匂うころ、 赤いレンガのお屋敷に、ぶらりと出かけてみると、丸髷に結った別嬪が座っていた。 アンペラに横たわって、なでようとした手首をつねられたのが、内地のようで楽しい。 胸の間に顔をうずめ、腰のほうに探っていけば、「本当はダメなのよ」と女は笑って、 邪険にされないのをいいことに、指を少し入れてみたら、指が玉の井を覚えていた。 敗戦から、二年…… 復員後は、家の残骸をかたづけて、防空壕で雨をしのいだ。 蝉の声に追いたてられ、炎天下をぶらついて、日が暮れるころ、有楽町に着いた。 アメリカ兵のオンリーの多い街だが、不見転でくる女もいて、ふいに声をかけられ、 肩ごしにふり返ったら、路地裏の灯に、髪をパーマネントにした別嬪が笑っていた。 兵隊にでも習ったのか、口をつけてきて、唇を輪っかのように下ろしたかと思えば、 前にひきあげて、赤い舌を伸ばし、上目づかいに見つめてくるので、肩をさすって、 「元気な姿が見られて、うれしいよ」と言ったら、童女のように首をかしげてみせた。 売防法の、一年前…… 目端の利く連中は、看板を「トルコ風呂」に換えはじめた。 トルコ風呂といえば、上海帰りの海軍さんがやっていた東京温泉が有名だったが、 女のサービスがあるわけでなし、それにくらべて、新宿は本来と変わらないそうで、 世人の評判に惹かれて、あがってみたら、頭にタオルを巻いた別嬪が座っていた。 木枯らしに追われた体に、スチームが温かく、ベッドで女の指を味わいはじめたら、 なるほど、じきに赤線と同じになったが、「いつか指先だけになるわ」と女は言って、 悟ったような物云いと、人懐っこい笑いかたは、まったく変わっていないようだった。 源氏名をきいてみたら、「小夜子」というのだそうで、どこかで聞き覚えがあったが、 しかし、有楽町や漢口、玉の井のころに、同じ名前で出ていたとは思えないし…… ――――目が覚めると、妻の姿は見えず、バスルームから、シャワーの音がする。 ふとんから出て、キッチンに入ると、残りもののコロッケにラップがかけられていて、 結婚してから、十年一日のごとくに変わらない、土曜の朝のしなびた感じがあった。 コーヒーを淹れていると、洗い髪の妻が寄ってきて、「冷たいのが欲しい」とねだる。 「夜に、君のおばあさんに会ったよ」と言ったら、童女のように首をかしげてみせた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |