シチュエーション
![]() 珍しく梅雨晴れしたその日は、蛙も鳴かず静かな夜であった。 「明日身請けされるから抱いてよ」 一瞬あんどんの火が揺れた。 ちくり、と胸に痛みが走った。 身請けが決まった今、もう張見世に出る必要はなく、何をしようと自由らしい。 そう言って呑気に煙管をふかす水百合を、つくづく薄情な遊女だと思う。 単なる世話役の身分で、義理や感謝を求めるなど可笑しい話なのかもしれない。 だとしても、せめて仲間に別れの挨拶ぐらいしたらどうだろう。 無論、実際に本人へ勧めてみたところで、面倒臭いと軽くあしらわれるに違いなかったが。 「なんで…お前を抱かなきゃならねぇんだ?」 「今までのご褒美。散々こきつかわれてくれて有り難う、ってね」 水百合は相変わらずの高飛車な態度に意地悪い言葉たちを並べ、さりげなく着物から白い太股を覗かせた。 さすが「遊戯屋」で太夫の座を争う器量の持ち主、男を欲を煽る術を熟知している。 紅をひいたような唇がゆっくり形作れば、逃れられなかった。 「ねぇ…抱いて?」 ― ― ― ― ― 「ん…あ、あぁっ…」 熱く濡れた肉壁が、抜き差し繰り返すまらにまとわりつく。 両者の体液が交ざり合うやらしい音は二人だけの空間にこれでもかと反響し、最早どこから聴こえて来るかも分からない。 「あっ…あっ、もっと…もっと奥ぅ!」 水百合は快楽を得て艶やかに咲き誇る。 お望み通りにと下肢を限界まで開かせて奥を突けば、中が殊更激しくうねって悦んだ。 女の膣は一度受け入れた男の形状を覚えると耳にした事がある。 次に男と寝る時…記憶と異なる物に、違和を感じるのだろうか。 ちくり、とまた胸に痛みが走った。 同時に何故か笑いが止まらなかった。 腰の動きを止めて小刻みに肩を揺らす己を不信に思ってか、水百合が眉根を寄せる。 「なに…笑ってんの?」 「…ちょっとな」 「あたしを放って良い度胸ね」 細い腕に引き寄せられるまま口元に顔を近づけると、突如首筋を噛みつかれ上擦った声が漏れた。 「ぁッ、……可愛くねぇ女」 「ふふ。そりゃどうも」 半ば反射的に呟いた憎まれ口を聞き、水百合はこの状況に不釣り合いな純粋な笑みを浮かべる。 それが奇しくも己の肉欲にまみれた衝動を煽り、気づけば無我夢中で腰を振っていた。 「あぁんっ…あ…あっ!」 脳に、身体に、焼きつける。 いつも知らず知らず見詰めていた女の全てを。 胸元を伝い落ちる汗だか体液だかを、丹念に舐め取った。 彼女が喘ぎ悶えて動く度にふわり薫る甘い匂いも楽しんだ。 「あ、んっ…ぁ、はぁっ、ああぁっ」 胸の痛みの正体は言わなかった。言えなかった。 己は、水百合の世話役だ。 我侭な遊女にこきつかわれる奴隷。 ならばその世話役らしく、仕事という奉仕を最後まで勤めあげよう。 強い締めつけで射精を促す肉壁を幾度となく擦り上げ、共に絶頂へ向けて拍車をかける。 生涯初めての、そして二度と来ないであろう一夜は瞬く間に朝を迎えた。 ― ― ― ― ― 雨が降る。 どこか陰気めいた空気のせいで、大通りを行き交う見物客も少ない。 朱の暖簾から顔を出した仲の良い若い衆が、ずぶ濡れになった己に声を掛けてくる。 「風邪ひくよー。早く見世に戻りな」 「…うるせぇ。いンだよ、今はこれで」 番傘を持って来ようとしたのを言葉で制すと、若い衆は心配そうな表情をしながらも見世の中に戻った。 誰も居ない路地で立ち尽くす。 頬を伝う雫が何であるか、認識する気力すら起こらなかった。 明日、新しい遊女の世話役に就く。 噂に聞くと近世稀に見る魅力的な女らしい。 しかしそいつがどんなに美しく、優しく、謙虚であっても、水百合を忘れる事は出来ないだろう。 あいつはどうしてるのか。 小さく空に問うたとして、答えが返ってくるはずもない。 道脇に咲く真っ白な野百合が、心無しか雨を得て幸せそうに見えたのは視界が滲んでいるからだ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |