シチュエーション
![]() 非の打ち所のない人間を演じるというのは、なかなかに辛いものだ。 それでも、元々演じようもないほどに非のありすぎる人間どもに比べれば、私は恵まれている。 染めてはもったいないと言われる黒髪と、母譲りの白い肌と。細身の体は手足が長く、華奢で可憐。顔形も美麗にして清ら、清純派の美少女を見事に形作っている。 その上裕福な家の三女、生活に困ったこともない。 これで性格まで完璧であったなら、きっと私は薄命で終わるだろう。だからこそ、ナルキッソスのように、けれど彼より狡猾に、私は生きなくては。 「郷原さん、もう帰るの?」 クラスの女子が一人、鞄を肩にかけた私に声をかけてくる。かけるな。五月蝿い。 「うん、今日はちょっと」 そうそう毎日毎日、お前達のようにお喋りに興じてられるものか。苦行だ。 と思いながら、柔らかい微笑を浮かべて、申し訳なさそうに首を傾げてみせる私。 「さおりん忙しいもんねー」 誰がさおりんだ。私の名前は沙織だっての。 男子からは高嶺の花と見られている私だが、女子からは癒しキャラ扱いをされて方向性の修正に悩む。 高校生の女子といえば、もう少し成熟していてもいいんじゃないのか。私のように。 「ごめんね、私ももうちょっと、みんなの話聞いてたいんだけど」 「あーもー、さおりん今日も髪の毛さらっさら。シャンプー何使ってるんだっけ?」 親から押し付けられた高級品。 帰ると言っているだろうが、ひっつくな。 「ううん、忘れちゃった」 私はまた済まなそうに笑って、やんわり背中にしがみついてきたやつを引き剥がす。 じゃあね、と教室の女子どもに手を振った。社交辞令社交辞令。さよならまた明日。会いたくもないけれど会ってあげましょう。 校門を出て、少しは歩く。 というかこの私立高校、無駄に景観と緑とやらに拘っていて、校門からしばらく歩行者オンリーの並木道が続く。 おかげで迎えの車も、すぐ傍にはつけられない。裏手の職員用の方を使うわけにもいかず。面倒なことをするものだ。 憮然と、私は枯葉を踏みながら歩んでいく。 ようやく終わりが見えてきた頃に、目立つ高級車が一台と悪目立ちしている男が一人、同じく目に入ってくる。 今日の迎えもこいつか。たまにはメイドの方を寄越してくれないものだろうかと思い、ついつい溜め息をついた。 けして、その男、執事(要するに使用人だ)の望月遼太郎。容貌が悪いわけではない。 むしろ三十に近づきつつある割には若々しく、精悍な整った顔ではある。 しかしお前はマフィアかヤクザなのかと思うような黒スーツと、少しでも頬を動かしたら世界が滅びでもするのだろうかと思うほどの仏頂面が、異様な存在感を放っていて恥ずかしい。 その彼が、私に気づく。 「お嬢!」 その瞬間、主人を見つけた犬のように、その顔がくしゃくしゃに綻んだ。はい今お前の世界滅びた。滅びたよ。 私をお嬢と呼ぶな、沙織お嬢様と呼べ。うちにはお嬢が上に二人いてややこしいんだよ。そして私に様付けをしないなんて、使用人のくせに無礼千万だ。 しかしそれを口に出して信用を失い、後の面倒に繋がると困るので、私は寛容に微笑んでみせる。 「ごめんなさい、待たせましたか、望月」 「いいえ、少しも。お荷物をこちらへ」 にこにこ嬉しそうに笑うな、振っている尻尾が見えそうで鬱陶しい。私にギャップ萌えはない。 鞄を手渡すと、望月は手馴れた動きでそれを後部座席に置く。そして助手席側のドアを開けると、恭しく私に促した。 こういうことはできるのに、なぜ私を沙織お嬢様と呼べない、腹の立つ。 「ありがとう、望月」 「本日は直接お帰りになりますね」 「ええ」 “優しいお嬢様”は、“癒し系の高嶺の花”と同じくらいにエネルギーと忍耐力を要する演技だ。 けれど私は、それを持続する。 運転をする望月の顔を、横目で見た。何か言っているので、適当に相槌を打っておこう。 何の悩みも苦悩もなさそうな、明るい、裏表のない、騙されやすそうな、むしろ恒常的に私に騙されている、馬鹿っぽい、そんな望月が――羨ましく、ならなかった。 誰がなるものか。 私は何も初めから、膨大な忍耐力とエネルギー、思慮深さと判断力を持っていたわけではない。 物心ついたばかりの頃は、私は自分に正直であった。 語彙と知識ばかりは豊富な、こましゃくれた娘と言ってもいい。馬鹿だった。 幸いにして、小学生となってしばらく経ち、分別のつくようになったことは「反抗期の終わり」と位置づけられたらしく、ほんの時折笑い話に持ち出される程度。 それを微笑し受け流せる私は、寛容になったのだろう。 記憶を消せる方法があるなら実行しているが。 この前ふりが何かというと、要するに。 「お嬢もすっかり柔らかくなられましたよね」 なんでお前がそんなことを知っている。 にこやかに言うなお前は私の親か違うだろう車から叩き落すぞ。 しかしそうすると車が動かせないので、私は辛うじて微笑む。 「そうかしら」 「はい」 フロントガラスに向かって爽やかに笑うな。無論こちらも見るな。 一人でいる時の見た目のままの性格のほうが、ずっと付き合いやすかっただろう。 しかしながら私の期待から大いに逸れて、望月は無駄に好青年であった。むげにするわけにもいかない、私の身になれ。 ――さて、いつ期待したのだったろう。 「私が、いくつくらいの時からでしょう。そんなに早くから、望月、いました?」 恥らうように片方の頬に手を当て、首を傾げる。 私のエネルギーは健在のよう。僥倖。 「十年ほど前からお勤めしています。一度、旦那様のご都合でこちらからは離れましたが」 十六マイナス十で六。 「あら、お恥ずかしいところを」 あらじゃない私。 その頃の私と言えば、そう。 ――何も思い出すことで記憶を汚すこともないだろう。と思い直し、私はそこで小さく首を振った。 とにかく全盛期であったはずなのだが、どうしてくれようか。どうにかできるだろうか、いやどうにもしようがない。 こっそり深呼吸をして、自分を落ち着かせる。 とりあえず、この男が古くから私を知っている、ということは理解できた。それだけで十分、といったところだろう。 慣性の法則をほとんど感じさせることなく、車が止まる。 いつの間にやら、車は家へと着いていた。 所謂、洋風の豪邸だ。 この狭い日本で、よくもまあこんな土地にこんな家をあんな時代に建てるものだ、と呆れるくらいには。 しかし建てた人間――西洋趣味であったらしい曽祖父は既に他界しているので、呆れる先もない。 鞄を持つ望月を後ろに、部屋へ向かって歩いていると、たまたま二番目の姉と鉢合わせた。 「あ、沙織ちゃんだ。お帰りー」 「ただいま、友香姉さん。大学は?」 「今日は授業入れてないの。お休みさー」 どうやら出かけるところらしい、コートを羽織った長身の友香姉を見上げ、私は少しだけ笑い返した。 私と比べれば劣るものの、この二番目の姉は努力皆無でありながら綺麗なパーツを持ち合わせている。 身の丈の割には愛嬌溢れるふるまいが、非常に参考になるとは思う。 ただし、キャラクター的に模倣するべき状況が見つからず、いまだ試したことはない。 「望月さんもお帰り。いつもいつもお疲れ様だねえ。それじゃっ」 「いえ、とんでもありません。行ってらっしゃいませ、友香お嬢様」 笑顔で返事をしているが、望月、友香姉はもうそこにいない。 返事をしないわけにはいかなかっただろうから、哀れといえば哀れではある。行動は早いからなあの姉。 ――というかお前今、ちゃんと呼んでたじゃないかよ。姉を。 そしてその行動の早い姉は、私が廊下を歩み自室に入り、望月から鞄を受け取った辺りで不意に戻ってきた。 「そうそう沙織ちゃんや、言い忘れてたけど」 「お帰りなさい友香姉さん」 「まだどこにも行ってないよ」 分かっているとも。 「明日ね、美晴ちゃん帰ってくるらしいんだ」 一番上の姉の名を出されて、私は少し首を傾げる。 美晴姉は去年大学を卒業し、晴れて婚約者と同居中。迫るクリスマスに婚姻するとの話がまことしやかに流れている。家庭内限定だが。 その彼女が帰ってくるというのは、まさか喧嘩でもしたのか。 「してないよー。沙織ちゃんは心配性だよね」 心を読むな。 そして誰が心配性だ。 友香姉と比較すれば、大方の人間は心配性に振り分けられてしまうだろう。 それ以前に、誰が姉カップルの心配などするものか。好きにやっていればいい。 「……ええと、何をしに?」 「義兄さんとうちにご挨拶、だとさー。そんでそのお迎えとか、ついでにこの辺あちこちうろうろするらしいから、あの車使うのね」 この辺りでようやく、本題はそれかと合点が行く。 つまり、 「ということは、お嬢の登下校は」 「そうそう、電車使ってもらうことになったかも。二日間だけだからさ」 納得し、私は頷いた。 別段、依存はない。 友香姉と比較すると心配性の極みと言える人物、要するには私の両親により、車を使わされているだけだ。 これが家庭外の人間からの強制であれば、私は柳眉を顰め誰がその通りにするものかと思うところだが。 「分かった、そうしますね。それじゃあ、望月」 「承りました」 何を承った気でいるお前。 嫌な予感がして、私は引きつりそうな微笑で彼を見上げる。 「同行させていただき、お送りいたします」 やはりそうか。 やはりそうくるか。 「私……一人でも電車くらい、乗れますよ。そんな、お手間を」 「いえ、日々お嬢の安全については、旦那様から言付かっていますから」 「お父さんは心配が過ぎるんです」 私はやんわり笑って、そうして貰いたいのはやまやまだけれど、迷惑でしょうし、という雰囲気をちらつかせる。 この悪目立ちする男と、あまりうろつきたくはないものだ。 学校の人間に見られたらどうしてくれる。説明など面倒なことを、私はしたくない。 「送ってもらいなよ沙織ちゃん、電車危ないよー」 余計な口を挟むな、姉。 しかしながら二対一、淑やかか弱げを形にしながらでは、敵うべくもない。 そして最後には「ご迷惑でしょうか」などと言ってきた男に、その通りと答えられるはずもなく。 私は微笑んで、いいえそんなことはそれではお願いしますねと、言わなくてはならなかった。 ――その時の望月の笑顔は、ひどく明るく嬉しげなものだった。 そんなに、私を送り迎えするのは楽しいことなのだろうか? この私が多少、絆されそうになるくらいには、幸せそうに見えたのだった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |