シチュエーション
カツリカツリと響くヒール。 それは、ソファで昼寝をする僕の前でピタリと止む。 「…教授」 滑らかで、柔らかな囁きが耳朶をくすぐる。 あーうん、やっぱり彼女の声は癒されるなぁ。 うんうん、ずっとこうしていたい。この幸せな時をもう少し…あともう1限位。 「教授」 再度、彼女の声が耳元で囁かれる。 その調子でもう少し、子守歌なんかでも。 「ん」 「長沢教授」 顔に乗せた本が優しく取り払われる。 日光が瞼を突き抜けて意識を呼び覚ます。 闇に慣れた目が開かれ、眼前の彼女を捉える。 「うわっ!?」 彼女は鼻先の距離まで僕に顔を近付けて、ニッコリと微笑んでいた。 「近っ近いよ!!」 「教授、今日の1限の授業の件ですが」 目の端に栗色のウェーブが揺れている。 彼女は驚くべき近距離に完璧な微苦笑を浮かべ、同じ事をもう一度繰り返した。 「長沢嘉人教授、今日の、1限の、授業の件、ですが」 「あ、ああ。ちょっと昨日頑張り過ぎたせいでウッカリ寝過ごしちゃってねー 途中で起きたんだけどもう始まっちゃってるしもういいかってうああああああ!!!?」 突如頭に強烈な刺激が走る。 頭が追い付かず、何が何だか分からないまま悲鳴を上げ飛び起き、 一拍置いて自分が熱湯をダバダバ浴びせられている事に気が付く。 「ぎやあああ熱ッアッ、ちょ、あっつ!!!!!!!」 ダボダボダボダボ 「あら、ちょっと温め過ぎましたかね」 ダバダバダバダバ 「止めっ!!ちょっ!!マジで!!香奈子嬢ッ!」 チョロチョロ… 彼女、香奈子嬢は困ったような微笑みを浮かべたまま、 研究室の錆びたヤカンから熱湯を僕の頭に浴びせかけていた。 「分かりました」 僕の必死の懇願に、ようやく彼女の手が止まる。 「なっなんで!!君ィ!熱湯て!!」 ビッショビショの白衣をバサバサしながら、僕は香奈子嬢に噛みつく。 「いや、昨日は研究室で徹夜されてお風呂にも入っていないだろうと思いまして…」 お風呂代わりに、カップ麺に使ったお湯の残りを少々。 と、全く当たり前の事のように香奈子嬢は頬に手をあてる。 「なんだそれ!!そんな風呂の入れ方何処で習ったんだよ!!」 「でも…お父様が『庶民にはこの様にして風呂に入る者が居るのだ』と」 「……」 「あの、もしかして、その様な方は居られないのでしょうか?」 「いや」 確かに居るっちゃ…居るなぁ。 『お父様』か…うーん成程、彼ならそう教えかねないなぁ。 一瞬の躊躇いの後、僕は言った。 「確かに居るね」 「ですよね!!」 パァッと香奈子嬢の顔が華やぐ。 笑顔を見てボンヤリ思う。 やっぱり香奈子嬢は可愛らしい子だなぁ。 「居るけど一部の人だけだし、僕はしないから。今後は止めてね」 「はい教授」 素直な彼女は、幸せそうにニコニコ微笑みながら言葉を続ける。 「それじゃあ、そろそろ2限の授業へ向かっていただけますか?」 「え?」 「お風呂も入った事ですし、準備もしておきましたから」 いや僕寝起きだし。 ていうかビッショビショのビッチャビチャだし。 今ちょっと歩いただけでバチャバチャいってたし。 「という訳だからせめてタオルを」 「ほらほら急いで教授、教授の素晴らしいお話を聞きたがってる 生徒さんがいらっしゃってますよ」 ガラガラ、ピシャッ 僕の抵抗もどこ吹く風、香奈子嬢は僕に資料を渡すや 研究室から僕を追い出し、扉を閉めてしまった。 意味が分からない。 「ちょっと香奈子嬢!!」 ドンドンと締め切られた扉を叩くと、僅かな隙間が生まれ そこから香奈子嬢が少しばかり顔を出す。 「長沢教授…」 「おお香奈子嬢ようやく世間の常識を分かって」 「今日もお仕事頑張って下さいね、私…頑張ってる教授が大好きです」 ピシャリ 「」 今の行動に…思いを馳せてみる。 可愛い。 やっぱり香奈子嬢は…可愛いなぁ。 うん、もしかして今の台詞を言うのが恥ずかしかったから、僕を追い出したのかなぁ。 いや…天然でいじらしくて、可愛いなあ。 僕は何だか独りで納得してしまって、言われるがまま教室へと歩き出した。 教室に入ると何故か悲鳴を上げられた。 どうやらびしょ濡れだったせいで、不審者と間違えられてしまったようだ。 おまけにそのまま大学事務局に通報され、しこたま説教されてしまった。 香奈子嬢のとりなしがなかったらどうなっていたか分からない。 いやー、香奈子嬢には頭が上がらないなあ。 ズルズルズルズル。 「ふむー」 ズルッ、ずばばば、 「うーん」 ゴクッゴクゴクッゴク 「香奈子嬢、カップ麺の汁が資料に…」 「ああっごめんなさい教授!!」 【令嬢助手と長沢教授2】 今や、僕の資料はドット柄状態になっていた。 味噌ラーメンだから、もろ茶色の。 「いや、いいんだよ。しかし香奈子嬢、君はカップ麺がやけに好きだね」 「長沢教授にこの庶民の食べ物を教えていただいて以来、すっかり虜なんですよ」 ちゅるちゅる麺を吸いながら、香奈子嬢は極上の笑みを浮かべる。 木々が風に揺れる、風が生徒達の喧噪を運ぶ。 秋晴れの空はポカポカした陽気に反し、からっ乾いた空寒い気温。 窓ガラス越しの日差しにウツラウツラしていると、ふと思い付いた事があった。 「そういえば香奈子嬢」 「はい」 「君のお父様は何の社長をしてたんだったかな?」 「商社です。海外で何だか怪しい兵器を販売しているんです」 聞かなきゃ良かった。 そうか…、彼はそんな職を生業としていたんだね。 今更にして、何の詳細も聞かずに君を助手にしてしまった自分の迂闊さを責めているよ。 いや、職業に貴賤は無いけどね。 …法律にも貴賤が無いからね。 「…ちなみにお父さん、外国人?」 「お母様はハーフですね」 「あっだからちょっとロリっぽくてハーフっぽい顔なんだ」 「……」 「……」 大 失 言 。 「長沢教授」 長い長い沈黙の後。 慈母のような…妙に曖昧な笑顔を浮かべ、香奈子嬢がカップ麺から顔を上げた。 「そういえば私も聞きたかったのですが」 「あ、うんうん何だい?」 己の失言を挽回するべく、僕は3限を休講にする覚悟で彼女の質問に挑む。 「教授って何を研究されてるんですか?」 「」 想像の斜め上を行く質問が僕の脳にぶっ刺さった。 「香奈子嬢、君、僕の所に来てどの位経つっけ」 「半年と21日です」 「君にはどんな仕事を任せてるかな」 「授業に使う資料の整理・印刷。稀に研究のお手伝いもします。 スケジュール管理やお仕事のメールなども丸投げされています」 「ん?今何か言わな」「それがどうかされましたか?」 麗しい香奈子嬢は、マイセンのティーカップで食後の紅茶をすする。 どうかも何も、香奈子嬢よ。 「君、何も分からないまま仕事してたのかい?」 「はあ」 再び沈黙が降りる。 沈黙の隙間に風が吹き込む。 冷たい冷たい、冬の気配だ。 ……。 いやいやいやいやいや。 「いやそんな訳ないだろう香奈子嬢。よく考えたら、自己紹介の時に説明したよ」 「そうでしたでしょうか、でも分からないものは分からないので説明していただけますか?」 一見傲慢な科白と裏腹に。 香奈子嬢は言葉と共にソッと僕の肩に触れ、朗らかに微笑んだ。 口元から白い八重歯が零れた。 「よし、答えましょう」 「どうせなので、当て物クイズにして良いですか?」 「…い、いいでしょう」 「教授は白衣を来てらっしゃいますね」 「うん」 「白衣は研究と関係がありますね?」 「いや、無い」 香奈子嬢は心底不思議そうに首を傾げた。 「…何故着てらっしゃるのですか?」 「普通に生活しているだけなのに、よく服を汚すからだよ」 何も無い所で転んだり、泥に塗れたり、この前は熱湯を浴びたしね。 「ならば、理系でなく文系ですね」 「そうだね」 香奈子嬢はクルリクルリと自身の髪を指で遊ぶ。 螺旋状にそれは回り、一瞬でほどけていく。 「ああ、分かりました。教授は哲学者なのですね」 「何処から哲学が出て来た」 「考え深くていらっしゃいますし…いつも何処か一点を見つめて深慮なさっている様じゃありませんか」 ………。 それはね香奈子嬢、ボーッとしてるだけだよ。 今日のご飯何にしよーとか考えているだけなんだ。 そう僕が丁寧に説明すると、香奈子嬢は口に手を当て、ショックを受けたように箸を取り落とした。 (まだ食べていたのか) 「そういえば教授は文学部でしたね」 「何故そこまで分かっておきながら…」 「いえ、消去法で考えても文学部に辿り着きますわ」 「何故だい?」 「社会学者にしては社会性が無いようですし、経済学者にしてはお金に縁も興味も無いようですし…」 「そっそれで!!何だと思うんだい?」 もう何だかいたたまれなくなってしまって、僕は香奈子嬢の解答を促した。 「うふふ、私分かりました」 愛嬌たっぷりに香奈子嬢は僕を見つめる。 「文学者ですわ」 「違うね」 「語学者」 「違う」 「歴史学者」 「ブーッ」 「何だか面倒になってきましたわ」 「君が言い出したんだよ!!!!」 僕はいつの間にか両の目から、ハラハラと涙を流していた。 僕の心血を捧げた研究は何一つ、香奈子嬢の心を捉える事が出来なかったのだ。 その事が、何故か僕はとても悲しかった。 「あらそういえば」 香奈子嬢はカップ麺の残り汁に白米をぶっこみながら、僕に報告する。 「次の日本人類学会、8月に変更になったそうですよ」 「何だって?急な話だな」 「あの南アフリカの少数民族の研究を発表なさるのですか?」 「そうだな…」 って。 「君、人類学者って分かってるじゃないか」 「当たり前ではないですか」 香奈子嬢は味噌汁ご飯みたいになった米を口の端に付けたまま、怪訝な顔で答える。 「なっ何で分からないなんて」 気色ばんで僕が声を荒げると、香奈子嬢は今日一番の麗しい微笑を投げかける。 「先程のお返しです」 そう言って、ちろりと真っ赤な舌を出した彼女。 「うん、それは仕方ないな」 その愛らしさに、僕は全てを一瞬で水に流した。 「しかし教授。私が教授が何を研究しているか知っていて、良かったですね」 「?」 だってあのままでしたら教授、 『理系でも無いのに白衣を着て、毎日ボーッとしてる、社会性も金もない大学にただ居る人』 になっている所でしょう? 「……」 僕はもう一度泣いた。 「香奈子嬢、さっきから何をしているんだい?」 「教授宛のラブレターを燃しています」 「え?」 【令嬢助手と長沢教授3】 ジャングルの夜闇は深く、妖しい。 僕達はそんな帳の端っこにテントを張り、僅かな炎で虎口を凌いでいた。 ちろりちろりと燃ゆ焚き火。 焚き火の上にハラハラと舞う、 「…僕のラブレター?」 「ええ、それも熱烈な」 その繊細な指先を駆使して紙が裁断されていく、香奈子嬢はニッコリ微笑んだ。 獣の鳴き声が不意に空気を揺らす。 ザワザワと森一体が、生命体の様に蠢く。 「香奈子嬢。今一度、僕達の状況を説明してくれないか?」 「はい。私達は教授の研究で、ジャングルにやって参りました」 「うん」 「が、しかし教授の独創性のある方向感覚により、私達はジャングルの中で迷ってしまいました」 「うん…」 「幸いにも、この様な事があろうかと私がアウトドア用品一式を携帯していた為、 こうして火を炊きカップ麺のお湯を沸かしているのが現在です」 香奈子嬢の横顔が、柔らかな光に照らされる。 その瞳がレンズのように炎を反射して、ピカリと光を放った。 こんな時でも彼女は綺麗だな、と何となく思った。 ビリリ、ビリリ 紙の破れる音で我に返る。 「そうだ。それで何でこの事態に、こんな場所で、僕宛のラブレターを」 「燃やす物が要ると思いまして」 キョトンとした顔で香奈子嬢は、容赦なく2枚目も破り捨てる。 ああ…天然だなあ。 「そもそも何で君が僕のラブレターを持ってるんだ。 人の物を。それに一体それは誰からの」 「これは火曜2限の生徒さんのものです」 香奈子嬢はフッと僕の顔を見つめ。 「教授はロリコンなんですか?」 「なっ!そっそんな訳がないだろう!」 「なら、読まずともよろしいのでは」 「かと言って無視するわけにも行かないだろう!」 「大丈夫です。今までラブレターをしたためて来られた生徒さんには、私が対応致しましたので」 「ああそれなら…って何で君が!」 と、納得しかけて僕は慌てて首を振る。 「大丈夫です。皆さん、納得していただけましたから」 何が大丈夫なのか、香奈子嬢は鷹揚に頷き、ハラハラと紙片を撒き散らす。 「まあ皆さんには、少しばかり痛い目に逢ったり、社会的に地位を脅かせたりしましたが…」 「ん?何か言ったかな?」 「いえいえ…独り言ですわ」 「しかし何で君がそんな事を…」 呆れて僕は紙片を手に取る。 紙片には辛うじて、軽薄なハートマークが見て取れた。 「それは、私が教授の事が大好きだからですわ」 「えええええええ!???そっそれはまさか、こっ告は」 「…なんちゃって☆」 テヘッと赤い舌を出す香奈子嬢。 ま、全く心臓に悪い…。 「寒いですね。何か毛布はありましたっけ」 不意に、香奈子嬢が呟いた。 毛布…そんな物はさすがに無かったよな。 じゃあ仕方ないという訳にもいくまい。 僕の大切な香奈子嬢が風邪を引くなんて、許されるはずがない。 「ああ、ならおいで」 「えっ」 僕が両手を広げると、香奈子嬢はポトリと箸を取り落とした。 「あっえ、それは、あの」 常の静かで穏やかな姿は何処へやら、香奈子嬢はあわあわと手をばたつかせる。 「こんな時は人肌が一番なんだ。さあ」 「ああ…あの、はい…」 呆然と、といった様子で、僕の手に触れる香奈子嬢。 すべすべした、柔らかな肌が僕の肌に触れた。 とすっ 手を引くと、香奈子嬢はバランスを崩し、ストンと僕の膝に腰を落とした。 思ったより随分軽い。 「あ……」 僕はバランスを整えようと、香奈子嬢の腰に手を回し、すっぽりと僕の体の中に彼女を収めた。 「どう?」 じんわり、温かさが伝わる。 「……」 香奈子嬢は微動だにしなかった。 しかし暫くすると状況に慣れたのか、キュッと僕の白衣を掴み、顔をそっと胸に押し当てた。 甘えられているようで、何だか気恥ずかしかった。 「温まったかい?」 「…人肌は遭難時には有効ですからね」 「そうだな」 香奈子嬢は安心しきった子供の様に、僕の中で体を丸める。 何となく、本当に何となく。 僕は、彼女の小さな頭を撫でた。 闇は深く、得体が知れない。 ちっぽけな僕達は身を寄せ合って、只、其処に居る。 「嫌がらせで遭難させて良かった…」 「ん?今何か」 「いえ…」 ちろちろと炎が燃える。 ジャングルの夜が更けていく。 【令嬢助手と長沢教授4】 「……」 「まあつまりアレだ。確かにお前の研究は素晴らしいよ、その凡庸さ、無害さがお前という人格を表してるよな」 「…ああ」 「おっとソコに居るのは麗しの安斎香奈子嬢じゃないか?お久しぶりですどうぞどうぞ」 「どうぞって、此処は長沢教授の研究室ですが…」 香奈子嬢は何とも微妙に絶妙な顔をして、虎ノ門影雪教授の前に緑茶を置いた。 今日は珍しく、研究室に来客があった。 客は全く珍しくもない、腐れ縁の虎ノ門影雪教授。 僕の様にしみったれた大学の教授でなく、某国立大で若くして教授に成り上がった遣り手研究者。 虎ノ門は月に2・3度、突如やって来ては壮絶な無駄話をして、竜巻の様に去っていく。 それもこれも、僕と虎ノ門が大学時代の友人であるからなのだが…… 「香奈子ちゃん、こんなダサ男の研究室なんて辞めて、俺の所へ来なよ」 白衣を雄孔雀のようにバサバサさせて、軽口を叩く虎ノ門。 「何を仰っているのか。ここを紹介して下さったのは虎ノ門教授ですよ?」 もう一つ、彼はこの研究室に縁を持っている。 何を隠そう、香奈子嬢を僕に紹介したのは彼なのだ。 「そりゃー俺だって手放したくは無かったよ。こんな可愛くて性格が極悪うぎゃ」 ゴン! 「ああっ!大丈夫ですか!?つい手が滑って!!」 「……」 香奈子嬢がウッカリ手を滑らせたお陰で、虎ノ門教授は緑茶塗れになっていた。 「すぐお拭きしますわ!」 そう言って、真っ黒な雑巾で虎ノ門教授の顔をゴシゴシ拭き出す香奈子嬢。 「いやー…良い性格だよ」 「だろ?良く気の付く本当に良い子だよ」 僕の言葉に、何故か虎ノ門はビーカーを投げつけてきた。 「で、今日は何の用なんだ。生物学のカリスマ教授様」 「ふむ。まあいつも通りお知恵を拝借ってトコだな」 「あらそうだったのですか。余りに悩みのなさそうな面構えでしたので、 また世間話でもされに来たのかと思いました」 香奈子嬢の何気ない一言に、やはり苦笑いを浮かべる虎ノ門。 「研究室にな、またキナ臭い奴が入り込んでるみたいなんだよ」 その言葉に僕は思わず顔を歪める。 「何だ…。またいかがわしい仕事に首突っ込んでるのか」 「金になるからね。金の為なら何でもござれ」 「キナ臭い方でなければ、お父様とご縁は作れません」 香奈子嬢は蔑んだような視線を虎ノ門に向ける。 「資料を複製した跡や、夜間侵入した形跡もある」 「どうやら、研究室内部の人間みたいですね」 香奈子嬢の言葉に、虎ノ門の片眉が上がった。 「何で分かる?」 「そこまでされたら普通、警察に通報しますよ。身近に心当たりがあるから教授の所に来られたんですわ」 「まあ、余り深くサツの世話になりたくないのもあるがな」 カラカラと虎ノ門は快活に笑った。 助手の吉岡ナオ、事務員の重田寛、助教授の江村昌幸。 「この3人が怪しいと思ってる」 「理由は?」 「この3人位しか俺の部屋と研究を把握していないし、研究室の合鍵を持っている。それぞれ俺に不満を持っている」 むしろ君に不満を持っていない人間を探す方が困難じゃないのか? 「そう言うなよ」 虎ノ門は香奈子嬢の煎れた緑茶を飲み干し、甘ったるそうな饅頭にかぶりついた。 「俺の勘だが、何となく最近あいつらの様子がおかしい」 2つ目の饅頭に手を伸ばす虎ノ門。 「まず、助手の吉岡は曲がった事が嫌いな堅物女だ」 若くて割と可愛い癖にブスッとしてて、俺が引き受けるヤバ目な仕事にイチャモン付けて、毎回喧嘩になる。 「事務員の重田とは、20年来の犬猿の仲だ」 大学在籍時代から目を付けられて、備品の管理や光熱費やら、毎回喧嘩になる。 「助教授の江村は、俺が失脚するのを虎視眈々と狙っている」 この前も喧嘩したばかりだ。 「喧嘩をせずには居られないのですね…」 憐憫の眼差しを向ける香奈子嬢…。 僕は早々に視界進行役に回り、話を促す。 「つまりその3人の誰かが、情報を流してるんじゃないかと?」 「どいつもこいつもきな臭い上、3人共喧嘩したばかりだ」 「どんな喧嘩を?」 香奈子嬢はコポコポと、虎ノ門の湯のみに茶を継ぎ足す。 「最近吉岡の顔色が悪い。寝てないようだったから聞いてみたら 『料理にハマってて、遅くまで作ってる』 なんてぬかしやがって。説教してやった」 「事務員は最近やたらと俺のタバコの注意をしてきやがって、禁煙だの病気の元だの。それでだ」 「助教授とは酒の事で喧嘩になった。アイツ下戸だからって俺の事『能なし酔っ払い』とか言いやがったからコレだよ」 と、拳骨を見せ付ける虎ノ門。 「ふぅん」 と、麗しい唇を尖らせる香奈子嬢。 「ちなみに、今やっている研究はどんなモノですか?」 「今は国からの頼まれ事で、ちょっとしたサンプルを糞程作ってる。気の遠くなるような単純作業だ」 あと1ヶ月は掛かるな、と虎ノ門は顔を歪める。 「ふぅん」 と、香奈子嬢。 「あ」 その時僕は気付いた。 僕は鈍感で頭が悪いから、誰が裏切り者なのかなんて全く検討がつかない。 だけど、全く話の違う事に僕は気が付いた。 「虎ノ門、そういや君」 「そういえば虎ノ門教授。今日は何日でしたかしら」 僕の質問を遮り、香奈子嬢が質問をする。 「今日?11月2日だろ?」 「それが分かっているなら早く研究室にお帰り下さい」 「帰れ…だと?」 その言葉にプチプチ…と虎ノ門の頭の血管が千切れていくが、 香奈子嬢は全く動じず、注ぎ直した湯呑みを掲げると。 ジャバジャバジャバ 「っっあっっっっっつ!!!!!!!!」 虎ノ門教授の頭にぶっかけた。 ………そして。 『二度と来るかこんな研究室!』 という言葉を残し、虎ノ門影雪教授はやはり疾風の様に立ち去っていった。 僕は呆然と、香奈子嬢を見つめる。 「か、香奈子嬢…何故」 「手がまた滑ったんです」 申し訳なさそうに顔を伏せる香奈子嬢。 泣いているのだろうか、肩がピクピク震えている。 嗚咽をかみ殺しているらしく、時折「クッ…笑え…フフッ」と切ない泣き声が聞こえてくる。 そうか、本当にウッカリだったのか。虎ノ門には後でフォローしておかないと。 僕の独り言は兎も角。 僕は香奈子嬢に聞いた。 「香奈子嬢、もしかして真相分かった?」 香奈子嬢はニコリと微笑み、断言した。 「分かりますよ。どう考えても虎ノ門教授は皆さんに好かれていますから」 好かれてる?彼が? 「しかし君も聞いただろう。彼はあの3人とは喧嘩ばかりだと」 「喧嘩する程、仲が良いんです」 香奈子嬢は会議の進行役の様に、理路整然と言葉を述べる。 「まず虎ノ門教授と3人は、そもそも嫌い合ってはいません。むしろ気に掛け合っています」 「しかし今の話には」 「大体3人の喧嘩の内容を思い返して下さい」 「……」 「教授は吉岡さんの顔色が悪いと『心配して』声を掛け、重田さんは禁煙しろと体を『気遣い』、 助教授は生意気な口が聞ける程、『気安い』仲です」 「…成程」 「お互い不器用だから、言葉と気持ちが行き違うのでしょうが」 香奈子嬢は呆れたように肩をすくめ、ふと口調を変える。 「そんな3人が不審な行動を取り出す。知らない間に研究室に変化が起き、 助手は寝不足に、助教授はいきなり自分は飲めない酒の話を持ち出す」 「そして来る11月2日」 今日は何の日ですか? 女神のように微笑む香奈子嬢を前に、僕は自然と、先程言いそびれた言葉を口にしていた。 「今日は…」 後日。 真っ赤なリボンが掛けられた一升瓶とニコレットガムを両手に持って、 バースデーケーキを食べさせて貰っている笑顔の虎ノ門の写真が、携帯から送りつけられてきた。 すぐ側には、1ヶ月は掛かると思われていた数百のサンプル資料が、整然と置かれている。 何だか羨ましくなるような光景だった。 余程意気投合したのか、冬には4人で温泉旅行に行くらしい。 僕らも行ってみるかい?と水を向けると、 何故か香奈子嬢は顔を真っ赤にして、湯呑みを取り落とした。 SS一覧に戻る メインページに戻る |