今日も『彼』の沈み加減は、目立って酷い。
試合を終えて住み慣れた石造りの部屋へ戻って。
硬い無垢木の扉を閉めて、灯りも燈さず窓際に立つ彼を見て、改めてそう思った。
マルスの様子がおかしくなったのは、ついこの間。
祖国から来たという騎士に連れられて、自国への扉をくぐってからだった。
アイク自身もせいぜい数ヶ月に一度、妹と顔を合わせに行く程度。
なのでそんなに気にも留めていなかったのだが、訊けばもう一年近く故郷へ戻っていなかったのだという。
こちらの世界と向こうの世界には、時間の流れ方に大きな違いがあるらしい事は、数回の帰郷を経て解った。
それがどの程度のものなのかという法則は、世界によってまちまちらしい。
だが、少なくとも一国を担う王族として、そうまで顔を見せないで居るのはどうかと思う。
そう言って渋るマルスを送り出したのは、他ならぬアイクだ。
だからこそ余計に、帰ってきた彼の泣き出しそうな顔が気になって仕方がなかった。

『分水嶺』
 
「何があった?」
後ろからそう声を掛けても、細身の身体は普段からは想像も付かないほど動作が緩慢だ。
そろそろ冷えてくる時期だというのに、いつもの薄い部屋着一枚で窓際に立つ彼は、ゆっくりと振り返る。
「別に…何もないよアイク」
「そんなに解りやすく落ち込みながら何もないとかいうな。悪い癖だぞ」
背にした窓から差し込む月の光が、白い寝間着の薄布を透過して、細い体の線を浮かび上がらせる。
なんとなく艶かしく思ってしまい、慌てて目を逸らして、アイクは続けた。
「帰ってきてから元気が無い事ぐらい解る。あんまり見くびるな」
そういうと、あれ?とばかりにきょとんとされる。
口には出さないが『そんなに鋭かったっけ?成長したね…』とでも云いたいのは雰囲気で解った。
巨大なお世話だと云ってやりたいが、声に出されても無いのに反論は出来ない。
「いいから話せ」と続けると、彼は渋々という顔でぽつりぽつりとその胸の内を言葉に綴った。
「僕は祖国にたくさんの仲間が居てくれて…その中に、姉と…幼なじみの魔導師が居るんだ」
「うん、前に聞いたことがある。その頭飾りの人だろう?」
言葉と共にアイクが指さす先には、金色のティアラ。とあるきっかけで姉に貰ったものだ。
マルスは小さく首を縦に振った。
「そう…その二人が…ね。」
「恋にでも落ちていたか?」
アイクとしては場を和ませんと慣れぬ軽口を叩いたつもりだったが、はたしてマルスはギクリと顔色を変えた。
少し伏せられた目としかめられた眉が、アイクの言葉を肯定している。
「…なんだ、めでたい事じゃないか」
なんと言って良いか解らず、当たり障りの無い言葉をかける。
視線は図らずも釣られて、同じく伏せられた。
「そう…だよね。うん、そうなんだけど、ね。」
そういって薄く微笑む顔が、なんだか寂しげなのは見間違いではない様だった。
 
祖国を奪われ、自分の為に敵に捕らわれ、散々な思いをさせてきた姉。
その姉がやっと得た幸せを、祝福こそすれ否定するべき理由などない。
それはマルス自身にも良く解っていた。
目の前の好青年が当たり前の様に言ったとおりだ。とてもめでたい事なのだ。
だが。頭ではそう解っていても、どうしても感情がついてこない。
乱闘大会に呼ばれたからと王の身で国を離れ、大会中を理由にろくに帰りもせず。
自分がそうしてここで一選手として時間を遣っている間、祖国を守ってくれているのは姉を初めとする仲間達である。
それだけ恩が有りながら、その幸せを手放しで喜べないとは、なんと薄情な事か。
仕舞いにはどうしてただ良かったとだけ思えないのかと、自分を悪魔か何かの様に思ってしまう。
日が落ちてすぐ帰って来てから、月の登りきる今まで。
ずっとずっと考えているのに、気持ちの整理はつかないままだ。
「どうしてだか解らないんだけど、どうしても手放しで喜んで上げられないんだ…」
酷い話だろう、こんなに世話になっておいて。
ぽつりとこぼす様に呟くと、アイクの大きな手がマルスの頭を掴むように置かれた。
驚きの表情で見上げるマルスの視界が大きく傾ぐ程に、アイクは黙って揺する様にマルスを撫でた。
背にした窓からは月の光。頭上から差し込んで、アイクの柔らかな微笑を包む。
少し青白い光が、青い髪と目を染め上げて。
月の耀きに縁取られたアイクの瞳は、いつもより一層優しげだ。
「酷くなんかないだろう」
「…え?で、でも…」
「色々あって一緒に居られる時間が短かったんだろ?その分姉離れ出来なくても不思議じゃない。」
その幼馴染ともな。
見透かすように微笑まれて、また頭を撫でられる。
たったそれだけで一気に心が軽くなった、気がした。なんだから許された様な。
解って貰えた様な。
 
マルスの表情が落ち着いたそれに変わったのを見て、安心しつつ彼の傍を離れた。
壁のランプに手を伸ばして、中の油紙に灯りを燈す。
一瞬の間をおいて燃え上がったランプの光が、狭い石造りの室内を温かく照らすのを待って、「窓を閉めろ」と云った。
「もう夜は冷えるんだから気をつけろ」
そう云ってベッドの上から拾い上げたブランケットを、マルスの細い肩に掛ける。
不意に触れた肌の柔かさにおかしな気分になりそうになって、思わずその白さから目をそらした。
すると、こちらの気持ちを知ってか知らずか、「ふふふっ」と笑い声が聞こえる。
「なんだ?何が可笑しい?」
「ううん、ごめんね…なんだか大人びた事云うんだなって…僕より年下なのに…」
綺麗な顔に笑顔を浮かべて、細い指を唇に当てて、くすくすと笑う。
今泣いたカラスが、という奴である。
元気になったのは嬉しいが、年の事を云われるとどうにも面白くない。
「年なんてそんなに違わないだろう。精々2〜3の差じゃないか」
不貞腐れた様にいうと、「そうだね」と頷かれる。
いつも通りの余裕だ。なんだかんだで、その差が埋まったと思った事は無い。
彼はいつだって自分より少しばかり大人で、冷静で、しなやかで強かった。
元気になった様子に安心して、傍を離れて自分のスペースへ戻る。
視界には初めて会った時に運んだ衝立だけ。
それは今でも部屋の真ん中に居座って、自分と彼を完全に隔てていた。
薄布一枚張っただけの、金属の枠を恨めしく見やる。
他の人間なら例えば衝立を置かれたとて、こんなにも邪魔に思わないだろう。
それがマルスというだけで、何故こんなにもこの白い布は、憎らしい存在になってしまうのだろう。
出来るならこんな物すぐにでも取り払って、いつでも先程の様に頼って欲しい。
弱っている所を見せてもらえる様になったのは、正直に嬉しく思う。
だが、嬉しく思うのは困っている彼を喜ぶのと同じである。
それはなんだか申し訳ない。そもそも何故頼られるのがこんなに嬉しいのかも解らない。
ただ、頼られたい。縋られたい。支えたい。そんな風に思ってしまう。
ベッドに座ってつらつらとそんな事を考えていると、不意に袖を引かれた。
振り向くと、普段は絶対に衝立のこちら側に来ないマルスが、目の前に居た。
「ど、どうした?」
驚いて上ずった声にも気付かず、マルスは少し赤い顔をして、躊躇いがちに云った。
「お礼を言い忘れてて…。その、話を聞いてくれて有難う。とても、助かったよ…」
きゅっと赤い袖を掴む細い指。恥じらいから伏せられた顔。
それでも青く澄んだ瞳は真っ直ぐにこちらを見ていて。
何故か見ていられなくなったアイクは、曖昧に言葉を濁して体ごと目をそらした。
 
その晩そっけない態度を後悔したアイクは、空の白むまで眠りにつけなかった。

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アイクがマルスを好き過ぎて笑えました。(ちょ、書いてる本人!
いやもう書いてて笑えます。笑い事じゃないけど。
人に頼られる事が嬉しいというのは、その人が頼らなければならないようないやな思いをしているという事とイコールな訳で。
そう思うと、頼られたいというのは結構なエゴだなぁと思います。
人それぞれだと思いますけどね。

でも頼られるってのは、そういう弱い領域を見せて貰えるって事だと思うので、やっぱり誇らしいつか嬉しいなぁと。
実際は物凄く頼りないイキモノですけどね自分。(しっかりしろよ!

とりあえず今回はマルスさんがちょっと境界を越えるお話でした、と。