1*10です。

『捨てた猫の拾い方・下』

季節に似合わぬ熱い湯だ。
汚れきった髪や体を念入りに洗い、手足の伸ばせる風呂にとっぷりと浸かって、結城はようやく大きく息を吐く。
一度では落とせなかった髪の汚れも、二度三度と洗うたびに元のやわらかい手触りに戻った。
シンプルな白いパッケージの洗髪料は、ボディソープと同じブランドのものらしい。
鼻に残らない程度の清潔な石鹸の香り。
湯船に浮かべられた檜入りのプラスチックボールを妨げる事の無い程度に押さえられている。
身だしなみに煩そうな彼の事だ。
恐らくは特注で揃えたのだろうそれらを、結城は湯船の向こうに忌々しげに眺めた。
入ったばかりの時は熱すぎると思った水温も、疲れ切った体を癒すには丁度いい温度だ。
見たところ自動で温度を保つ装置があるわけではない。
つまり彼は辻から自分の生存を聞き、そろそろ姿を現すだろうと踏んでこの湯を用意していたのだ。
薄汚れて現れるだろう事も。熱いたっぷりの湯で癒したい疲れがあるだろう事も。
何から何まで、見透かされている。
そんな思いが頭から離れなかった。
風呂を上がると、目の前の棚には新品のタオルと下着、それにフリーサイズのシンプルな部屋着が用意されていた。
一瞬だけ躊躇したが、元の服は探しても見当たらない。
裸で出て行く訳にも行かないから、仕方なく用意された服を身に着けた。
185cmの長身だが、元々良くない体格は昨今の栄養失調でかなり細くなっている。
だから、腰のところで紐を結ぶタイプのその服は、正直とても有り難かった。
「…そんな所まで…見透かされてるんだ…」
ポツリと落とした呟きを聞きつけたのか、脱衣所のカーテンの向こうから彼の声がした。
「上がったの?」
「…はい…お風呂、有難う御座います…服も…」
嫌な奴だと思いながら部屋を訪ねたはずなのに、結局律儀に礼を言ってしまう自分に、いっそ乾いた笑いが浮かんでしまう。
口では何とでも言えるけれど、顔を見ると逆らえない。
物部はそんな相手だった。
そんな複雑な心情を知ってか知らずか、しなやかな筋肉を纏った腕が伸び、いともたやすく結城の乾ききらない髪を引き寄せる。
「ちゃんと乾かしなさい。夏でも風邪は大敵だ」
ともすれば緩やかな命令にも聞こえる諭すような声に、結城は黙って頷いて、頭からタオルを引っ被った。
 
フローリングの廊下を抜けた先は、眺めの良い大きな窓が広がるリビングだった。
白を基調とした清楚な雰囲気のテーブルセット。
姿見にでも使うのかと冗談を言いたくなるような、巨大な薄型のテレビ。
一人分の食事が用意された食卓の隣の棚には、物部の所有する青いカラーのノブレス携帯が置かれている。
「食事の、途中…でしたか?」
綺麗に盛り付けられたそれは、恐らく素人の手によるものではなく、高級デリバリー品だろう。
調度品や風呂セットやテレビだけでなく、こんなところにまで金をかけて…と、言いようの無い憎しみが結城の心に影を落とした。
ところが、キッチンから出てきた物部の答えはこうだった。
「それ、君の分なんだが」
「へ!?」
思わず口がぽかんと開く。この人は何を言ってるんだろう。
自分の言葉に声を失った結城を見て、物部はくすりと笑みを漏らした。
「いいから食べなさい。まともに食事を摂っていないんだろう?」
さりげなく食卓に付くよう促して、空のカップに暖めたばかりのスープを注ぐ。
湯気と共に上がるポタージュの緩い香りに誘われて、結城はおずおずと白い皮張りの椅子に座った。
空腹をくすぐる香りに腹の虫がきゅうぅと鳴き声をあげて、思わず真っ赤になって顔を伏せた結城の髪を、物部はそっと撫でる。
猫の様な柔らかい手触り。癖の無い長めの髪が指を滑る。
半年前と変わらない、いやそれ以上の仕上がりに、自然物部の顔は緩んだ。
「綺麗になったね、元通りだ」
そう声を掛けると、目の前の童顔の男は飲み込みかけたスープにむせた。
「な、に…言って…!」
「血色もだいぶ良くなったし、後は栄養と睡眠を摂ることだ」
そういいながら人の悪そうな眼鏡の男は、まるで拾った子猫でも撫でる様に、髪を撫で続ける。
最初はくすぐったいような感覚に一々反応していた結城だが、どんな人間でも食欲には敵わない。
体の温まるスープ、柔らかめに炊かれたご飯、栄養価が高く脂肪の少ない鶏肉は食べ物を長く摂っていない胃にも優しい。
なるほど、確かにこれは確かに自分用の食事だと、介護経験のある結城は思った。
暖かく、食べやすい食事。自分の為の。
そう思うと、思わず視界がぼやける。何年ぶりとも解らない、瞼の淵に涙が溜まる感覚。
必死に顔を伏せてそれを隠してみても、下を向いたおかげで逆に雫が落ちた。
三十路も過ぎてご飯を食べただけで泣くなんて、意地の悪い物部に気付かれたらどれだけ笑われるか。
そんな思いが頭をよぎり、結城の顔はますます下を向いた。
ところが、物部はそんな彼の予想に反して、黙って真っ白なハンカチを手渡し、ただずっと頭を撫でるだけだった。
 
「ごちそう…さまでした…」
消え入る様な声で呟くと、相手は黙って頷いた。
久しぶりに体の芯から暖まった気がするのは、熱い風呂や温かい食事のおかげだけではないだろう。
あんなに酷い人だと思っていたのに。
結局また自分は、この何を考えてるのか解らない胡散臭いエリート様に救われてしまったのだ。
しかもそれが大して嫌ではないと来ている。
これが世に聞く餌付けというヤツだろうか。
そんな事をつらつらと思っている結城の前に、一枚の紙が置かれた。
「え?」
手にとって見ると、文面は堅っ苦しいがどうやら請求書らしいと解る。
「タオル代…下着代…室内着代…デリバリー代!?」
恐らく自分がこの家に入ってから、食事を終えるまでの全てが金額に換算されているらしい。
タオルや下着や服など、貧困に喘いでいた結城には想像もつかない値段のものだ。
通りで着心地が良い訳だなどと、場違いなことを考えてしまう。
胃に収まった料理も、恐らくは自分の意思で選択することは一生ないような店の物らしい。
総額しめて4万6千7百と21円。
決して非現実的な金額ではない所が、余計にその内容の正確さを伺わせた。
「水道代とガス代と電気代はおまけしてあげるよ。そこには載ってないだろう?」
追い討ちを掛ける様な物部の声に、思わず結城は眩暈を覚えた。
「ちょ、と…待ってください!僕、こんなの、頼んでない…!」
「おや?その割には泣く程堪能したようだが?」
言われてぐっと唇を噛む。
実際風呂やら服やら食事やら、与えられるままに貰ってしまったのは事実だ。
そして、その施しに思わず涙したのも。
「そんなお金…ありません…」
消え入る様な声でそう告げた。もう顔も上げられない。
先程とは別の理由で、涙が零れそうになる。きっと顔も真っ赤だろう。
『騙された』。半年前と同じ言葉が、ぐるぐると結城の心を回り、彼の頭を項垂れさせた。
「じゃあ、他の方法でなんとかしてもらうしかないね」
闇金の取立ての様な冷静沈着な、有無を言わさぬ声が降り注ぎ、結城はのろのろと顔を上げた。
「なんですか…?何、させる気ですか…?何でもいいですけど…」
言っとくけど、何も持っていませんよ?
自分自身をあざける様な表情で、大げさに肩をすくめて見せながらいう。
余程酷い顔をしていたのだろう、眼鏡の奥の鉄面皮がほんの一瞬揺らいだ。
一応結城とて、最低限度のプライドはある。
方や住所不定無職の炊き出し村住民。もう方や一等地のマンションに暮らす商社マン。
しかも元官僚という経歴のオマケ付き。
高級なタオルや着替え、広い風呂いっぱいの熱い湯、高級デリバリー食。
それらを全ていつの間にか手配出来る男と、その代金すら満足に払えない自分。
悔しいと思う事すら悔しくて、自嘲する以外に出来る事が無かった。
そういえば、先程風呂で『ソッチの趣味』を否定されなかった事を思い出す。
嫌か嫌でないかといわれれば物凄く嫌だが、そんな事で足りない金が補えるなら構わない。
半ば自暴自棄になって放たれた問いに返されたのは、しかしてとても意外なものだった。
「それじゃあ結城君。君、この家に一緒に住みなさい」
やや微笑を浮かべた顔でそう言われ、思わず目を見張る。
「はぁ!?な、何言って…」
「おや、何でもいいんじゃなかったのかい?」
口元を歪めてくすりと笑う顔に、結城はとうとう二の句が継げなかった。
 
この日こうして、結城は物部のものになった。


**********************************************************************************
このサイトだと何故か同居してたりするかも…という説明を兼ねて書いた文章でした。
眼鏡が酷いヤツでスミマセン…!
しかし何故私の書く攻は腹黒かそれとも天然かの二択なのでしょう…。
あ、一応ちゃんと物部は結城君への愛あります。溢れてます。