遠く低く、荘厳な鐘の音が響く。
位置的に築地の寺の物だろうと思われる、年を跨いだ合図の鐘の音が、帰省ラッシュを終えて人口が驚くほど減った都心の闇夜を震わせて。
また新しい歳の訪れを告げるのだ。
そう、深い闇と冷気を拒絶する分厚い硝子と、薄く引いたカーテンの向こうを眺めて思う。
高層階特有の強い風がしきりにベランダへと続く引き戸を叩いていて、ゆっくりと鳴り響く鐘と相まって、音の無い部屋を容赦無く満たしている。
まだ会話があれば。そう物部は思う。
会話があるか、TVが付いているか、はたまたそのどちらもがあれば、こんなにも耳の底から響くような事にはならないのに。
そう思う。
ちらりと顔を傾けて、視線を目の前の男に送る。
食事時に時折そうするように、長い髪を後ろに束ねて、わき目もふらず蕎麦をすする男。
その目は頑なにこちらへ向く事を拒んでいたし、音も立てずに年越しの伝統を流し込む口は、言葉一つ吐き出そうとはしなかった。
一体どうしてこんな事になったのか。
溜息さえも自由に吐ける空気ではないな、なんて思いながら。
物部は遠慮なく、あてつけがましい溜息を吐いた。
 
『ゆくとし×くるとし』
 
年の瀬の喧騒の中を、忙しなく人々が行きかう。
普段は夕食時くらいしか混み合った試しがない近所のスーパーも、午前中から満員である。
この辺りに居を構える人間は、実は代々この土地に住んでいる人が多いのだと、結城は最近になって気付いた。
高層マンションが新造されて、すっかりと印象を変えてしまった場所ではあるが、なるほど一本道を入っただけで、古い町並みが当たり前の様にどっしりとその場所に根を下ろしている。
年末の帰省で帰るのは『帰る所が他所に有る人だけ』なのだという事を、結城は漸く思い当たった。
ここにいる人たちは、何処か遠くへなど、帰る必要がないのだ。
ただ、住み慣れた我が家でいつもの様に正月を迎える。それだけの事なのだ。
だからこそここに並んだ商品は、注連縄やら松飾りやら少し大きめの鏡餅やらの、いわゆる自宅で年越しセットなのだ。
少し離れたオフィス街の中のスーパーに並んだ帰省用品やらみやげ物やら、はたまた店舗用の大きな飾りを思い出して、それをよりいっそう実感する。
ここは特別な場所になんか帰らない人たちが、日々を生きている場所なのだ。
なんだろう、なんだか、そういう場所っていいな。そんな風に思う。
何だか気分を良くして惣菜コーナーへ向かう。
鮮やかに広がった掻き揚げと、海老とかぼちゃの天麩羅。
手作りが売りの店だから、形も大きさもまちまちだ。
大きなひと揃えと、少し小ぶりなひと揃えが、同じ透明パックの中に納まっているのを見掛けて、結城はふっと笑みを漏らした。
はるか昔にまだ元気で、そして仲睦まじかった両親の使っていた、夫婦茶碗の様だ。
そう思って少しだけ迷って、結城はいつもより少し奮発したそのセットをカゴへ入れた。
 
年越しの蕎麦を茹でるのは随分久しぶりだった。
まだ両親が生きていた頃、『長生き出来ますように』と言って、母親が毎年茹でてくれていた。
一時期は長生きなんて、と思っていたけれど。
だけど。
くるりと振り返ってダイニングの方を見る。
家主の男は休日であるにも関わらず、きっちりと髪を撫で付けて、難しい顔をしてノートパソコンとにらめっこをしていた。
特に会話を交わすでもない、今年最後の夜。
ふとこちらの視線に気付いたのか、顔を上げて眼鏡を軽く直す。
「どうした?」
「いえ、なんでもありません…!」
慌てて首を振ると、「ならいいが…」とそっけなく言って、物部は再びPC画面に視線を戻した。
顔が赤いのがバレなければいいのに。そうしたらきっと、言わなくて済む。
『貴方となら、長生きだってしたいです』なんて、そんな呆れられそうな事、知られなくて済むのだ。
 
 
物部は、自分を『反省をしない主義』だとは思わない。
どちらかと言えば、『改善点を見つけ、同じ轍を踏まぬ様に次に首尾良く切り替える性質』だと自認している。
だが、その為には失点の本質を見極めなければならない。
そうでなければ、いかな物部といえども改善も回復も出来ないからだ。
目の前で完全に拗ねきった顔をした男をゆっくりと見つめながら、そもそもの経緯を思い出す。
仕事が丁度一段落ついたあたりで、キッチンから「蕎麦が出来た」と声が掛かった。
作成したばかりの書類を保存し、PCの電源を切り、自室へ置いて。
最新式のシステムキッチンから、綺麗に盛り付けられた天麩羅乗せのかけそばを、真っ白なテーブルへと運ぶ手伝いをした。
そして席について、「ありがとう頂くよ」と声も掛けて。
食べ始めた途端にこの不機嫌さである。
いったい何が気に食わなかったのか、考えても一向に解らないのだから、反省も改善も修正も回復も一切出来ない。
それが物部には非常に不満だった。
除夜の鐘が鳴り止んだ頃、漸く痺れを切らして、結城がぼそりと声を上げた。
「…どうして、そっち、食べちゃったんですか?」
「は?」
顔も上げずに言われた言葉に、思わず眉根を寄せて問い返す。
すると、整った顔を見る影も無く歪めた結城が、勢いをつけて頭を上げて。
「どうして、天麩羅小さいほう、食べちゃったんですか!?僕、…物部さんには大きい方を…っ!」
珍しく大声を出したせいか、途中で声を詰まらせて結城は肩で息をした。
「天麩羅…?別にどちらも似た様な物だったろう。仮に私が食べた方が小さいとして、君が大きい方を食べられたならいいじゃあないか」
意味が解らないながらに冷静に答えると、結城の顔が見る間に曇った。
涙を浮かべたまま不貞腐れた様に「もういいです…」と呟いて、二人分の食器を持って台所へ向かう様子は只ならぬ物で。
「は?…待ちたまえ結城君」
慌てて席を立って、自分と同じ高さの、自分とは比べ物にならないほど細い背中を追いかける。
キッチンの入り口に差し掛かった腕を掴むと、反動で結城は器を床に取り落とした。
「っあ!」
床暖房入りのフローリングの床0材は、思ったほどの硬度は無く、形を保ったままごろりと転がった器に安堵して。
それから結城は、眉を吊り上げて勢い良く物部に向き直る。
「何するんですか!危ないじゃないですか!割れたら勿体無いでしょう!?」
拾った器を手に強く言う声に圧倒されて思わず口を閉ざすと、事の他物を大切にしたがる男は、黙って洗い場へ向かった。
 
 
我ながら気にしすぎだと解っている。
そもそもちょっとした大きさの違いで両親の日用品を思い出して、それにあやかって年を越したかったなんて。
理由からして馬鹿馬鹿しい。
よくよく見ないと解らない様な僅かな違いだけであんなに拗ねて、挙句家主を怒鳴りつけるなんて、追い出されても文句は言えない行いだ。
時間が経って冷静になればなるほど、結城の心は反省と後悔で一杯になる。
物部に謝ろうかとも思ったが、嫌われたと思うと怖くて言葉が出ないままだ。
お節と雑煮の仕込をしながらこっそりと見遣ったダイニングで、先程の三倍以上不機嫌な顔でパソコンのキーを叩く物部を盗み見ながら、ひっそりと溜息を吐く。
むしろ両親達とこの人と自分の関係を、ダブらせようとした事自体があまりにも馬鹿だ。
この人の事を好きだと、愛しているのだと自覚してもう随分経つが、時間が経てば経つ程自分が物部と言う人の中でどれだけ小さな物なのかを自覚する事になった。
寄る辺の無い自分を保護してくれるのも、こうして同居が許されるのも。
結局のところ家事をさせる程度の意味でしかないのだ。
今更辻君にもbSにもbXにも同居が知られている状態で、自分を追い出したとあっては外聞が悪いから。
そんなところだろう。
何が夫婦だ、と心に思う。あんまりにも一方通行で、好かれてなんかないのに。
そう思うと自然自嘲めいた笑みが浮かぶ。
と、コンロの火を止めるのを見計らった様に、自分より一回り大きな掌が自分の手を掴んだ。
「っな、ん…!?」
慌てて振り返った頭をもう一方の掌が強引に引き寄せ、結城の細い体は丸ごと物部の腕の中に落ちる。
「…も、ののべ、さ…!」
「何を泣いてる?」
言われて初めて視界がぼやけていると気付く。
かぁと頭に血が上るのが解って、慌てて目元を拭いながら顔を背けようとするが、しっかりと頭を捕まえた手がそれを許してくれない。
「見ないで、下さい…」
一生懸命に出した声は、それでも震えてしまう。
こうやって抱き締められて、泣かされて。
キスを貰って、それ以上を貰って。
いつだってそれでおしまい。あとは何も無かったみたいに、過ごすだけ。
でもそれでも、一緒に居られるなら。そう思ってしまう自分が悔しかった。
大きな手が、すらりとした綺麗な指が頬に触れて、こぼれる液体を掬い取って。
その感触が気持ち良くて、結城は次第に力を抜いて物部に身を預けていた。
だが。
「泣くほど天麩羅にこだわりでも?」
鼻で笑う様な声に思わず見上げた顔は、まるで年端も行かない子供に困っている様な顔で。
結城の怒りは再燃した。
「だから!僕は物部さんに大きい方を食べて欲しかったんです!大体こうやっていつも誤魔化して…っ!僕が、こういう事されたら嬉しいって知ってて…っ、酷いです!!」
 
 
大きな音を立てて乱暴に閉められた私室へのドアを眺めて、物部は何が何だか解らないという顔で立ち竦んだ。
気を取り直そうと視線をやった先には、綺麗洗われた器が二つ。
塗り箸も並んで二人前。
隣の調理台には、詰められ途中のお節料理が、半分程の空席を残して放置されている。
一人住まいの頃には自炊などした事も無かったし、正月もたいしたイベントではなかったのだが、今年は結城のお陰で有意義だと思っていた。
思ってはいた、のだが。
「どうやら通じていなかったようだな…」
溜息を吐いて、皺の寄った額を押さえて。
事態を収束させんと結城の部屋へ向かったが、すげなく追い返された。
 
 
頑なに無口を貫いていた結城に、「考えてみれば物部さんて元々そういう人ですよね…」と更に拗ねられながら漸く口を聞いて貰えたのは、新年二日目の夜になってからだった。

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110 の年末年始
『大掃除中に喧嘩勃発、そのまま新年へ。仲直りしようと攻が姫はじめを仕掛けるも撃沈、口を聞いてもらえるのは2日になってからでした。』
という、某ついったの診断ネタでした(笑
喧嘩の内容のネタ出しは某まるいち様にお願いしましたw
ウチの110は関係は最後まで進んでる癖に、精神的には一歩も進んでないと気付いた新年ネタ…(苦笑
感情表現下手な1×自信が無さ過ぎて何一つ伝わらなくて勝手に拗ねる10って感じで…。
まぁそれが可愛いんですけど!(ヲイ