結論から言えば、結城を待ちわびる滝沢と咲の前に現れたのは、結城ではなく火浦元院長だった。
彼はなんだか呆れたような、それでいて少し心躍る様な表情で、彼らの待ち人がどうなったかを告げた。
季節は真冬。
もうすぐ日本の首都さえも白く染まる頃だった。
 
『西側の楽園 \』
 
足が竦むのを自覚して、細い体は余計に震える。
カチカチと歯の鳴る音がする。空調の効いた病室は、決して寒くなどないのに。
象牙色の壁と、真っ白なリネン。足音を飲み込む緩衝材の敷かれた床は、仄かな緑。
実に目に優しいはずの病室も、今の結城の心を軽くはしてくれない。
鼻を突く消毒液の匂いは何処よりも強く感じたし、絶えず空気を送り込み続ける呼吸器の震動も、心音を示す電子音も、輪をかけて酷い緊張を生むばかりだった。
ベット数僅かに四台。その殆どは空室で、一番奥に横たわるその男のベットの側には、そこの主と結城の二人しかいない。
「誰だ、と聞いている」
威圧感のある物言いに、肩が、浮いた。
「あ、…のっ!」
辛うじてこじ開けた口から出るのは掠れた声だけ。言葉にならない。意味を成さない。
何一つ、伝わらない。
「…まずは名乗りたまえ」
目を見開いてぱくぱくと口を動かすだけになってしまった結城に、物部は気だるそうに言う。
それは確かに正論で、きっと苛立ちと共に発せられた言葉だったのだけれど。
結城にとっては、後押しの様に貴重な言葉だった。
「…っ僕の、名前は、結城亮です。貴方の事は、…滝沢朗から、聞きました」
そう告げると、物部はゆっくりと微かに震える手を伸ばし、口と鼻を覆う緑のプラスチックを外した。
 
 
電子時計は刻一刻と時間を刻み、いつしか見るのが恐ろしくさえなった。
大丈夫だと、そう信じてはいても、どうしても気分は晴れやかになどならない。
咲の視線は時計と、大きな硝子張りの病棟とを、交互に行き来するばかりだ。
「似合うね」
「へっ!?」
急に掛けられた右側からの声に、驚いて声が上ずる。
「その花。結城のでしょ?」
指し示されたのは咲の腕の中にある花束だ。
上品で、華奢なそれは、今にも咲の緊張で抱き潰されてしまいそうだった。
唐突な滝沢の言葉が、さりげなく咲の腕の中から花達を救う為の物だと気付いて、咲は思わずがっくりと落ち込む。
「あ…」
やっちゃった…と言いたげな恋人の顔に微笑って首を振って、滝沢は強ばった小さな手に掌を重ねる。
「大丈夫、無事だよ」
そう言って強く握られた手は暖かかった。
「結城さん…遅い、ね」
そう紡ぐ言葉の端に、まだ大して時間が経っても居ないのに、という躊躇いが有って、咲自身が混乱する。
遅くなどないし、そもそも遅くなるということは、決して悪い結果ばかりを産むとは限らない。
それでも。
咲は隣で微笑む想い人から目を逸らし、助手席の窓を眺める。
白い壁と大きな硝子の自動ドア。
そのドアが開くたび、ついつい視線を飛ばしては、小さくため息を吐いた。
訪れる患者は多く、従ってそのドアは何度も開かれて。
けれども期待した人物が出てくる気配は、ついぞ無かった。
「私ね、ずっと考えてたの…。あの迂闊な月曜日を起こした人の事…。あの時私は子供で…ただ安全な非常事態に浮かれてる馬鹿な子供で…でも…」
視線を病院の玄関に固定したまま、咲はぽつりぽつりと落とす様に呟く。
いつの間にか重く圧し掛かるように広がった雲は、今にも泣き出しそうな暗い灰色だ。
東京より山に近いその場所には既に、地面に白い化粧がたっぷりと施されている。
窓硝子越しに見上げた重さに咲は、なんだか自分の心みたいだと思った。
季節はまだ冬。丁度咲が滝沢と初めて出逢って。
そして知った頃だった。
世間を騒がせたミサイル犯は、決して抽象的な漠然とした『この国の空気』などではなく、恵まれない人生に苦悩し苦労し苦心し崩れていった、一人の純粋な青年だったという事を。
セレソンゲームの渦中に巻き込まれて初めて気付いたのは、この世に起きる何事かの殆どは皆誰かの意思や思惑や目的が後ろにあって、そこへ至る経緯や運命や人生が複雑に絡み合って出来ている物だという事だった。
両親の死という不幸こそあれど、自分を保護し見守り、育ててくれる存在が居た咲には、誰からも守られず省みられず朽ちる様に病んでいった結城の気持ちは解らない。
だから、彼の行動に賛成する気持ちは今も無い。
けれど。
「ミサイルを撃った事が良い事だなんて思えないけど…でも、結城さんが悪い人だとはどうしても思えないの…。優しくて不器用で、少し間違えてしまっただけなんだって、そう思うの。だから…」
幸せになって欲しい。
目をぎゅっと瞑って、搾り出す様にそう告げるのと、車のドアがノックされるのは丁度同時だった。
 
 
「結城くんか…すまないが覚えがないな。で、何の用だ?」
真っ直ぐに見られて、一瞬だけたじろぐ。
半年で伸びた髪はまるでかつての自分の様だ。
今まではきっちりと撫で付けたオールバック姿しか見たことが無かったが、前髪を下ろすととても若く見えると気付いた。
そういえば自分とそう変わらない歳だと聞いた事がある。この分だとどうやら本当だったらしい。
半年ぶりに見る。少し痩せたけど。眼鏡もないけど。
確かにそれは、結城を拾い上げて棄てた、結城の心の中心にある人物その人だった。
思わずふらふらと足が勝手に歩み寄り、ベッドに触れるか振れないかのところまで近付く。
ベッドの周りにはあちこちコードやチューブが散乱していて、相手の状態がまだまだ予断を許さないと教えていた。
「…大丈夫か?見たところ、君も怪我をしている様だが?」
気遣う様な言葉に思わず涙が零れそうになる。今まではそんな言葉、一度だってくれたことなど無かったのに。
本当にこの人の中にはもう、自分はいないんだ。
そんな解りきった事を改めてかみ締めて、思わず息を呑んだ結城の頭上に、「何処か痛めたか?」と声が降る。
「いいえ、大丈夫です。それより…」
網の目の様に張り巡らされたコード達の邪魔をしないようにそっと立ち上がって、小さく深呼吸して。
「今日は、お別れに来ました」
「お別れ?」
まだ会ったばかりだが?
きょとんとした顔で聞き返す物部に、はっきりと頷いて。
精一杯の精神力をかき集めて、笑顔を確かに作って。
「そうです、お別れ」
宣言する様に、結城は言った。
怪訝な顔を崩さない物部に苦笑を浮かべて、一度だけ目を閉じて。
「何を言ってるか解らないと思うけど、確かに会ったばかりなんですけど…でも、ただ聞いてくれるだけでいいんです…」
聞いて、貰えますか?
一方的な願望を込めた煩わしい筈の言葉に、意外にも物部は黙って頷いた。
結城は安堵した様に一呼吸置いて、もう一度深く息を吐いて、重い言葉を続ける。
「僕は、これから一人になるんです…ううん、ならなくちゃいけない。皆がいてくれるからこそ、だからこそ一人に。勿論たくさん恩返ししなくちゃいけないから、すぐには出来ないけど…。住む場所も、仕事も、最初から全部探して…そして…」
「…一人に?」
遮るように聞き返す声は本当に結城の身を案じているかの様で、なんだかくすぐったい。
少しだけ苦笑して、真っ直ぐに物部の顔を見る。
眼鏡を通さない黒の双眸はとても新鮮だった。
冷静さや冷徹さや冷淡さみたいな、幾重にも重ねていた鎧の剥がれたその人は、とても純粋で優しい存在だと解る。
勿論合理性を好む価値観や、芯の通った信念なんかは、生まれ持ったものだったのだろうけれど。
それでもその積み重ねた鎧に気付けなかったのは、自分の落ち度だと結城は思う。
勿論当の物部からすれば、自分の様な格下の人間にそう思われる事すら不愉快かも知れないが、それでも。
気付けば良かった。知れば良かった。そうしたら。
この人を恨んだりなんて、しなくて済んだのに。
枕元の機器は規則正しく彼の命を刻んでいる。
脳波計、心電計、酸素吸引機、二本目も既に用意された点滴、真っ白なベッド。
彼を生かす全てに目を配る。これから先も、どうか宜しく、なんて思いながら。
「一人です。ずっと、ずっと…それでいいんです」
かみ締めるように告げたその言葉は、自分の中にすとんと落ちるように染みた。
「貴方は記憶が無いんだって、滝沢から聞いて…それで、どうしても、聞いて欲しくて…それで…」
言いながら段々と声が小さくなる。無理も無い。自分でも、どれだけ的外れな事を言っているか位解っている。
記憶の無い物部にとって、自分は見知らぬ赤の他人で、急に意味の解らない事を言いながら現れた不審者だ。
そんな人間が、さらに訳の解らない理由を口にして不可思議な宣言をしているんだから、さぞや言われた方は困惑する事だろう。
だが、そんな結城の予想に反して、返された言葉はたった一言。
「…そうか」
結城を否定せず、むしろ受け入れる様な言葉だった。
意外な言葉に、結城は弾かれる様に顔を上げる。
それから大きく頷いた表情には、もはや部屋に入ってきた時の泣き出しそうな緊張感も、消えてしまいそうな弱さもなかった。
「はい、だから…会ったばかりでおかしいけれど…これでさよならです」
もう二度と僕は、貴方には会わない。
真っ直ぐにそれだけ告げて、あっけに取られた様な顔をした物部に深く一礼して。
結城はそのまま振り向かずに、大きな扉を出て行った。
 
 
それからの事を、結城は良く覚えていない。
硝子張りの視野の広いエレベーターで一階まで降りる時、病院の入り口に停まった車が見えた事だけは覚えている。
空色の少し傷ついた車。その中に自分を待っている人が居てくれる。
それがたまらなく有り難くて、少しだけ申し訳なくもなった。
結城の未来はもう決まっている。少しだけ元院長にわがままをいって、家は借りないで貰った。
皆の運んでくれた荷物は、こっそり火浦に預かって貰っている。
入院費の分だけ働かせてもらう事だけは頼み込んだが、その間も寮で暮らす手はずになっている。
そうして、それが終わったらそのまま、結城は今度こそ元の自分に戻ると決めていた。
このまま下まで降りて、こっそりと裏口へ向かって。
火浦の用意してくれた寮に向かって。
「そのまま、二度と、会わない…二度と…」
それでいい、それでいいんだ。
懸命に自分に言い聞かせながら、ひとりきりのエレベーターの硝子にもたれながら。
結城は自分の体をぎゅっと抱きしめた。
 
 
日本中に彼の魂が降り注いでから一年。
ついに結城は、たった一人の足で歩き出した。

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ここで一旦彼の物語はお仕舞いです。
彼の自立の物語は。

彼が幸せになる物語は、最後の一話に込めさせて頂きますのでどうぞ、宜しくお願い致します。