ホイッスル! 椎名翼×西園寺玲  | オレンジジュース | 玉子焼き | 無題 | 無題2





「あ……」
 ぽつぽつと空から降りてくる雫に、昇降口に着いたばかりの翼は眉をひそめる。さっきまでは止んでいたのに。部活が終了し、部室で練習メニューを見直す玲を待っていたときに降りだしたのだろう。地面は湿り、小さな水溜りをつくっていた。
 僅かに吹く風に乗って頬に吸いついた雫を手の甲で拭いながら、あいた左手を今朝を思い返しながら見つめる。天気予報も見たし玲にも持っていきなさいと念を押されたにもかかわらず、朝はさんさんと陽が降り注いでいたため、すっかりと忘れていた。一旦職員室に向かった玲を待ちながら、少しずつ量を増していく雨を恨めしく睨んだ。
「翼」
 ぱたぱたと近づいてくる足音に、来たかなと視線を向ける。
 思った通り、現れたのは聞き慣れた声と、見慣れた姿。その声に顔を綻ばせ返事を返しながら、鞄一つだけを手にした自分に訝しげな表情を浮かべる玲に、いやでも次の台詞が予想できた。
「ごめんね、待たせて。……傘は?」
 だって朝晴れてたし。そりゃあ玲にも注意されたけど、結構時間あいてたし誰だって忘れることもあるしね。などと言い訳じみた言葉を思わず羅列しそうになったのを、慌てて呑み込む。言い訳しても忘れた事実は変わらない。玲の手元の傘を目に入れながら、言った。
「忘れた。玲の傘にいれてよ。幸いまだたいして降ってないし、それに一緒の傘で帰るのも悪くないと思わない?」
 ひょいと玲の手中にある、紺色の下方に赤いラインが描かれたシンプルな傘を掴みとる。もう、と呆れ顔で見返してくる玲に苦く笑いながら、傘を持ち上げた。
 しかし開こうとした刹那、あることが頭を過ぎったと同時に、傘を掴んだ手も固まってしまった。
 当然の如く、自分が傘を持って玲をいれてあげるつもりでいたのだけれど。遠くから見ても明らかにわかる、身長差。ぴんと筋を張り詰めれば二人ではいることもできるかもしれないが、自分に合わせて差していたのでは、玲の身長になんか届かない。考えるまでもなく、それは到底無理な話だった。
 つまり差してもらうのは、自分になるわけで。
(……すっげ、かっこわるいし)
「翼?」
 どうしたの?と傘に手を添えたまま動かない翼に、玲は首をかしげる。そんな玲を横目に入れながら、渋々と緩んだ指先に僅かの圧力を加えた。面白くないしかっこわるいけど。玲にへんに気を使わせるのは、わがままを言うのは、もっといやだった。
「はい」
 ばさっと音を鳴らして傘が開く。目前に広がる紺色を眺め、玲の右手に握らせた。玲は一瞬きょとんと目を瞬かせたが直後、自分に傘を手渡しどこか無愛想に顔をしかめる翼に、翼の心情を察したのか、少しだけ、苦笑した。
「さ、帰りましょ」
「ん。……あ、貸して、それ」
 ふと気づき、反対側に提げられた鞄を指差す。
「いいわよ」
「いいから、貸して。それくらい持たせてよね」
 あ、今のは子供っぽすぎたか。即座に失敗した、と胸中で苦く呟いたけれど、玲がやわらかく微笑んだので、その笑顔にまあいいかと簡単に思い直す。玲の態度で一喜一憂する自分を、情けないとは思うのだけれど。
「そう?じゃあ、お願いしようかしら」
「ん、任せてよ」
 僅かの重みを備えた鞄を受け取ると、並んで一緒に歩き出す。しっかりと支えられた傘は、降り注ぐ雫から自分を守ってくれる。目線近くに並ぶ肩に悔しさを噛み締めながら、今はまだ逆の立場だけれど、いつかは玲を守る自分になるのだと。
 それは小さな円で象られた、二人だけの空間での決意。


[ 2004/02/03 ]




オレンジジュース



 窓から零れてくる陽射しを全身で浴びながら、蜜柑色の光りを放つ透明グラス。微かに吹き込んでくる夏風に、ゆらりゆらりと小さく静かに揺れ動く。一切の風が止んだ瞬間、突如明るいオレンジ色の膜に暗い影が落ち、波が収まっていたそれが大きく波動した。
「まず……」
 口の中いっぱいに広がる、苦く生あたたかい味。その苦味に顔をしかめながら、翼は思わずごちた。半分ほど残ったオレンジジュースを睨み、勢いよく飲み込んだことを後悔した。
「早く飲まないからよ」
 一人のはずの部屋に響いた、笑いを含んだ声音。そちらに目線を向けると、玲がダイニングでお茶を注ぎながらくすくすとおかしそうに笑い声をもらしていた。
 ちょうどよかった、と玲の姿を認め呟いて、先を続ける。
「玲、俺もオレンジ入れてよ」
「何言ってるの、もうないわよ。それが最後でしょう?」
 玲の言葉に、あ、と記憶を思い起こす。そうだった、もう残り僅かしかないからと残ったオレンジジュースをグラスぎりぎりに注いだのだった。その事実に舌打ちを打ちながらも、口内に広がる香ばしい蜜柑の香りとは裏腹のなまぬるい苦味は消えようとしない。それに追い討ちをかけるように続く玲の言葉。
「もったいないから、それ全部飲んでしまいなさい」
「えーやだよ。すっげまずいんだぜ。今だって口の中なまぬるい味でいっぱいだってのに」
「放っておいた翼が悪いんでしょう?」
 責めるわけでもなく強要するわけでもない、けれど相手に有無を言わせない優しい笑顔に言葉が詰まる。べつに好きで放っておいたわけじゃなくて。読んでいたサッカー雑誌につい夢中になってしまって忘れていただけで。けれどそれを言うと返ってくる言葉がなんとなく想像できて、とりあえず不機嫌に顔をしかめる。そして諦めた翼は、半分ほど注がれている恨めしいそれを先ほどを上回る勢いで喉に流し込んだ。
「……飲んだよ」
「そうね」
 一応笑いを堪えようとしているのか口元に手を当てて言う玲に、余計むかつくんだけどと心の中で毒づく。
 飲み干したはいいものの苦味は消えず。そして目の前で冷たいお茶をおいしそうに飲む玲。……何だか釈然とせず納得がいかない。いや、確かに放っておいた自分が悪いのだけれど。しかしまったく遠慮しない玲に、ふと思いついた考えを打ち消す気はさらさらなく。翼は自分の隣に腰をおろした玲の首に腕を回した。
「玲ー」
「なに?」
「キスしよ」
「何言ってるの。暑いからはなれて」
「うっわ冷たいなー。俺、ちゃんと玲が言ったとおりにあんなまずいもの飲んで、口の中すごい気持ち悪いんだけど。だから口直し」
 かなり強引な申し出だけどまあいいよね。
 声には出さず呟きながら肩を引き寄せて。
 はあと吐かれたため息にオッケーのサインが出たのだと、赤い唇に自分のそれを近づけた。

 しかし口付けたそこには予想した甘くやわらかい唇は無く。無機質な透明のガラス管の冷たく固い感触と、喉深く押し込まれる茶色くひんやりと冷え込んだ液体。
 無理やり押し込まれたお茶に噎せ込み、オレンジジュースとお茶の掛け合わさったなんとも形容し難い味に口内が侵されたのは言うまでもない。


[ 2003/06/09 ]




玉子焼き



 特に用事もなくのんびりとした日曜日の朝。翼が起きてくると、キッチンに向かっている玲の姿が目に映る。珍しいなと思いながらも挨拶だけを交わすと、ソファに腰をおろした。一つ大きく伸びをして、テーブルに置かれた新聞紙へと手を伸ばす。キッチンから嘆くような声が聞こえてきたのは、それに僅かに指が触れた瞬間だった。
 その声音からなんとなくその状況を察した翼は、新聞を掴みかけた手を止める。立ち上がってキッチンへと向かいこっそりと覗き込むと同時に、やっぱりと顔をしかめた。
 ほんのり焦げ目があれば確かに旨味は増すだろうけれど、これはそんなレベルじゃない。
「……待って、玲。そりゃ玲が料理得意じゃないことくらい知ってるけどさ、何もここまで焦がさなくたっていいだろ。玉子焼きくらいまともに作ろうよ」
「……うるさいわね」
 ばつが悪そうに睨まれた。
 見事に黒焦げとなったそれをまじまじと見つめる。……いったいどうやったらここまで焦げさせることができるのだろう。口に出せば不機嫌になるのが目に見えているので、声にはせず心中で呟く。
 と、再び冷蔵庫から新しい卵を取り出している玲が横目に映り、慌ててその手をつかんで制した。
「いいよ、俺がやるから。玲は座ってなよ」
「いいわよ、翼こそ座ってなさいよ。起きたばかりでしょう?」
「うん。その気持ちだけで有難いから」
「いいってば」
「食材無駄にするつもり?」
 うっと言葉に詰まる。黒焦げの玉子焼きと言っていいのかもわからないようなものを作ったばかりの今、さすがにこれは効いたらしい。玲は渋々と抱え持った卵を手渡す。翼は「すぐ作るからね」と、それを受け取りながら宥めるように微笑んだ。
 卵は一人分でいいよな。とりあえずお皿に盛られた、玉子焼きを眺めながら思う。
 確かに真っ黒ではあるけれど、食べられないほどではないだろうし。何より、玲の手料理なんて本当に珍しいから。翼にとっては、出来よりもその事実のほうが重要だった。
 じんわりと染み渡る幸せを噛み締める翼は、しかし「あ」と思い出したように声を上げると、リビングに向かおうとしている玲へと振り向く。
「でも結婚するまでには最低限作れるようにしといてよね。いつも俺が作るんじゃ割に合わないよ」
 しっかり釘をさすことも忘れずに。はいはいと、玲は苦笑した。


[ 2003/04/07 ]
玲さんは料理下手なイメージが(にしたってこれは下手すぎ)




無題



 僅かに熱を帯び、ほんのりと火照っている身体。
 その熱を触れあった全身で感じながら唇でゆっくりと髪をたどっていく。
 髪の奥から伝ってくるひんやりとした温度にちゃんと乾かしてないなと胸中で呟きながら。
 甘いシャンプーの匂い、やわらかな肌の感触を愛しく思い、首に回していた腕に力を込めた。

 抵抗もされなければ、何一つ反応も返ってこない。
 頭をずらして玲の顔を盗み見る。食い入るように見つめている先は、昨日行われたサッカーの試合。後で見るだろうと、仕事で出かけていた玲のために録画していたもの。
 その表情は予想したとおり、真剣そのもの。自分の行為をわざと無視しているのではなく、本当に視界に入っていないのだろう。
 玲が何よりもサッカーを大切にしていることくらい、いやと言うほどに知っているけど。自分だって玲に負けないほどにサッカーが好きだけど。
 何をしてもぴくりとも動かない肩に顔を深く埋める。
 甘い匂いが鼻腔をくすぐり、じわりと昂揚していくものを熱く感じとる。

 そろそろだな。
 確信をすると同時にピーッという試合終了のホイッスルの音。ちょうどいい具合に鳴ったそれに、軽く口角を吊り上げて。
 肩の力が抜け立ち上がろうとしている玲の腕を掴み反転する。押し付けられた背中、見下ろされている自分。突然の状況に目を丸くしている玲に、にっこりと微笑んで。
「いくら呼びかけても無視するんだもんな、玲。ちょっと傷ついたんだけど。その分もしっかり相手してもらうよ」
 何か発しようと開かれた口は虚しくも音になることはなく。冷えた空間に甘い吐息が零れた。




無題2



「んっ……はあ、だめだわ」
 ぎゅっと掴んでいたコーヒー缶を手から離す。いったい誰が閉めたのだろう。先ほどから缶を相手に奮闘している玲は、ため息混じりに呟く。まあ、ここまできつく閉められているところをみると、犯人はおじさまか。
 もう一度強く力を込めて回してみるものの、蓋はしっかりと密着したまま動く気配すらない。
「何してんの、玲」
 とんとん、と降りてくる足音と共に掛けられる声。
 振り向くと、キッチンに立ちつくしている玲を訝しげな表情で見ている翼がいた。
「あ、翼……それが蓋が開かなくって」
「ふーん。貸してみてよ」
 そう言うと、返事も待たずにひょいと玲の手中にある缶を奪い取る。一度力を入れても開かなかったらしく眉を寄せ、もう一度固くつかむ。
「あ……」
 ぽんっと小気味よい音をたてて胴体から離れる蓋。はい、と満足そうに翼は缶を差し出した。
 私がいくら力を入れてもびくともしなかったのに。「ありがとう」と受け取りながら玲は胸中で思う。自分よりも翼のほうが力があることは、わかっていたはずだけど。
 ふと、翼の手に目がいく。力ではもう敵わないけれど、まだ大きさは自分のほうが上で。けれど昔はもっともっと小さかったはずで。
 いつのまに、こんなに大きくなったのだろう。
「なに?」
 その声にはっと我に返る。どうやらじっと見つめていたらしい。訝しげに問う翼に、玲はやわらかく微笑んだ。
「翼の手。大きくなったなあと思って。昔は片手で包み込めるくらい小さかったのにねぇ」
「……いったいいつの話してんのさ、玲」
「……赤ちゃんから小学生にかけて?」
「……」
 うーん、と悩む仕草を見せて言うと、不機嫌をあらわに顔をしかめる。その様子がおかしくて、思わず笑い声がもれてしまう。するとさらに機嫌を損ねてしまったらしく、唇を尖らせてふいとそっぽを向いた。
「せっかく困ってるの助けてやったのに。からかわれるなんて損した気分だ」
 まだ収まらない笑い声を無理やり押し殺して、ごめんなさいと謝る。こんな口先だけの謝罪をしたところで、機嫌が直らないことくらいわかっていたけれど。振り向いた翼は案の定、さっきまでと同じように不機嫌な表情。さすがに悪いかな、と反省した玲が今度はちゃんと謝ろうと口を開くよりも、翼の力強い声が部屋に響いたのが先だった。
「これくらいで感心しないでよね。すぐに玲を追い越して俺が包み込めるようになるんだからな」
 一瞬、目を瞬いて。次に、にっこりと微笑んで。
「ええ。楽しみにしてるわ」

「俺にも入れてよ」と言い残すと翼はキッチンを後にする。その背中からはもう怒った様子は感じられない。玲はその後ろ姿を眺めながら、ふと思う。この背中だって昔はもっともっと小さくて、今よりもずっと頼りなかったはずで。
 当たり前だけれど。確実に、成長しているのだ。そして、いつしか並んで。追い越して。
 いずれ訪れるだろう未来を想う玲の口元に、やさしい笑みが浮かんだ。