ホイッスル! 椎名翼×西園寺玲 星降る夜 | 熱 | アルカロイド | ゆびきりげんまん | バンドエイド
星降る夜
かたかたと壁を伝って届いてくる音が、闇に沈んだ部屋に音量を持って響き渡る。時々つくられる間に、気のせいか息を吐き出す音も感じ取り。そして少し間をおいて、またリズムよく流れる機械音。
ここ数日の変わらない音を耳に刻み込みながら、壁へと注いでいた視線をずらし、時計へと目線を向ける。しばしその先を見つめその時刻を認めると同時に、聞きとれないほどの僅かな息をもらした。隣の部屋が闇へと沈まるには、まだ当分の時間を要するだろう。その事実に無表情に唇を固く結びながら、再び壁へと視線を戻し、今朝顔を合わせたときの隣の部屋にいるはとこの様子を思い起こす。煮詰まっている様子など微塵も見せずに、おはようとやわらかく微笑んだ玲。表面に出そうとはしない態度は大人にはきっと、当然のことなのだろう。そして気づいていないふりをして、おはようと微笑み返した自分。もっとも、たとえ頼られたとしても、自分にはなんの助けにもなれないのだけれど。
ソファにあずけていた身体を反動をつけて勢いよく起こす。視界ががらりと変わり、壁一点を見つめていた視線をふらふらと泳がせる。目は非常に冴えているし、この時刻に寝付けないことはここ数日の経験からわかっていた。暗闇に身を沈めているとどうにも思考が悪循環に陥ることに顔をしかめ、明かりを灯そうと身体を翻す。そして立ち上がろうと地に足を付けた刹那、窓の向こう側から飛び込んできたものに、瞬間瞳を瞬く。
同時に思い浮かぶ、ここ数日の玲。
一瞬の躊躇。けれどその先に続くであろうものを脳裏に描き、次の瞬間には立ち上がった。
「玲」
こんこんと二つ、控えめなノックの音。静んだ廊下には抑えた声も、やけに大きく耳に残る。
僅かの間。ドアの向こうに気配が感じられると共に、がちゃりとドアが開き不思議そうな玲の顔が覗いた。
「翼、どうしたの?」
僅かな音さえも響き渡る時刻、もう寝ていると思っていたのだろう。怪訝な表情を浮かべる玲に、にっこりと微笑みで返し。
「うん、すぐすむからさ。ちょっと入ってもいい?」
いいよね、と自答すると、答えを待たずに脇目を通って部屋のなかに足を踏み入れる。
開かれたままのノートパソコン。いつもなら綺麗に整頓されている部屋に、散乱した資料。それらを横目に入れながら、翼、と呼びかける玲の声を無視して窓際へと近づいた。
「もう、なんなの、翼」
「いいからさ、玲もこっち来なよ」
どこか苛立ちを含んだ声音で言葉を連ねる玲に、背を向けたまま手招きをする。ため息を一つこぼし近づきながら、「なに」と問い掛けてくる玲に、「あれ」と顎を上へとそらした。隣に並んだ玲が小さく息を呑んだのが、横目に映る。
瞳へと舞い降りてくる、闇夜を照らす星明かり。闇夜に浮かび上がったそれらだけが、遥か彼方へと続く漆黒の空を、白くやわらかく照らしていた。まばらに散りばめられた星屑が、お互いの距離を埋めるかのごとく、またたくように光を放つ。こんなにも星降る夜は、本当に久しぶりのことだった。
「明日は晴れかな。最近雨ばっかりで退屈だったからさー、久々に思いっきりサッカーできるね」
勝負しようか、と先を続けながら隣に立つ玲を見上げる。息抜きに、とこちらは声に出さずに胸中で呟いた。
玲は空を仰いだまま、そうね、と静かに言葉を紡いだ。その表情が心なしかやわらいでいたことに、嬉しさと安堵でそっと顔をほころばせる。今朝のように、疲れた表情を隠したものではないとわかったから。
自分にはまだ支えられるほどの力が備えられていないことは、紛れもない事実だけれど。
けれどせめて、張り詰めている心をやすらげることくらいは、無理に取り繕った表情をやわらげることくらいは、できるはずだから。
しかし今はそれさえも、まだ頼ることのできない自分なのだと。空を仰ぐ玲の瞳に映る星屑が、輝き溢れながら笑いをこぼした気がした。
「玲、俺戻るね」
横顔に声をかけながら、くるりと背を向ける。足早に出ようとする歩が止まったのは、玲の唇が自分の名前を紡いだから。
「このために来たの?」
振り向くと、黒く彩られた瞳とぶつかる。
ああ、気づかれたかな。投げかけられた言葉に含まれているかもしれない、真意を唇が象ろうとしたけれど、それを喉元に押し込んで向けられた戸惑いがちの表情にやさしく微笑み返した。
「おやすみ、玲」
[ 2004/02/03 ]
熱
「今日はおばさまたち、帰って来れないって」
リビングを覗くと、ソファに腰をかけ顔だけをこちらに向けるはとこの姿。「おかえり、翼」と迎えられたあとに続いた言葉に、ふーん、と何でもないように答えた。心の中では、悪態をつきながら。
どさりと音を立てて鞄を机に下ろす。
椎名家の両親は共働きで忙しく、急に家を空けることは別段珍しいことではない。むしろ今日のように突然留守にすることは、割と日常的な話で。その度にこの家で玲と二人きりで過ごすことも、もう慣れてしまったことで。けれど今日はこの状況を招いた両親に、苛立ちを覚えずにはいられなかった。それが身勝手な怒りであることは承知していたけれど。
朝からとどまらないくぐもった息を吐く。このまま今日は部屋に閉じ籠もっていようか。ふと浮かんだ考えに、馬鹿馬鹿しいと自嘲する。そんなことをしたって、何の解決にもならないことくらいわかっている。必要のない心配などさせたくない。何かを追い払うように首を横に振ると、闇が沈んだままの部屋に背を向けた。
「ケーキ買ってきたから。 あとで食べましょうね」
「ん、サンキュ」
誕生日おめでとう、と祝われた朝と同じ笑顔で迎え入れられ。自分も朝と同じ応対を返す。
「翼ももう十六なのねえ。早いものよね、少し前はあんなに小さかったのに」
「……昔の話されるのきらいだって知っててするなんて、本当いい性格してるよね、玲」
それも今更でしょう?と、くすくすと笑いながら言う玲をじとっと睨みながら、普段通りに返せたことに、気づかれないように心の奥で安堵した。
誕生日。それは決して埋まることのない時間を、ほんの少しだけ縮めてくれる。ほんのわずかの時間だけれど。もっとも玲に近づける日。
それと同時に。
もっとも距離を感じる日。
一年のどんな日よりも隣へと近づけるはずなのに、それでも届かないことを思い知らされて。並ぶことはできず、対等にはなれなくて。追い越すことはおろか、その背中に追いつくことさえできない。
だから、この持て余した想いを、縮まらない距離を、届かない感情を。力で埋めたくなる。
「なにか欲しいもの、ある?」
ほしいもの。その単語が示す先など、とうの昔に決まっていた。昔からずっと変わらずに望んできたもの。この想いをぶつけてしまったら、彼女はどうするだろうか。募り募った想いをぶつけてしまったら。
玲は――きっと、戸惑う。
思いもよらなかったことに戸惑って、どうすればいいと悩んで、自分たちの差を考えて、傷つけたくないと言葉を選んで。だから、出来ない。大きさでは敵わないものも、少し力を入れればそれは抵抗の出来ない華奢なものへと生まれ変わる。そんなことはとっくに理解していたし、拒絶されればきっと自分は抑えがきかなくなる。玲を自分のなかに閉じ込めてしまいたくなる。募らせた感情を抑えきれる自信なんて、どこにもなかった。
それが、怖いから。保ってきた関係が壊れることが。嫌われることが。玲を傷つけてしまうことが。何よりも怖いから。
「どうかしたの、翼?顔、赤いわよ?」
心配を含んだ声音。「熱あるんじゃない?」と続けて問いかけてくる玲に、何でもないと告げようとした瞬間。ふわりと前髪が持ち上がる感覚。額に触れる、やわらかな感触。
「何でもないよ。考えておく。疲れたから、ちょっと休むね」
質問に一気に答えると、その手から逃れるように玲に背を向けた。翼、と背に掛けられた声も無視して。駆け上がってしまいそうになるのを必死に堪え階段を上った。
倒れ込むようにベッドに身体をうずめると、どうしようもない焦燥感が込みあげてきて胸中を締めつける。こんなこと一つとっても、自分は子どもなのだ。たったあれだけのことで動揺して、熱くなる。
顔を覗き込まれたときの玲の不安げな表情が脳裏に浮かぶ。心配なんてさせたくないのに。不安になんてさせたくないのに。それは自分が子どもである証拠だと、嫌でも実感してしまうから。その考え自体が子どもなのだと、片隅ではわかっていたけれど。
うつ伏せにしていた身体を天井に向ける。触れられたおでこが熱い。そこから温度が行き渡っていくかのように、身体中から深い熱を感じる。
そっと額に右手を重ねる。
「馬鹿みたいだ」
怖い、だなんて、いつからこんなに臆病になった?いつだって、何をするときだって、物怖じ一つせずこなしてきた自分なのに。負かすことはあれど、怯むことなんてなかった自分なのに。
玲に対しては臆病になる。融通がきかなくなる。感情が抑えきれなくなる。
この想いをぶつけてしまったら、玲はどうするだろう。
[ 2003/04/22 ]
アルカロイド
ひたすらに前を向く姿が憧れだった。
「綺麗な水ね」
定められた空間を音をたてながら流れていく。まだ高い陽光を浴びると、きらきらと反射して眩く光り、それをなだめるように川風が、ゆっくりと水面をなでていく。川風に誘われて川岸に近づくと、覗き込むように膝を下ろす。ごろごろと遊んでいる石ころが膝をちくちくと突き刺し、わずかな痛みが走った。
何してるの翼、と屈託のない笑い声。じゃりじゃりという足音が近づくと共に、玲の漆黒の髪がちらつくように水面に映る。まるで―――。
「沼みたいだ」
足元も見当たらない深淵の、底のない沼。
上流から一輪の葉が流れてくる。それは流れに沿って、しなやかに進んでいく。身全体でしぶきを浴びて、葉色は白くやわらかな光りを放つ。
綺麗な水ねと玲は言った。微かに輝くこの葉のほうが、よっぽど綺麗だと自分は思う。
その少し後ろを、少し遅れてもう一輪の葉。まるで追いかけるかのように荒々しく進んでいく。ふらふらと不安定に揺れながら、それでも一定の距離は崩さずに。しかし保たれた距離は埋まらない。
屹立した石。どっしりと身構えた石に先を阻まれた葉は、なんとかして逃れようと左へ左へともがく。わずかに右に反れば、脱せられるだろうに。必死にもがく様子が、どこか滑稽に思える。それと同時に簡単な打開策さえも思いつかないそれに憐れみに似たものを覚え。焦点はずらさずに立ち上がった。
ほんの少し力を込めるだけで、葉を阻む砦はいともたやすく崩された。
陽気に飛び出すも、前を進んでいた葉はもうどこにもいない。ふらふら、ふらふら。安定を知らないそれは再び石壁に捕らわれる。もう、助けてあげられない。
ひたすらに前を向く姿が憧れだった。凛とした横顔は何よりも綺麗だった。いつだって影響を受けて生きてきた。
憧れに終止符を打たれたのはいつだっただろう。
「俺、男なんだよ?」
どうして戸惑った表情でぼくを見るの?怯えてるの?
忘れていたの?それとも知らなかったの?
精巧な時計のように刻まれる水の音。自然の不規則な流れもこの空間には存在しない。相対する世界。
耳朶に触れる。堪らなくいとおしいこの音を共に聞こう。
玲。俺は男だよ。
[ 2003/04/13 ]
ゆびきりげんまん
ああ、何をやっているんだろう。必死に捜す理由なんて、どこにもないのに。
(……いた)
ごめんねと友人に謝り後を追ったその姿は、公園のブランコの下に影をつくっていた。姿を認めると安堵と苛立ちの息をこぼし、ゆっくりとその姿へと近づく。肩がぴくりと揺れ気配に気づいたことを表したけれど、顔は俯いたままあげようとはしない。もう一つ息を吐き出すと、影を踏みすっと腰をおろして、その顔をのぞきこむ。
目は赤くはれ、何かを耐えるようにぎゅっと結ばれた唇。わずかに潤んだ瞳は私を捕らえない。
私にも付き合いがあるの、とか。いつもいつも構ってあげられないの、とか。言おうと思った言葉は山ほどあったはずなのに。
「ごめん」
自分の半分ほどもない、小さな手を包み込む。
「ごめんね。つばさちゃんのこと、無視して、ごめん」
再び歪む顔。けれど決して溢してたまるもんか、という意志を含んだ表情。
その代わりというように、そっと差し出される、右手の小指。
「なに?」
「……ゆびきり」
もう無視しないって、やくそく。
かたく結んだ唇を開き、紡がれる言葉。妙に大人だと思えば、年相応に幼くて。いくら虚勢を張っても、この子はまだ自分の半分も生きていない子どもなのだ。
「ほかのおとこにあいそよく笑顔ふりむかないでよね。あきらにはぼくがいるんだからさ」
それは幼稚園児の台詞とは思えないのだが。小さく笑みをこぼしながら、まだ幼い小指に自分のそれを絡めた。
[ 2003/04/05 ]
バンドエイド
「ねえ、あきら。あきらってば!」
いくら言っても諦めずに肩を揺さぶる小さな手に、玲は思いきり無愛想に顔をしかめた。
先ほどからしつこく玲に付きまとっているこの少年。玲の遠い親戚、はとこの椎名翼。このはとこは非常に玲に懐いていた。それ自体は構わないのだが、問題なのはそれが微笑ましいなどという可愛らしいものではなく、周りや玲本人を困惑させるほどのもので(本人曰く“本気の好き”らしいが)暇さえあれば西園寺家へやって来て、最近では居着いているようなもの。必然的に、玲の時間は翼に奪われてしまっており。
今日は忙しいから来させないでと念を押したのに。心の中で少年の母親を恨みながら、声のほうへと振り向きじっと強い目つきで睨んだ。当の翼はやっと相手にしてもらえたことが嬉しいらしく、玲の心情もおかまいなしにぱっと顔を輝かせる。
「何度も言ってるでしょ、私は今忙しいの」
「ぼくが遊びにきてるのに?」
「そう、宿題を終わらせなくちゃいけないの。だから一人で遊んでて」
「せっかく二人っきりなのに一人で遊ぶなんて、かいしょうのないおとこがすることだよ、あきら」
満面の笑顔でそう言ってのける少年に、深々とため息をつく。翼の幼稚園児とは思えない言い回しには、慣れてしまったといえば慣れてしまったのだけれど。
仕方ない。俯いた顔を上げて、少し考える仕草を見せて。
「いい男は女の子を困らせたり無理言ったりはしないはずなんだけどなあ」
え、と小さな呟きが隣から零れたと同時に、一瞬にして笑んだ顔に影が落ちた。
翼はことあるごとに自分が男であることを主張する。特に玲が子ども扱いをしたときには、周りに被害が及ぶほど不機嫌になるくらいで。その翼にこの台詞は効いたのだろう、目を泳がせてうーんうーんと悩む。そして、一言。
「……待ってるから、はやく終わらせてね」
「ええ」
噴き出してしまいそうなのを堪えて、にっこりと微笑んだ。
これでやっと集中できると玲は意気込んで机へと体を戻す。解き途中の数学の問題集にペンを走らせた。が、実際それが続いたのはわずか数分だけのことで。
「……っ!」
突然発せられた痛みを含んだ声音に、どうしたの、と慌てて振り向く。
翼の左手には玲が足元に寄せていた、数学のプリント用紙。そして真っ直ぐに線が走った、右手の親指。どうやら紙で切ってしまったらしい、わずかに血が滲み出ている。「へいきだよ」と強がって見せるけれど、切ったときの痛みはよく知っているだけに痛々しくて。玲はすぐ手元に、いくら紙といえども傷付ける可能性があるものを置いていたことに罪悪感を覚える。
「ごめんね」と謝りながら、子ども用の絵柄のついたバンドエイドを取り出した。しかし、その絵柄を見た途端、翼は今度は痛みからではなく呆れたように顔をしかめた。
「やめてよね、そんな子どもっぽいの。ちゃんと普通のはってよ、あきら」
「え……でも、小さい子はこういうの好きでしょ?」
玲の台詞を聞くと、むっとしてはあと一つわざとらしく息をつき、先ほどの玲のように何度も言ってるでしょ、と言って。
「ぼくは子どもじゃないの、おとこなの」
はい、と親指を差し出す。
貼ってもらうのは子どもっぽいことではないのだろうか。
矛盾した理論に思わずつっこみたくなったのだが、それを言うとまた延々と反論を連ねてくるのを予想してなんとか押しとどまる。
(……もうこの子がいる間は、諦めよう……)
この小さな少年の男の見栄を守るため、“普通の”バンドエイドを取りに行くべく、玲は渋々と立ち上がった。
[ 2003/04/16 ]