私の欠片




わたしを求める声音が宙を舞いたから。

まわりはきれいなお花で埋めつくされていた。朱色、紺色、だいだいいろ、白色、あまいろ、水色、そのたあまたのお花たち。色とりどりとはまさにこのことだと思う。こんな色の花なんて見たことない、なんてものまで混ざっていて、それらはあまりにも多くのものを含んでいて妙なアンバランスさを生んでいるのだけど、それでも決して不和をひと息も感じさせないのだから不思議。きれいで、甘くて、どこまでも続くように広大で、ふわふわとなにもかもを受け入れてくれるよう。
そんな素敵という形容詞が似合いすぎる世界に、わたしは一人でぽつんと立ちずさんでいた。彩色に満ちた広大に続く世界に、わたしは一人。下を見やると、足元にはくずれた藍色。へなへなとしなれた深緑。この世界に不穏が生じるとしたら、それはきっとわたしの立つこの場所なのだろう。目に映るものが真実の世界で、考える必要もなく心が感じる。だったらどうすればいい、とそこではじめて頭が働いて。だったら、夢にしてしまえばいいんじゃないかしら。ここは透きとおるように透明なくせに確かに息づいていて、時だってたとえ名残惜しかろうともそんな情緒はもろともせず着実に流れていて、その瞬きするような一瞬をわたしは壊してはいけないものなのだと思う。ぼろぼろにくずれた深緑なんて存在してはいけないのだと思う。それならば、この甘くやさしく、慣れ親しんだ世界を夢にして。わたしは。
そんなところに自分を求める声音が響いたら、わたしの名を連ねたら。ねえ、そのもとに駆け寄りたいと、混ざりたいと焦がれても仕方がないでしょう?

「ちょっと夢子ちゃん、大丈夫ー」
心配半分、呆れ半分。赤いワンピースをひらめかせて、手をふっている姿が目に浮かぶ。
頭上に甘い響きを浴びながら、すりむいた膝小僧をさすりつつ顔を傾けてえへへと微笑んだ。みんなは想像したとおり少し呆れた顔で、でもあたたかくすべてを包み込むように待っていてくれるから、わたしは立ち上がり駆け寄った。今度はころばない。
手を差し伸べれば受け止めてくれる手がある。大きさはそう変わらないのに、闘いの勲章とでもいうのだろうか。何度も触れたことのあるそれは、ごつごつとしていてとても力強くて頼りがいがあって、なのにシャボン玉もやさしく閉じ込めてしまえそうなほどあたたかくて。まばゆい光を浴びながらわたしの大好きなその手を握ると、あなたは心から迎えてくれる瞳でまっすぐと見つめてくれた。だからわたしはわたしなりのとびっきりの笑顔を顔面に乗せて、同じように見つめ返すと、あなたは夢子ちゃん、といつものやさしく居心地のいい色を口元に乗せて
「かえろう」
わたしは生を感じる。


まわりを包むやわらかな温度は時とともに消え、わたしは一人で帰路を歩いていた。別れ際に送ろうかとやさしいあの人は言ってくれたけれど、やんわりと拒否をした。だってわたしには足がついているし、だから一人で立つことも歩くこともできるもの。方向感覚だってばっちりだし、まさか自分の家を忘れるなんてそんなそんなばかなこと。なんだかとてもおかしくなって、ふっとあさい息をつく。わたしそんなに間抜けじゃないもの。
ねえ鬼太郎さん。わたしは生きてるもの。

夢なのかと想った。
夢にしてしまえばいいと想った。
夢なんかじゃなかった。
夢であればよかったのかしら。

いつのまにかまわりは真っ暗闇に包まれていて、それはわたしを少しおどろかせる。夜道に一人は危ないよ。あの人が送ろうかと言ってくれた意味はそこにあったのだろうかと、今更ながら気づいてとまどう。けれどとまどったところでわたしは夜の道に一人、あの人は拒絶を受けとったのだから仕方がない。納得して歩を進めようとしたところで、わたしは異変に気づき目をしばたたかせた。
いやだ、わたし。右に左に前に後に、頼りなげに足元を揺らしあたりを見まわし。自分の家を忘れるなんて、そんなそんなばかなこと。わたしそんなに間抜けじゃないもの。すうっと冷や汗が流れてくるのを肌がとらえる。指先でそっとぬぐうと、高鳴る心臓をおし込めて、確かめるようにおそるおそるつま先を前へやった。くつごしにふれた先にはかたいアスファルトの感触がはっきりと、そして方向を指ししめす感覚がそろっていて。それらが身体中に染みわたり戻ってくるのを感じて、ようやくかかとを地面につけた。おそれていたものの不在に、わたしはほっと胸をなでおろした。
大丈夫。いろいろなことが重なって、さらに今日は闇が普段に増して色濃いから、そのせいでちょっと見失ってしまっただけ。まっすぐに前を見つめると、今度は確かな足どりで歩を進めた。そう、間抜けなんかじゃないわ。あなたが思っているよりもずっとずっと計算高くてしたたかで、とくべつを求めて弱みを武器にもちかえて。ねえ。
わたし、夢でなくてよかったと想ったのよ。




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[ 2005/10/01 ]