抱きついてもいいですか?
目の前で神妙な難しい顔をして俯いているナミさんを見つめながら、大きく吐きそうになる溜息を気づかれないように呑み込んだ。数分前に脇に追いやられたサワーグラスは、氷が溶け僅かに残っていたレモンサワーと融合している。その間、お互いベッドの上で行儀良く正座をし、向き合ったまま。傍から見たらこの上なく滑稽な光景に違いない。
……正直、ものすごく、居心地が悪い。いやおれがナミさんとぎゅうぎゅう抱き合ったりキスしたりお喋りしたり傍にいたり殴られたり呆れられたり同じ空気を吸っていたりするだけでハッピーになれる男なのは今現在もフル稼働で活動中なのだが、それにしたってこの微妙な空気はなんなのか。用があるから仕事が終わったら部屋に来てほしいと頼まれて、魅惑のお呼び出しに嬉々として仕込みに取り組んだ数十分前が遥か遠い過去に感じる。厳密にいえば、女部屋に足を踏み入れて和やかにくつろいでいた数分前が、だ。最初は他愛のない会話を楽しんでいたのに、「どうしたの?」と話を切り出した途端、言葉を濁しながら何故か正座に座りなおすものだから、何故かおれもならって座りなおして、微妙な空気が流れること五分近く。実際は三分と経っちゃいないのかもしれないが、そんなことはどうだっていい。せっかくのふたりきりの貴重なランデブーだってのに、異常に長く感じることが問題なんだ。
そんなどうにも心地良いとは言えない沈黙に、否が応にも緊張が走る。それでなくとも、ここ最近のおれたちには触れ合いというものが足りていなかった。と言ってもそれは決して断じて心が離れてるだなんつう居た堪れない状態なのではなく、物理的な意味でだ。
おれは本音を言えば四六時中いちゃいちゃしていたいし、実際彼女とこうなってからは、人目を盗んでは彼女のその柔らかく極上に甘い肌を幾度となく腕の中に閉じ込めて、ナミさんは呆れながらもしょうがないなぁと受け入れてくれて、おれのココロを幸せという名の温度でめいっぱいに満たしてくれる。この世のものとは思えない至上の至福の時間。
触れるのもキスするのも、行動に起こすのは決まっておれのほうからだ。彼女は言葉でも態度でもそういうのを表すのが極端に苦手な人だから、例え彼女から積極的に向かってはくれなくても、受け入れてくれてるってことは彼女もおれと同じ気持ちなんだろうと、都合良く解釈していた。僅かにも疑念を見出したりしていなかったってんだから、我ながらおめでたい頭だ。
ある日のことだ。あとから訊いてみたところたいした理由でもなかったのが、まぁそのときはナミさんの機嫌があまりよろしくなくて、それをわかっていながら欲望に正直な愚かなカラダは我慢なんて言葉は遥か彼方に追いやられ、欲求そのままを実行に移すおれ。不機嫌さと比例して抗う力もいつもより強く、やっべこういうのも燃える!なんて能天気に劣情に浮かされながら、おれもいつもより少し強引に押し進めていたのだが。おれの押しが強いぶんだけ、彼女の抵抗も数割増。怒気荒く出て行く背中を見送りラウンジに一人残されたとき、ふっと頭を過ぎったのだ。ちょっとべたべたしすぎじゃねぇの?、と。ただでさえ束縛なんつうものは、彼女の気質とはまったくの正反対の代物だ。もちろんおれ自身に縛っているつもりは毛頭ないが、結果的にはそれに近いことをしてしまっているんじゃないか……と。柄にもなく、不安になってみたりしたのだ。
一度思い当たってみると、滝の如く次から次へと押し寄せてくる暗雲の嵐。元々ナミさんのことに関しちゃ通常の数万倍は神経が事細かに働くこの体、事実かどうかもわからない妄想に脅かされ臆病になっちまうのも仕方がないといえるだろう。……あァまったくもって情けない話だよ。笑うがいいさ。
だからちょっとだけ、距離を置いてみた。とろけちまいそうな甘美な距離感に慣れ親しんだ体には、まだ記憶に新しい一方的に彼女に想いを寄せていた過去のおれなら羨ましすぎて卒倒してしまうであろう距離でも、拷問のような日々だったけれど、最悪の結末を考えれば歯止めを掛けることはそれほど難しいことではなかった。だったら端っから自粛しとけという話だが、それはまた別の話というか(先にも言ったがおれは本音としては一日中いちゃいちゃべたべたしていたいんだ)、今更嘆いても後の祭りだ。
そんな状況下に基づいての今この状況、彼女は明らかに挙動不審。もしかして判断下すの遅すぎた?とかちょっと待ってくれこれからはちゃんと自制してナミさんの嫌がるようなこと絶対しないから!とか、頭んなかは半パニック状態。落ち着きなく膝の上で動かしているすらりと伸びた指とか、時折おれに向けてはまたすぐに伏せてしまう大きな愛らしい瞳とか。何よりも恐れていた最悪の展開に、嫌でも思考がいっちまう。ああくそ、口にしちまったら現実になりそうで言葉にするのも忌々しいが、別……
「サンジ君」
「は、はい!」
ああなんでこんな絶妙なタイミングで声を掛けてくるんだろう。何かを固く決意したようにさっと顔を上げると、きりりと力強い瞳をおれに向ける。
ああ、そんな顔しないでくれ。まるで仇討ちに行くような引き締まった表情で見つめてくる。……睨みつけてくるという表現が正しいような気がするのは気のせいだと思いたい。彼女のその姿勢が、おれを更に不安の渦に巻き込ませ、知らず拳に力がこもる。そして……
「抱きついてもいいですか」
早口で、これ以上棒読みという表現がぴったし当て嵌まる喋り方も無いような棒読みで吐き出された言葉に、思考停止たっぷり数秒。
「……………………は?」
「……っ!……いいもういいもういい今の無しこの部屋に入ってからの出来事は歴史上すべての万物から削除されたから出てって結構っていうか今すぐ出てけ!」
「へっ!?あっ、いや、ごっごめんっ!え、あ、ええっと……お、おれなんかの胸でよければどうぞ!って、え?何……」
怒り出す彼女に慌てて謝罪と返事を返すけど、脳みその整理は一向についちゃいない。ナミさんは白い頬を朱色に染めて、さっきまでの強張った様子は完全に消え去り、その代わりに今度は怒ったような拗ねたような表情を浮かべる。じっと見つめても、逸らされた瞳はおれを視界に映してはくれない。そんな彼女を目に止めながら、うっかりとしてしまえば聞き逃してしまいそうな早口、けれどしっかりと耳に刻まれた先ほどの言葉を思い返す。すると、胸の奥がめちゃくちゃに暴れ出してしまいそうに高く熱く上昇する。
ナミさんは素直な気持ちを表すのが苦手だ。彼女から紡ぎ出される「好き」は、その時の彼女の様子や言葉の温度、そこに含まれた感情などを丸ごと全部宝箱に仕舞っちまいたくなるほどに貴重だ。おれを幸せの絶頂へと打ち上げる彼女からのキスは、まだ数えるほどしかされたことがない。体温を共有しあうと逃がさないように背中へ腕をまわすくせに、彼女から誘われたことは悲しいことに一度だってない。だからおれは、素直じゃない彼女のぶんまで言葉や態度、この身すべてで愛を表現する。……まぁ、例え彼女が積極的に向かってくれるようになったとしても、今と何ら変わりはしないのだが、とにかくおれは彼女とは対照的に、彼女への気持ちを包み隠さず形にする。ありのままに行動に移す。そのおれが、ここ最近は根拠のない妄想をあれこれ働かせ、勝手に辿り着いた結論に取り憑かれて、確かめる勇気すらなく欲求に抑制を掛けていた。今だから思うが、不安が煽り必要以上に自分を抑えていたんじゃないかと思う。結果、おれたちの触れ合いは格段に減り、その状況下で彼女は言ったのだ。抱きついてもいいですかと。
彼女の言う「抱きついて」が、どこまでの意味を持つのかはわからない。その言葉のままなのか、それともそれ以上先の意味も含んでか。だけれど、ただ一つ、間違いなくはっきりしていることは。
(……ナミさんも淋しかったり、し、た……?)
今度はきっと一方的ではない。甘露のような陶然とした結論に脳が痺れ、思わず片手で口元を覆った。全身の体温は上がりきったまま、幸福な震動で心を掻き乱していく。ともすればこのままぶっ倒れてしまいそうだ。だけど、おれ以上に狼狽し、どうしたらいいかわからないといった表情で視線を泳がせる目の前の彼女が、昇りきった心に自然と余裕を与えてくれた。
真剣な眼差しと声音で要求すれば、彼女はきっと思考を漂わせながらもゆっくりとおずおずと、心のままを実行に移してくれるだろう。その様は容易に想像できるし、一面砂漠のなかから漸く見つけ出した一本の煙草のように貴重な貴重な彼女からの抱擁は、確かに縋りつきたくなるほど捨て難い。魅力的だ。が、ここ最近の欲求不満……いや、ナミさん不足、更に甘え下手なくせにいっぱいいっぱいに求めてきた可愛すぎる彼女を前にして、正直なところかなり限界なのだ。上辺を取り繕うのが得意なおれは、どれだけ動揺しまくり熱に浮かされていようと、綺麗に上手く覆い隠してしまうのはお手の物。一握りの余裕に乗っかって、さあどうぞとばかりに両手を広げてみせた。
「ナーミさん?頭の芯まで蕩けちまう甘ーい言葉を投げかけられたおれの胸が、今か今かと淋しそうに待ってるんだけど?」
「知らないっ……!」
意地っ張りな愛しい彼女は、耳まで真っ赤に染めて、完全にそっぽを向いちまった。予想通りの反応に、ふっと笑みが零れてしまう。おれを引き寄せてくれる温かな腕の実現はこの先の未来に任せて、今は。欠けていた幸せな温度を共有しあおうと、彼女の体を包み込んだ。
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[ 2006/07/06 ]