平行線




 キッチンに入ろうとした足が止まったのは彼が不可解な問いを投げかけてきたからだ。
 余程間抜けな顔をしていたのか、彼は僅かに眉を下げ苦笑して。
「ん、だから、女の子が好きなのかなァって」
「……それはあんたでしょ」
「や、まぁ、それはそうなんだけどね」
 ははっと小さく笑って(そこが笑うところなのかも不可解なのだけれど)、黒いスーツを熱いほど舞い落ちてくる陽光に浴びさせて前甲板に向き直ったかと思うと、まるでこの会話は打ち切りだというように煙草を咥える。
 意味のわからない問いを投げかけられたままの私はどうすればいいのか。
 髪に隠れた横顔を見ながら一瞬そう思ったのだけども、そもそも彼が意味のわからない戯言を囁いてくるのは日常茶飯事のことだ。それはいつもの戯れごととはどこか種の違うものだという気もしたのだけど、私が理解できないだけで彼にとってはきっとそのうちの一環なのだろうと片付けて、再びキッチンに足を向けようとしたのに。
「ごめん、忘れて」
 またも不意な言葉が降ってきて足止めをするはめになった。

(ごめん、忘れて……?)
 たった今彼が放った言葉を頭のなかで反芻する。
 サンジ君は女が好きだ。それは誰々と名を持つ個人を指すものではなく、女という生き物全般が”好き”の対象物なのだ。私と顔をあわせれば大袈裟に身振り手振りで美辞麗句を並べ立て、またもう一人の女であるビビと顔をあわせても、同じように大仰なアクションつきで容姿内面あらゆる面を褒め称える。時には答えを要するものも混じっていて、ビビは律儀に付き合ってあげているようだが、私は実のある話なら受け答え、そうでないのならば大抵無視を決め込むのが定法。恐らく酷く辛辣な態度であろう私に、彼の口から溢れてくる言葉は後を絶たない。
 私にはその行為が、何の意味を持つのかがわからない。
 着飾った言葉つきで擦り寄ってくる男なら、過去いくらでもいた。そういった男たちは決まって、そのぶんだけの代価を求めてきた。さも常識と言わんばかりに、称賛文句には見返りが付き物。受け止めるだけなんてありえない。代償必至。薄汚れた澱んだ世界にまみれているうちに、いつしか私もそれが当たり前だと思うようになっていた。
 なのに彼は、一緒に旅をするようになって随分と経つけれど、放つだけで見返りを求めてきたことは一度だって無い。それ以前に口で求められたことさえも無いのだ。冗談でそれっぽいことを口にすることはあっても、あくまで冗談の域であり本気の意志を含んでいないことは、決して触れてこようとはしない彼の姿勢が物語っていた。彼の力ならどうとでも出来るだろうに行動に起こさないのは、これ以上のない確固たる証拠だと思う。それは私に安堵感をもたらし、また同時に困惑を植え付ける要素ともなっていて。尚更、彼が理解できない。

 一度、訊いたことがある。まだこの船に戻ってきて、間もない頃。
 彼から返ってきた答えは、レディは存在自体が素晴らしいのだから敬うのは当然、とか、はっきりとは覚えていないけれどそういった類のもので。呆れつつも、もはや癖やライフワークのようなものなのだろうと、尽きることなく次から次へと降ってくる言葉は聞き流すことで受け入れていた。無理に拒絶しないかわりに、応対もしない。許容の範囲内での線引きであり譲歩。私のなかだけで決められた、一方的な暗黙のルール。
 それでも彼は、不平不満を述べるどころか嫌な顔一つせず、甘ったるい要領の得ない言葉を幾度となく口唇に乗せる。それらを思い出せる限りでは、彼が発言を撤回したことは一度として無い。逆を言えば、言葉を撤回しなければいけないようなへまをやらかしたことがない、とも言えて。……何か、まずいことでもあったのだろうか。あの質問に。
 そう思ってはみても、僅か一メートルほど開いた先の空間に乱れた様子は、どこにも存在していなくて。振る舞いは不自然なのに、空気は自然。まるで自分一人が狼狽しているようで、どこか癇に障る。
(……わけわかんない)
 なんだかタイミングを失って、特別外せない用があったわけでもないので、とその場に足を落ち着かせた。


 透き通る水色と鮮やかな緋色が飛び込んでくる。考え込んでいた間に出てきたらしい、気がつけば昼下がりの甲板には船員全員が集合していた。またお得意の嘘で突飛な冒険談でも披露したのか、水色の髪がおかしそうにゆらゆらと揺れる。波打つ笑顔に、ふと頭を過ぎるのは。
 二日前、だろうか。私と彼女、ラウンジでこの先の航路について話し合っていたときのこと。会話の延長線上の成り行きでつい不安を煽るようなことが口をついてしまい、しまったと遅れた脳で後悔していたとき、ちょうど洗い物を終えたサンジ君がおれが守るだのなんだの安心させるように勇気づけていて。部屋に響く低すぎない声をぼんやりと耳に入れながら、私も口を開こうとした矢先、彼女が言葉を紡いだのだ。とても落ち着いた、朗らかな笑みを湛え。
『でも大丈夫。みんなの力は借りることになるけど、私だって私にある力の限りをつくすわ。最大限、迷惑はかけない。船に乗せてもらって巻き込んでおいて、今更だけど……でも、だから。一人だったらきっとどうすることも出来なかっただろう私に、希望の道を与えてくれたみんなだから。それに応えるためにも、精一杯闘うつもりよ。甘えてばかりいられないもの』
 そういう健気なこと言われると尚更守りたくなっちゃうな、なんて、彼が隣で格好付けて宣言するのを呆れたふりをして聞き流していたのだけど。でも本当は、そんな余裕がないくらい、よくわからないけれど、彼の態度にも言葉にも何故だか無性にわけのわからない反感を覚え、理不尽にむっとしてしまうくらい、どうしようもなく私も同じ気持ちだった。彼の想いは私が形にしたいものだった。目の前の勇敢で美しい少女を、とても守りたい、と。思ったのだ。
 ……ああ。それを、”女の子”と称するのなら。

 ちらりと横目で窺うと、変わらず静かな動作で煙草を燻らせている。
 いつものように軽口叩いて騒ぎ立てないし、妙に落ち着いた素振りは今まで彼に感じたことのない居心地のよさ、みたいなものさえ纏っているように感じて。だから、なんとなく。
「でも、ちょっと、サンジ君の気持ち、わかるような気がするわ」
 珍しく、本当に珍しく、それこそ初めてではないのかというくらいに、彼の戯れごとに真面目に向き合って答えを出したというのに。
 彼はそっか、と抑揚のない声で呟いたかと思うと、満面の笑顔で振り向いて。
「おれはナミさんが大好きだよ」
 やはりまともに相手をするんじゃなかったと後悔した。




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[ 2006/04/29 ]
泥棒時代ナミは断じて身体売ってませんので。ベルメールさんに守られた自分を大切にして生きているナミが大好き。