ファンタスティック・レモネード




 男部屋の扉を開けたサンジが「あれ」と目を丸くしたのも一瞬で、寝覚めに心地良い予想外の色彩に顔を綻ばせる。
「ナミさん、帰ってたんだ」
 滑り台の上に座り込み斜面に沿って足を投げ出していたナミは、応えるように頬を緩めて言った。
「もういいの?」
「ああ、おかげさまでバッチリ体力補充完了しました」
 ぽかぽかと陽だまりの心地良さを存分に浴びているサニー号も、ほんの一日前は荒波の中心で翻弄されていた。今回の船旅はなかなかにしぶといもので、敵船の襲撃にスコールの連続、航海は予想を大幅に長引き食糧の蓄えもつきる寸前、サンジはいつになく疲れきっていた。それでもサンジはおくびにも出さずに勤めていたが、見逃さなかったのが医療能力を発揮したチョッパーだった。一先ず休息を取るべきだというのがチョッパーの指摘、先にリサーチしておかなければ落ち着かなくて休めるものも休めないというのがサンジの主張。両者一歩も引かず膠着状態が続いたところに、静観していたナミがせっかく久々の島でゆっくりしたいのに倒れられたらこっちが困るだの、血の巡ってない頭じゃ値切りも上手くいかないでしょだのと横槍をいれ、男部屋に押し込められてしまったのだ。朝のやりとりを思い出したサンジは、心配される申し訳なさと嬉しさを再度実感しながらナミの傍まで赴くと、隣に腰を下ろした。
「まだ時間あるんだから寝てればいいのに」
「いやいや、充分安眠取らせてもらったよ。おまけに寝起きにナミさん見られて、パーセンテージ満たんでヒートしそうだ。すっげぇおれナイスタイミング」
「バカ。栄養にもならないじゃない」
「何言ってるんだい、ナミさん!ナミさんの存在は心はもとより、視覚聴覚体力すべてに栄養を与えてくれる源なんだぜ」
 ナミはバカともう一度呟いたが、サンジは嬉しそうに笑った。
「それよりどしたの、こんなとこ座って。珍しいね。日向ぼっこ?」
「んー、これが滑り台よね」
 手すりをぽんぽんと叩きながら確認するように言うので、サンジは首をかしげた。「たいしたことじゃないんだけどね」と、言葉通りさして感慨が見られないナミの前置き。
「ざっと周ってきたけど、思ったとおり未発達な島ね。領土も狭小で目立った観光スポットもないみたい。でものどかで伸びやかだし、町民も親切で落ち着いた良い所よ。ちょっと寂れた感じがするくらい古風な町」
「へえ。食糧調達は期待できそうかな」
 真っ先に出てくる質問はそれなのね、とナミは苦笑しながら答える。
「その点は大丈夫だと思うわよ。作物が豊富らしいから」
「そりゃよかった。では、ナミさんを悩ませている不届きな問題は」
「……だからそんな大袈裟なことじゃないってば。ただ穏やかな島に不相応なものが気になったってだけで」
「不相応?」とサンジは単語を拾い上げる。
「中央にある小さなアトラクション広場がね……。そこだけ浮いてるのよ、勇気お試し直角スライダー。どう見たって滑り台じゃなく飛び降り台でしょ。根本から間違ってるわ」
「そりゃまた随分と物騒なスライダーだな」
「でしょ?なのにあのゴムったら自分で伸びるのとはまた違った味があるよなーって、私の腕掴んで乗せようとするのよ!?道づれにするなって殴ったら、こんな面白いモンやらないなんてお前バカだなーって!どう考えても私の感性のほうがまともじゃない。バカ呼ばわりなんて失礼にも程があるわ」
 ナミがそう怒りをあらわに訴えたにもかかわらず
「はは……まぁあいつらしいよな」とサンジがルフィに同調したともとれる曖昧な相槌を打ったので、ナミは憤慨した。だがそれもすぐに無駄なことだと悟ると、一つ小さく息をつき、前方に向けられた視線は緩やかな斜面を追う。小春日和という名称が似つかわしい良い天気。滑り降りたら時間にして一、ニ秒、気持ちのよいそよ風を身に受けられることが予測された。
「あんな怖い行為が楽しいなんて信じられない」
「あんな?」
 まるで体験談を語るような口振りに、サンジはまたも首を傾げる。ナミはといえば、訊き返されるとは思ってなかったとばかりにきょとりとした表情を浮かべ、サンジと逆方向に首を傾けた。やがて疑問点を理解したらしく「あぁ」と呟くと、何か腹立たしいことでも思い出したのか、先刻とは打って変わって形の良い眉が釣りあがった。
「ウォーターセブンでの話。他に策がなかったとはいえ、こっちの意思なんてお構いなしに私を抱えてビルの最上階から飛び降りたのよ、真っ逆様に!真っ逆様よ!?真っ逆様!思い出しただけでもぞっとするわ。あいつ、私に恐怖体験日誌でもつけさせたいんじゃないかしら……」
 張り裂けんばかりの剣幕も言い切る頃にはなりを顰め、変わりに世の不幸を詰め込んだようなぐったりとした気苦労を肩にしょっていた。そんなナミをサンジは「まぁまぁ」となだめながらも、ナミの感性のほうがずっとまともだという言い分に遅ればせながら同感していた。垂直なスライダーを前に立ち竦み、挑戦を決断するのに必要な勇気。迷いなく崖を飛び降りる行為と比べたら、はるかに健全な反応に思えた。ナミの嘆きを感じ取れなかった自身にサンジは驚きを隠せなかった。サンジ、それに恐らくルフィとて、当たり前の恐怖に竦む少年時代はあったはずなのに。
 スライダーを前におののいているナミの姿が浮かぶ。すると、漂っていたサンジの思考が、へにゃりと音を立てて緩んだ。そのだらしなさは、かろうじて頬の筋肉には現れていないといった具合だ。
 怖がりなナミにこの上ない愛らしさを感じているのは避けようのない事実だった。怖い思いはさせたくないと思う一方で、強いナミの殻が破られた弱さに庇護欲をそそられ、自分でもナミを守ることができるのだという昂揚感に煽り立てられる。レディを追いつめて悦に浸っているなんて!とサンジのモラルに反し、不本意で傲慢なその欲は、掻き消そうにもなかなか上手く消えてくれない。潤んだ目元も、がたがたと震え身を抱え込む華奢な腕も、錯乱して鼓動が乱れた心臓も、食べてしまいたくなるほどに愛しさを覚えずにはいられないナミの一部だった。笑顔も怒りも生きることを何一つ妥協しないナミは、恐怖にだって率直だった。
 恐怖体験日誌、とサンジは先ほどのナミの言葉を反芻する。そんな単語が生まれるくらいに、ルフィは怯えるナミを多く見ているのだ。ことナミに関しては、どんな小さなことでも一寸もらさず独占したいと乞うサンジは当然その面でもルフィを羨ましく思ったし、記録に残したくなるほどナミの記憶に多大な影響を与えているのだと思うと、憎たらしい。無論、ルフィに他意など存在しないのは明らかだったが。
「おれじゃ衝撃がなァ……しっかり抱き抱えてても、下は水面じゃねぇとヤバイか……」
「……全力で付き合い考え直すようなこと考えてない?」
「えっ、おれなんか言った?」
 へらっと反射的に締りなく笑いかけると、ナミは不審人物でも見るような目つきで一瞥してから前方に向き直った。ちょうどお昼時の時間帯。空も海も地上も、屈するしかない偉大な太陽色に染められていた。さんさんと降り注ぐ光の輪。明るいオレンジ色の髪に、太陽はよく映える。
「水だろうと土の塊だろうとアスファルトだろうと、危険なものは危険よ」とナミが先の言葉を紡いだのは不自然な時間を置いてからだった。冷静な口調でありながら、どこか乱暴さを含んだ言い方。思わずサンジはナミを凝視する。
 携わる沈黙。逡巡している心境を表すように横髪が揺れたあと、ナミは口を開いた。
「そりゃ、か弱くて繊細な神経を持つ私と、あいつらを同じ土俵で考えるなんてこと自体、間違ってるけど」
 空気の微動を更に強く感じながら、「あいつら」に自分は含まれているのだろうかと漠然と思う。
「あんな怖い行為を怖いと思えないなんて、信じられない」
 ナミの主張は表現を僅かに言い換えることで、痛々しさを伴ってサンジにわかりやすく浸透した。そして「あいつら」にサンジ自身も含まれていると察知して、苦い思いを抱える。
 ルフィたちのように自信に満ち溢れた前だけを見据える覚悟も持てず、ナミのように生を誇りに思えない宙ぶらりんのサンジは、ある意味誰より性質が悪い。そんなサンジがナミに何を言おうと、自己満足な慰めに過ぎなかった。ナミがこういったもどかしさをぶつけてくるのは非日常なことで、だからこそ胸の痛みは鮮烈だった。応えられない。
 どうするべきか達観できないサンジは、言葉で満たせない隙間を埋めるように、輝かしいまでの煌々を放つオレンジ色に手を伸ばした。それは今までのサンジの人生で慣習と化してしまった、誤魔化しでありはぐらかしのときに見せる行動だったが、ナミは少し淋しそうに微笑んだだけだった。
 髪に手を差し込めば、心地良い綿毛がサンジの手の甲を覆い、太陽の匂いが零れてくる。この光に照らしつけられてしまうと、強烈さに圧倒させられていたのが遠くない昔なのだと思う度、不思議な心地をサンジにもたらす。確かに遥か遠い彼方に存在していたはずなのに、今は手を伸ばせば届いてしまう、身近にある温かさ。
 そのままの手で頬を撫で、すぅと存在を確かめるように唇を撫でた。ナミは嫌がるどころか、よりはっきりとした感触を味わうように押し返してくる。そんな反応が嬉しくて、サンジは笑みを零さずにはいられない。
 ナミはキスが好きだ、と気づいたのは、いつだったか。女の子はキスが好きな生き物だというのは、経験上から脳に刷り込まれていたものだったが、ナミのキスへの執着は普通のそれより強いように思う。といっても、ナミからキスをしてきたことはこれまで一度もなければ、特別裏打ちする例もない。強いて言うならば口付けた際のうっとりと蕩けた眼差し、離れるときの名残惜しげな表情くらいで、そう思うのはサンジの願望が込み入ったことかもしれないし、昔どんなキスを交わしていたか思い出せないほど、サンジ自身がナミとのキスを愛しく思っているからかもしれない。
 いつものように、サンジから交わすべく、顎を持ち上げ――
「……は」
 サンジの指が力を加えるよりも一瞬早く、自らねだる仕草を示したナミに、思わず乾いた声が漏れた。
「……?何?」
 無自覚の行動だったことは、動じないナミの態度でわかる。しかし無意識下の行動ということは、つまり本能だ。そこに自分を欲する欲求が渦巻いているのかと思うと、胸の中をぐちゃぐちゃに掻き回される感覚に襲われる。いくら仲間に目撃される危険が低い状況だとはいえ、ここは船の上で。真っ昼間の太陽の下、誰よりも太陽が似合うナミが、サンジを求めている。
「ちょっ、サンジ君!なに……!」
 気づいたときにはサンジはナミをきつく抱き締めていた。頭で綿密に計算をして受ける側が不快に感じないか気持ちを考えて、そんな完璧で臆病な配慮の行き届いたものではない、本能の行動だった。
 当然キスされるものと心の準備を整えていたナミは、突然の抱擁に困惑の渦中だ。こうしてサンジに抱き締められるのは慣れたとはいえ、今のはサンジらしくない荒っぽさだったので驚いていた。でも、不快ではない。出し抜けに濃厚になったサンジの気配にどぎまぎしてしまうけれど、決して心地悪い部類のものではなかった。
 腕の中の温度に馴染んできたナミが背に手をまわそうとした瞬間、サンジが離れてしまったので、ナミの手は不自然な位置で止められてしまう。それには気づかないまま、サンジは少し照れたように笑った。
「ごめん。ナミさん可愛いなぁって。見惚れてた」
「……軽口叩くような場面じゃな、」
 言い終えるのを待たずに軽く唇を頂戴すると、ふてくされるように頬を拗ねらせる。そんなナミが愛しくて、サンジは今度は優しくナミを抱き締めた。ナミもほっとしたように、サンジの背に両手をまわした。
 頃合を見計らって顔を寄せると、ナミの瞼がゆっくりと下りていく。
 最初の頃、ナミは目を開いたままキスを受け入れていた。不思議に思い、ある時尋ねたら、「閉じなきゃいけないの?」と逆に訊き返されて困ってしまった。からかいでも、試す風でもなく、真剣に心から疑問を抱いている口振り。言われてみれば、確かに、実際のところ決まった形式があるのかは知らない。サンジはその時初めて、経験からなんとなく目は瞑るのがマナーだと思い込んでいただけに過ぎないことに気づいたのだ。
 そう伝えると、ナミは「ふうん」と一つ頷きどう受け取ったのか、その後も暫くはサンジを魅了して止まない瞳が奥に仕舞われることはなかった。正確には、仕舞うことができないと言うべきか。繰り返し口付けている合間に、思い出したようにぎゅっと目を瞑る。その力加減といったらあまりに不自然で、キスに集中されていないようで少しばかり面白くなかったり、慣れない反応が可愛らしかったり。いたずらに見つめ返してみれば、至近距離での応戦にたどたどしく頬を染める、新鮮でくすぐったい触れ合い。
 そして口付けた今、目の前のナミはうっとりと瞼を下ろし、肩から、腕から、腰から、とろりと完全に力を抜いている。血の循環すらサンジに任せるように。
 胸の詰まるナミの小さな変化は、抱き締めるときの緊張が解けるのと比例していたように思うので、サンジは勝手にも、安堵感の表れだと捉えている。触れる体温や空気、肌触りや息遣いから、ナミの記憶に直接サンジの姿形が映り込んでいるのだと。あまりにサンジに都合がよく、ポジティブな捉え方だったが、そう解釈させるだけの力をナミの全身が放っていたのだ。
 僅かに顔を離せば、ゆるゆると粘り気のある息がサンジの頬にかかった。こつり、と額を合わせると、そこからまたナミのぬくもりがサンジの体内に流れ込んでいく。表情を窺えば、余韻に浸るように柔らかく閉ざされた瞼の上から、長い睫毛が小刻みに震えている。
 そうして一拍置いて、夢の陶酔から離れがたそうに開かれる、瞳の奥。
 どこまでも見通すかのように潮の流れを読む研ぎ澄まされた瞳、楽しみを発見してはらんらんと輝く瞳、騒ぎ立てるクルーを母のように見守る温かな瞳、恐怖に竦み怯える瞳。
 様々な面を持つ健康的なナミの瞳が、今、サンジのせいで情欲に濡れている。汚れを落とすように澄んでいながら、決して清らかとは言えない要素を含んで。
 すべてが甘く、サンジは痺れてしまいそうだった。
 ただ重ねる、それだけのキスでこんな情欲を誘う表情をするようになるなんて。充分予測できた展開なのに、サンジは戸惑いを隠せずにいる。この先、どんないやらしい顔をするのか。覚えさせるのは自分だと思うと、言い様のない快感と罪悪感が胸を圧迫する。自分の手で、ナミを変えてしまう恐怖。罪深き行いだと責め立て、見えない何かが心臓を凍結させるべく罰を施しているようだ。
 しかしながら、欲動は攻め立てることを止まない。せきたてられるままに押し流され、上唇の裏に舌を滑り込ませると、ぬるりと一舐め。
 普段とは違った手順に、ナミの肩が飛び上がった。驚きのまま後ろに退く後頭部を、柔らかく引き戻す。
「なに……」
「キスだよ」
 疑問の声に被せて答えを告げると、ナミの瞳が一層揺れる。
 拒絶ではない。怯えているわけでもない。何をされるのかわからない戸惑いと、キスという甘い誘惑への期待を色濃く乗せたナミの様子は、サンジを煽る材料でしかない。
「キスしか、しない」
 ずるいと思う。わざと「キス」という言葉を使い、強調して、ナミの身体を解きほぐそうとしている。
「……嫌?」
 嫌じゃないとか、小さく首を振るとか、サンジが望む返事が返ってくると予測済みで問い掛けたものではあるけれど。ナミから発せられるというだけで、どうしてこうも甘く切ない感情に襲われるのだろう。
 安心させるように優しく合わせる。何度も、何度も、重ね合わせては甘く瑞々しい感触と時間を共有しあう。貪るというには程遠い、啄ばむというほど軽くない、穏やかで静けさの漂った性的な匂いのしない子供染みたキス。二人はいつもこんなキスをした。そしてナミの強張りが解けてきた頃合に、上唇を含み、舌でなぞると、再びぴくんと肩が大きく跳ねた。やはり退こうと後頭部に沿えた掌に重力が掛かるが、動揺からと判断した手は逃れる術を絶つ。
 柔らかく食めば、小さいながらも弾力を感じる。いつもより強く伝わる肉感的なぬめり、それだけでもサンジをぶるりと震わせるには充分だった。興奮に火がついたままに強く吸い込むと、ナミへの狂おしい慕情や激情が奔流してきては脳髄をじりじりと焼く。
 ふっくらと柔らかいナミの唇。同じ唇なのに、どうしてこうも違うのだろう。サンジが感じるように、ナミからしたらサンジの唇も、極上に蕩けた蜜のように感じるのだろうか。けれど今のナミに、感覚神経から伝わる刺激を的確に判断し言葉に変換する余裕が存在するとは思えない。サンジによって、頭の回転の速いナミの脳は機能を停止し、思考は真っ白に染まっているのだと思うと、また沸々と身体に熱がこもる。
 めくるようにして下唇の裏を舐め上げる。ぞくり、とナミが鳥肌を立てたのがわかった。背中をさする手も、髪を梳く手も震えている気がして、サンジは上手くできているのか自信がない。
 歯をちろちろと舌先で突いてみても、依然そこは固く閉ざされたまま。
 未だ守られているナミの舌、熱い口内。どんな味がするのだろうと、サンジはまるでただ純粋に焦がれるだけでよかった、世界のどこかに君臨するオールブルーに想いを馳せ続けた幼少時代のように夢を見た。太陽の灼熱のように情熱的で、上等なストロベリージャムのように熟していて、穏やかな海にゆらゆらと揺られるような頼りなさ。情熱的なキスは知っているはずなのに、まるで未知の領域に踏み込むような疼きと恐怖心はどこからくるのだろうと不思議に思う。想像するだけで胸が締めつけられ、自分が小さな存在にでもなったような錯覚。
 早く力を緩めて受け入れてほしいと願う傍ら、このまま身を守り抜いてほしいという矛盾した感情に襲われる。進みたいのに、進みたくない。がんじがらめな欲望は扱いづらくて、サンジはどうしたらいいのかわからない。
 しかしナミは、サンジが思っている以上に力強い強さでサンジに心を預けていた。ナミの身体から、最後の力が抜けてくる。薄く暴かれた歯の間。

 サンジはそのまま倒れ込む勢いで、ナミの肩にうな垂れた。瞼を突き刺す前髪が鬱陶しい。だがそれ以上に、額に沁み込むナミの素肌の感触。今この状況では、心地良さよりもむず痒さを生む。上手い煙草の苦味を味わった直後に綿菓子を突っ込まされた気分だった。
「サンジ君……?」
 耳に直接届くナミの声が甘い。きっと蜂蜜以上だ。
「…………心臓止まりそ……」
 こう密着していては、壊れそうなほどに乱打している鼓動も聞かれているのだろうと思うと、情けない。けれど離れるよりは、羞恥に耐えるほうを選びたかった。時間が溢れているなら溢れているだけ、ナミに触れていたかった。
 そんなサンジのささやかな望みも、甘く刺激的なナミは許してくれない。くしゃり、と髪に触れた音と共に、静電気が身体中を駆け巡った気がした。
「!」
 サンジは弓に弾かれたように、ナミからぱっと離れる。それは胸に掻き抱くような、幼子をあやすような、頼りない非力さとは裏腹に慈しみに溢れた仕草だった。
 サンジの動揺がどれだけ大きなものか知らないナミは、珍しいものを見た、とでも言いたげに瞬きをすると言ってのけた。
「顔、真っ赤」
 何もはっきり言葉にしなくとも。サンジは殊更熱くなる顔を誤魔化す術を他に知らなかったので、投げ出されたナミの小さな手に自分のそれを重ねた。はにかむように微笑むナミ。零れた笑顔に確かな温かさが乗っていることを噛み締めると、サンジは自分の行動が正しいのだと安心した。余裕なんて存在しないのはサンジとて同じだった。

 僅かに太陽が傾いている気がする。どれだけの時間キスをしていたのだろうと、サンジは少し呆れた。子供染みたキスでこんなにも満たされるなんて知らなかった。それは幸せでたおやかで、充足感と慈愛に満ちた発見だった。ナミと歩む人生は発見の連続だ。そうサンジが感慨に耽っているときだった。
「本当はわかってるの。どうにもならないって」とナミが突然口火を切ったのは。
 サンジは一度考えを巡らせてから、キスの前に交わしていた話の続きであることに気づいた。まさか蒸し返されるとは思っていなかったサンジは、ひどく戸惑うしかない。
「いつもそう。あんたたちは私が何を言ったって、振り向きもせずに勝手に駆け抜けて行っちゃうんだわ」
「……あいつらもあいつらなりにちゃんと考えてるさ。おれだって」
「サンジ君だって一緒よ」
 ナミは厳しくサンジの意見を全否定した。サンジは何も返せない。それもナミはわかっていた。困らせたくて蒸し返したわけではない。「だから」と言うと、ナミはサンジの目を真っ直ぐに見つめた。
「私は私でわがままに生きさせてもらわないと割に合わないわよ」
 言い切るより先にナミの顔が勢いよくサンジへと近づく。が、それがまずかった。勢いに行き先を誤ったナミの唇は、サンジの上唇の若干上、鼻先に近い皮膚をかすめてしまう。「あっ」と声をあげたところで、とき既に遅し。こうしてナミからの初めてのキスは、実に格好の悪いものとして二人の歴史に刻まれたのだった。
 失態を演じた当の本人は、決まりが悪そうに頬を染め目を泳がすが、サンジにとっては成功か否かなどたいした問題ではない。
「な、ナミさ……」
 鼻先を片手で覆ったまま動転しているサンジを置き去りにして、ナミはまた勢いをつけて滑り台を滑り降りた。彼女は何事にも過ぎるくらいに全力でぶつかる癖があった。そのまま走り去ろうとするけれど、何か大事なことを思い出したとでもいうように、芝生の上でぴたりと制止した。
「クリームシチュー!」とナミは内容に見合わない大声量で叫んだ。本人にも予想外だったらしく、振り向いた瞬間に合った目を気恥ずかしげに逸らす。
「今夜は予約してあるの。たまには外食もいいでしょ、他人に甘えても罰は当たらないわ。でも、明日はサンジ君のクリームシチューが食べたい」
 くるりとサンジに背を向ける。ひらひらと舞う橙色。その足取りは軽やかに優しげで、女部屋に入るまで一度も振り返ることはなかったが、サンジの記憶にはナミに浮かんでいるであろう表情が、最上の愛しさを込めて焼きついていた。
「……了解」静かな呟きは海に消えた。




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[ 2008/02/20 ]