幸せのにおい
狙撃手の絵画力はプロ顔負けだ。目に映し出したものを細やかに大胆に瑞々しく筆に乗せる様は、節くれだった手からは想像もつかない。外観のみに止まらず、個々が持つ個性や性質を、内側から見事に鮮やかに描き出すのだ。彼の手から生み出されたものは、様々な感情を持って現実の人間へと訴える。人物も自然も何もかもが、今にも自由に動き出しそうな生命力に溢れていた。
しかし結局のところ、絵は絵でしかないのだ。どれだけの生命を感じても、紙面から抜け出して動き出すなんてことはありえない。意志を持つことなど不可能な存在。自由に生きることを禁じられた、限りある空間においての命でしかないのだ。
長いとはいえない期間を共に過ごした彼女は、もっと鮮明に力強く生きていたと思う。決して彼の絵力を卑下するわけではないけれど、そう思うのはやはり、彼女の気品ある仕草、由緒ある王家の血筋を受け継いだ勇敢でたくましい言動、彼女が隣に存在している空間、彼女の空気。そういったものを、現実のものとして身体が根深く知っているからだろうか。
本棚の一段からまとめて引っ張り出した、数冊の蔵書。その間に挟まれていた一枚の絵に、ナミの意識が奪われる。
蜜柑畑で談笑をしている、今は船を去ったビビとナミ。ナミが動作つきで何かおかしな話題でも繰り広げているのか、ビビは口元に手をあて笑いを堪えている。恐らく写生画なのだろうが、記憶の海を探ってみても絵に刻まれた日がいつのことかは思い出せない。
ビビが船を後にしてから、いったいどれだけの月日が流れただろう。慌ただしい船上生活、息つく暇もない上陸地での冒険、観光、めまぐるしく変化していく日々。笑い声に混じっているはずの女の子らしい明るい声が一つ足りなくても、彼女が愛用していたマグカップが食器棚の奥に追いやられ食卓に並べられなくても、船は変わらずに前を進んでいく。毎日を笑い、時に悲しみ、慈しみ、生きていく。それが現実だった。まるで初めから存在していなかったように。
だけど、今でも鮮やかに思い描ける。ビビがどんなふうにゴーイングメリー号に存在していたか、どんなものをどれだけのものを残していったか、どんな生き方を示したか。それも確かな愛しい現実だった。それは何もナミに限った話ではなく、ビビの存在は当時の船員全員に深く色濃く刻まれているだろう。その証拠に、誰もがビビを愛していた。国のために自身を顧みず必死に立ち向かおうとしていた、そんな彼女だから仲間はビビを深く愛したし、彼女を救うために力を惜しまなかったのだ。そしてまた、ビビに騎士のように付き添い、喜びも苦しみも多くの時間を共有しあったカルーの存在も、同じように皆の記憶に消えることのないものとして刻まれているだろう。
ナミは目を閉じて彼女に想い馳せる。くるくるとたくさんの色を浮かべる、大きな意志の強い瞳が好きだった。風に舞い自由に生きる水色の髪が好きだった。婉然と背筋を伸ばし真っ直ぐに前を見つめる、凛とした佇まいが好きだった。やわらかに大人びて、時に悪戯っぽく年相応の幼さを湛え、そして優しく輝く幸せに溢れる笑顔が、とても好きだった。
それと共に、ビビが苦しむ姿を見るのが嫌だった。ビビが悲しみに暮れる辛い現実に襲われることは、ナミにとって日に日に許せないことへと変化していった。まるで自分自身が切り裂かれているような錯覚に見舞われるほど、とてつもない苦痛、怒り、悲痛。そして同時に、強く守りたいと思う欲求。笑っている姿を、いつまでも見ていたい。ビビと共に過ごす時間が一日一日と増えていくに比例して、そんな想いが身体中を侵食していった。どんなに小さな形でも構わないから、ビビの幸福を象る一つの手になりたかったのだ。
たまに、複雑な感情に襲われることがあった。大好きだったビビの笑顔を自分に見せてくれたとき、ビビの心に直接触れるような話をしたとき、触れ合ったとき。なんてことのない些細な瞬間に、胸を締め付けられるような苦しさが圧し掛かってくるのを度々感じていた。嬉しいと思うのに、それだけでは収まりきらない煮えきらないもの。釈然と落ち着かない感情。なぜビビに対してだけこんな想いを抱くのか。必死に頭を働かせて辿り着いた先は、切ないという表現がぴったりくるようなものだった。それ以上の新たな答えは見つからなかったが、ナミはそれでいいと思っていた。ただナミは皆と同じようにビビを愛していて、彼女は辛い状況にも屈さず必死に自分の足で立っていた。自らを奮い立たせることだけでも精一杯だろうに、必要以上にまわりを気遣い、愛する国民のことを何よりも一番に考えていた。そんな状態だったから、懸命なビビに愛する気持ちがより一層強く浮き立ち、形容できない複雑なものとして心が掻き乱されるのではないかと結論付けたのだ。その答えに落ち着くには不明瞭なものだったけれど、初めて触れる未知の感情を前に、ナミにはそれ以上の意味を知る術が無かったのだ。
しかし今なら、その感情の名に見当がつくものが、一つだけあった。何も今はじめて思い当たったというわけではなく、ナミがそれを知ったときから漠然と感づいていたもの。ビビへと抱いていた、言葉では説明しきれない不可解な感情。それはどこか、とても。
「サンジ君」
「えっ、なになに?ナミさん!」
ソファに寝そべり特に興味もない雑誌に目を通していたサンジは、「邪魔しないで」と手厳しく言い渡されたナミからの呼び掛けに弾んだ声をあげる。雑誌を無造作に投げると、いそいそとナミのもとへと駆け寄る。軽やかな足音は、ナミの背後でピタリと止まった。
「私は彼女に、恋をしていたのかしら」
同性相手に何を言っているのかと、馬鹿馬鹿しいと彼は笑うだろうか。サンジの性格を考えると、表面には出さなくとも、心では呆れてしまうだろうか。
しかしナミが恐る恐る振り返ったそこには、思いがけない膨れっ面、あるいは拗ねたような表情で。サンジが茶化さず傍にいてくれていることに、真剣に受け止めてくれていることに、胸をくすぐられるような感覚に襲われる。ビビへの気持ちを否定されない。その事実が、ナミの心を柔らかにほぐした。また同時に、拗ねている理由にも思い当たってしまって、色恋沙汰に絡んだことに関して即座に予想がつくようになった自分自身に、嬉しい気恥ずかしさを覚える。
「……おれ、聞きたくねぇよ、そんな話。ちっせェ奴と思われるかもしれないけど、ナミさんがおれ以外に」
「私は聞いてほしいわよ」
途中で遮った強めの一声。意識して発した言葉ではなかったので、ナミ自身驚いてしまう。眉を下げ弱りきった目で見てくるサンジを視界から外して、たった今自分が放った言葉の意味を脳内で考えた。けれど、どう頭の中身を探ってみても、そう発するに至った理由は見つからなくて、ただわかることは聞きたくないなんて身勝手だ、とそれこそ身勝手で理不尽な感想を抱いたことだけだった。だって、あれが恋だったのではないか、なんて思考に巻き込まれるようになったのは。
「恋を教えてくれたの、サンジ君じゃない」
そう思ったら言葉だけが先回りする。どういう意味?、と視線で尋ねてくるけれど、ナミ自身にもわからないのだから答えようがない。先を紡がないナミにたまりかねたのか、サンジが口を開く。
「おれが教えたから、聞いてほしいの?」
「……わかんない、けど」
口と脳が直結している。賢明さの欠片もない自身にナミは呆れて、だけどサンジの前で取り繕うことなど無駄なことだとも思う。だって恋に関しては、目の前の男にはもうとっくにみっともない醜態をさらしてしまっている。ナミは心のままに静かに口唇に乗せた。
「サンジ君だって、ビビのこと、好きでしょう?」
「そりゃもちろん好きだけど……」
返事を返しながらも、サンジの目は戸惑いに揺れる。
「わからないけど、でも、ビビのこと好きなのは確かだもの。すごく大切で、何者にも代えがたくて、それだけはあの頃も今も変わらない。だから……好きだから、存在を感じていたいって思うのは、おかしいことじゃないでしょ?……もっと、話したいよ、ビビのこと」
頭で整理がついていない状態でそのまま言葉を吐き出すナミの髪を、その間サンジは無言で撫でつづけた。優しい指の動きが心地良いとナミは思う。
「……会いたいな」
「……うん。会いてェな」
けど、と僅かに間を置いて小さく呟くも、その先は続かず言い淀む。不思議に思いサンジに目線を合わせて、「何?」と目で促すと、視界からすべてを奪うように腕の中に閉じ込められて。
「ナミさん、飛んでっちまいそうで。……ちょっと、怖い」
情けねぇな。
ため息混じりに吐き出された本心に、ナミの心は震えた。同時にバカだ、と強く思う。ビビへ抱いていた感情の名に思い当たることが出来たのは、弱りきった情けない顔を浮かべているであろうこの男に恋をしたからだというのに。
正直なところ、ビビへの想いが本当に恋だったのかは、今でも判断がつかないでいる。気づいたときには、もう既にサンジにどうしようもなく恋をし深く愛してしまっていたのだから。だけど、それでいいのだとナミは思う。あの不可解な感情に惑わされた日々が恋であってもなくても、今も昔もきっとこれからも、ビビを深く愛していることに変わりはない。
「やっぱり早く会いたいわ」
言いながら腕の中から抜け出す。見上げたそこには想像以上に情けない顔があったので、不謹慎にも噴き出してしまった。咎めるように見つめてくる。
「ビビと再会したらどんな気持ちになるか、想像はできるけど、実際は想像よりもずっと大きく心を揺さぶられると思うもの。あの頃とは、私の気持ちがまったく違うから。……好きな人、とビビと仲間とみんな一緒に過ごせるなんて夢のような幸せに包まれる気がする」
早口でまくしたてたけれどやっぱりどうにも恥ずかしさを拭えずに、それにサンジ君の反応面白そうだし、と照れ隠しに続ける途中で唇をふさがれた。
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[ 2006/06/13 ]