彼と彼女の浸食劇
side NAMI
よく、笑うようになった。
まだ彼女が船に乗って間もない頃、張り詰めた表情をすることが多かった。昼間は心配を掛けさせまいとしてか気丈に振る舞っているけれど、深夜に何度も寝返りを打ったり気分転換に喉を潤すためか夜風にあたるためか、そっとふとんを抜け出したりしている彼女の心に居座り続けている不安や恐怖を、同室の私は痛いくらいに感じていた。だからといって私に出来ることといえば船を進めることくらいで、彼女の心の奥にまで立ち入ることなど出来はしない。気の効いた言葉の一つでも言えればいいのかもしれないけれど、根拠のない無責任な励ましなどなんの慰めにもならないし、逆に神経を昂ぶらせるだけだということを私は知っていた。無神経な善意はときに本物の悪意よりも性質が悪い。
それに……みっともない話なのだけれど、私は同年代の女の子への接し方というものを知らなかった。みんなといるときは特に気に止めないでいられるのに、いざ二人きりになると途端にどう接すればいいのかわからなくなり、戸惑ってしまうのだ。まかり間違っても男たちにするように乱暴に扱うことなど出来ないし、そんなことしたら壊れてしまいそうだ。正直、自分が同じ生物だとは思えない。だから余計に、安らいでほしいのに上手くこの空間を心地良いものに作り上げることが出来ずに、何度ももどかしい歯痒い思いをした。自分の要領の悪さ加減に苛立った。唯一場を和らげてくれるカルーの存在を、とても頼もしく思ったものだ。
そのビビがいつからか、よく笑顔を振り撒くようになった。厳密にどの時期かはわからないが、引き金となったのは恐らくこの船の船長であるルフィだ。ゾロはああいった性格だから除くとしても、ウソップとサンジ君だって早く場に馴染めるように、少しでも不安が取り除けるように、愉快な話題を振ったり笑顔を引き出そうと彼女を何かと気遣っていた。しかしそれはどこかぎこちなく、よそよそしさが拭い切れていないものだったように思える。彼女の境遇であったり、遠慮深い彼女の性格であったり。たぶん、そういったものが働いて無意識に態度に表れていたのではないかと思う。
だが、ルフィは。例えば戦場のような食卓で居心地が悪そうに細々と箸を進めていると、「なんだビビ、いらねぇんならおれが食ってやるよ!」と返事も待たずにがっつきサンジ君に制裁を貰い、例えば甲板で一同共通の話題で盛り上がっていると、「なぁビビだってそう思うだろ!?思うって言え!」と半ば脅し入りで呼び掛け全員から突っ込みを貰う。その言動の裏に他意が含まれているのかはわからない。が、恐らく天性のものなのだろう。そもそもルフィには計算などという歪曲したものは存在しない。ルフィという人間そのものが、どうしようもなく大きいのだ。発せられる言葉には信じさせる力がある。不思議と安らぎを与えてくれる力がある。根拠なんてどこにもないのに、ルフィにはそういったものが漲っていた。当然得ようと思って得られるものでもなければ、真似ようとしてできるものでもない。言葉なんかで説明が付くものではない、もはや存在が桁違いなのだ。きっとこのようなものを、あらゆる面に値する器と呼ぶのだろう。
ルフィの飾りのない真っ直ぐな心は、ビビ自身を解すだけでなく、私にもウソップにもサンジ君にも影響を及ぼしたのだと思う(恐らくは、ゾロにも)。そして彼女は今、日の光を受けてころころと声をあげて笑っている。
―――ドラム島でルフィが頭を下げたと聞き、なぜこのことが頭を過ぎったのかはわからない。
side VIVI
「貸して」
一人きりだった部屋に透き通った声が響き、目を向ける。
声の持ち主はオレンジ色を跳ねさせて最後の二段を飛び降りると、間もなく私の傍にやってきた。ぎしり、とベッドが軋んでナミさんは私の後に回る。再び「貸して」と言葉を添えて差し出された手に、おねがい、と櫛を手渡した。
ナミさんは私の髪を梳くのが好きだ。
まだこの船に乗り合わせて間もない頃、やっぱり今のように言葉を添えて手を差し出された。最初は気を使われたのかと思った。彼女がそういった枠に捕らわれる気質の人間でないことは、なんとなく感じ取っていたけれど、それでもやはり王女である私は、何気ない瞬間で王女と国民の差というものを否が応にも体感していた。王女という役職は本人の人間性に関わらず、王女というだけで敬い讃えるものに変換してしまう困ったものだ。それは年齢を重ねるごとに、着実に崩せない壁として私の前に立ちはだかる。相手からしたら他意のない、そうすることが当たり前だと認識した上からくる振る舞いであっても、決して交わることのない隙間を感じさせるには充分で。かと言え、それが原因で自分の生まれを憎んだことなどないけれど、まったく寂しく思ったことがないといったら嘘になる。……いや、正直に言えば、かなりの寂しさを感じていたのだと思う。幸い私には、私自身を見つめ接してくれる人たちが傍にいてくれたけれど、そういった人たちはやはり少数派だった。この二年間はそういった些細な言動からくる空虚感などを思い出している暇もなく、記憶も薄れていたのに、彼女とのやりとりで突然リアルに蘇ってきたのは、久しぶりに他人に素性を明かしたからだろう。勿論彼女はアラバスタの国民ではないのだけれど。それにそう、彼女には謝礼金を支払うことも約束していた(今思い返せばなんて穿った見方をしていたんだろうと情けなくなる)。
そんなわけで色々な事情が重なり、どうしても任せる気持ちにはなれずやんわりと拒否を示した。けれど彼女は、いいから私がやりたいの貸して、と。半ば無理やりに黒く染まった櫛を奪われてしまったのだ。
櫛先が頭皮にやわらかく触れ、ゆっくりと離れながら下方へと向かう。そしてまた頭皮に帰って来る。その動作を数回繰り返したあと、今度は左手で一房掴みその部分だけを何度も丁寧に梳かす。やさしくゆったりと、そこだけ時間の流れが遅れているように。まるで腫れ物に触れるような動作。無言で、ただただ櫛だけを行き来させる。
居心地の悪さを感じた。優しい動きも、無言の空間も、彼女も。何もかもがどうしようもなく居心地が悪くて、無造作に放っていた指先にすら神経が集中しはじめる。意識しなければ呼吸すらもままならない。それでも彼女は一寸の乱れも見せず静かに梳き続けるものだから、私もこのぎこちない時間の流れに身を任せていたのだけれど、いよいよ耐えられなくなりこの時間を終わらせたくて、ありがとうと終幕を打とうとした。けれどその瞬間、耳上辺りに両手が添えられたかと思うと、彼女は掌に収まったそれをぐちゃぐちゃに掻き混ぜたのだ。丁寧に丁寧に、何度も何度もしつこいくらいに櫛を通して優しく労わってくれた私の髪を、それはもうぐちゃぐちゃにぐしゃぐしゃに。
何をされたのか咄嗟に理解が出来ずあっけにとられている私に、彼女は悪戯っぽくにんまり笑って。
『こうしたほうが梳かし甲斐があるわ』
思わず噴き出してしまった。
それ以来、オレンジと水色の梳かし合いは頻繁に行われる儀式となったのだ。
「上、賑やかね」
「あー……ルフィのいつものあれよ。サンジ君がちょっとキッチン外した隙につまみ食い。まったく、人の倍以上の夕食たらふく食っておいてまだ足りないってんだから。呆れるわ」
「ふふ。ルフィさんも懲りないわね」
「ビビの頼もしいナイトさんも仲良く蹴りをお見舞いされてたわよ?」
「……もうっ……あとできつく言い聞かせなきゃ」
口を尖らせて言うと、後から笑い声。肩を震わして笑っているナミさんの様子が手に取るようにわかって、私も思わず笑みが零れた。
櫛が髪を通っていくのを感じながら、目を閉じる。そうするとナミさんの手の動きがより一層鮮明に感じられて、心地良い。目を閉じたまますべてをナミさんにゆだねるように、リラックスモード全開で力を抜いた。
外気にさらされていた部分が埋められると、今度は少しとなりの髪が一房掬われる。うっかりうとうととしてしまいそうな気持ちよさ。それを全身で受け止めながら、しばらく静かな空間に身を置いていたのだけれど。ぎしりとベッドが音を立てたので目を開けると、ナミさんは僅かに移動して右側に寄る。そのおかげでナミさんの姿がうっすらと視界に入り込み、ちらりと右手が横目に映った。
ナミさんの手は冷たい。私の手は割とあたたかいほうだから、触れるとその温度差に少し驚いてしまう。だけどナミさんの手は、私よりもずっとずっとあたたかい。矛盾しているけれど、事実冷たいのにあたたかいのだから仕方がない。ナミさんの手に触れると、心の奥まで包み込まれるような気持ちに満たされるのだ。またそれがとてつもなく居心地がいいのだから、手に負えない。きっと、彼女の持つ人間性がそう感じさせるのだろう。素直に表には出そうとしないけれど、果てしない優しさを溢れるほど持っている彼女の性質を、手までもが如実に体現しているようでちょっと笑ってしまう。そしていつか、このあたたかい両手で心だけでなく実際に私の手を包み込んでほしいな、なんて願望を密かに抱いていたりする。私からしたことは何度かあるのだけど、残念ながらナミさんにしてもらったことは一度もない。お願いするのもなんだか変な気がして、未だ言えずにいるのだけども。
……だけど、あのとき。ナミさんが倒れて寝込んでしまったとき、そっと包み込んだ手からはいつもの活気や内から湧き上がってくるあたたかさはどこにもなく、芯から冷え込んでしまうような恐怖だけがそこに根付いていて。生気を失ってしまいそうな力の無い手。このまま動かなくなってしまったら……と、ぞっと悪寒が背筋を駆け巡り恐怖に震え、そんな悪夢に支配されそうになる弱い自分をたしなめた。先の見えない恐れと闘っていた日々が、ほんの四日ばかり前のことだなんて、わかっていても信じられない。信じられないけれど、今ここで私の髪を梳いている手は、確かにあのとき握った生気の感じなかった手と同じもの。同じものなのに、今は様々な色を持ってこの手はたくさんのものを与えてくれる。熱なんて感じるわけないのに、ナミさんが髪に触れるたびに毛先一つ一つから体温が体内に流れ込んでくるようだ。溢れるほどの生命を感じさせる。私を導いてくれる、強くて優しくて大きくて、とても心地良いナミさんの手。
気がついたらその手を握っていた。
「ビビ……?」
ナミさんに向き合うように身体をずらして、もう片方の手できれいな手の甲にそっと触れる。
「よかった」
すっかり私にゆだねているひんやりと冷たい手も、疑問を浮かべて見つめてくる瞳も、不思議そうな声音も。
「私、ナミさんに髪を梳かしてもらうのが好き。梳かしてあげるのも好き。私、とても嬉しいの、ナミさんとこうしている時間が。ナミさんと一緒にいられることが、とても嬉しい。……ナミさんが生きていてくれて、よかった」
ああなんて語彙がないんだろう。伝えたいことはもっと深いものなはずなのに、簡単な言葉しか出てこない。同じようなことしか言えない。だけど。どんなに複雑に絡み合って深いものに見えても、奥を突き詰めれば、結局はそういうことなのだ。私はナミさんがとても好き、という至ってシンプルなもの。私はナミさんがとても好きだから、ナミさんが生きていてくれてよかったという想いが心の底からめいっぱい溢れ返ってきて、どうしようもない。あなたの存在が、あなたを彩るすべてがとても嬉しくて幸せで、愛しい。
改めて実感したら、思わず両手に力が籠もってしまった。
「ビビはっ……」
そう言ったきり俯いて黙ってしまうから、はて?と今度はこちらが疑問符を浮かべる。ナミさんの数々の振る舞い方が脳裏に即座に思い浮かべられるようになったといっても、当然読めないことは山ほどある。今がそうだ。俯いて固まってしまったまま動かない。不思議に首を傾げて、ナミさん?と呼びかけると、ようやく上げた顔はほんのり色付いていて。
「ありがとう」
私と同じように語彙も何もない言葉を一言返すナミさんが、とても可愛くて。先刻の不可解な振る舞いは照れ隠しなのかなと思った。何を隠そうこの航海士、実は結構な照れ屋さんだったりするのだから。
どういたしましてと解すように少し芝居がかって言うと笑顔が返ってくるから、嬉しくて私も笑みが深まる。こんな瞬間も愛しい。
あたたかい温度に包まれながら、今度は私の番、と中断していた儀式を再開するべく櫛を受け取った。
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[ 2006/03/05 ]
ビビナミは友愛と恋愛の狭間の淡い無自覚ナミ片恋がデフォです。