・サンナミというかサンナミ絡めたビビ話というか。
絡み合う直線
「私はナミさんの味方だから、サンジさんを応援してるの」
美しい歌声のような音色でなんと残酷な言葉を生み出すのだろうと、サンジは胸中でごちた。ビビの声は晴朗な未来を見通した自信に満ち満ちていて、逆にサンジの心に穴をあけた。現実味をまるで持たない実情では、胸を抉る槍にしかならない。
言い様に立ち上がり、サンジから距離をとったビビには、そんなサンジの複雑な思いには気づくよしもなかった。目的地に辿り着くと、白い指先が橙色を抱く。ビビと同じ目線にあるそれは、ビビの指に押されて甘ずっぱい芳香を立ち昇らせるように、嬉しげに揺れた。顔を近づけ、深く鼻腔に吸い込む。空色のビビの髪に、太陽色のナミの蜜柑。明瞭鮮やかなコントラストの美は、あらかじめ共存することが約束されていたようにひどく様になっていて、サンジは焦燥感に駆られた。
「どうにもそんな自信は持てないんだけどね」
本音という名の弱音が出てしまったのはそのせいだ。追い風に乗ってしまえるくらいの軽い口振りだったのが、せめてもの救いか。サンジはビビに背を向けると、気取られないように苦くフィルターを噛み締めた。
「少し羨ましい」
心奥の代弁でもされたのかとサンジは危うく煙草を落としかけた。驚きをあらわに船尾の海を視界から消すと、ビビの真っ直ぐな双眸とかちあう。口角を微笑みの形に残したまま、今度はビビがサンジに背を向けた。ゆらりと水色が散らばる。
「私はもう、昔みたいにきれいな感情だけで、人を好きになれない気がするから」
そのままの微笑みを連想させる声だった。深刻なはずの内容とは裏腹に、一寸の悲壮も含んでいない。なのでサンジは真意が読めず、瞳を戸惑いに揺るがすことしか出来ない。
ビビは橙色から、すぐ隣で息吹く葉に目を流した。気持ちの良いそよ風は、葉と葉の戯れをうながして、心地良い音色を鳴らす。ビビは優しく、傷つけないように、労わりの思いを込めてそっと淡い緑色に触れた。海上という不釣合いな世界にそびえる、果樹園。ナミの蜜柑の木。海に茂る緑。それは重石のように瞼の裏に幻影をまぶす、見慣れ疲れてしまったサボテン岩の緑よりも、何倍も何十倍も儚げでありながら力強い生命の芽吹きを放つものだとビビは思った。くっきりと浮かび上がる葉脈。人の静脈の様だ。
生き抜く覚悟。イガラムから受けた言葉を、ビビが真の意味で理解したのは、バロックワークスに潜り込みしばしの時が流れてからだった。
イガラムは出来る限りビビの護衛を買ってでたが、それにだって限界はあった。二人の関係性を怪しまれては、逆に命の危険を呼び起こす。イガラムが頭を抱えるその事実さえも、勇敢であり無鉄砲であるビビにはむしろ好都合だと利用した。ぬくぬくと守られる身に甘んじるつもりなら、最初から国を飛び出してなどいない。イガラムの知らぬ所で、ビビは平和を辿る未知の軌道に侵食されていった。決して生易しくない現実は、ビビの許容量を超えた重みで肩に圧し掛かる。イガラムの忠言がしがらみになる。生き抜く覚悟。国の平和のために、他人を犠牲にする覚悟。命を守るため、自分の身を痛めつける覚悟。
事の重大さは理解しているつもりが、無意識の内にどこか楽観視していた自分を責めずにはいられなかった。バロックワークスの潜入捜査でビビが得たものには、戦い方や騙し討ち、下衆な世界を渡り歩く方法など、由緒ある血筋の人間としては良いとばかりは言えない様々なことがあったが、無垢な愛に満たされていたビビに一際強く影響を及ぼしたのは、憎悪だった。目に見えない敵への、日に日に膨らむ感情。心の底から人を憎むことを知り、殺意という鋭利な刃が増幅して心を蝕む。ビビは自分のなかに、こんなどす黒い感情が生まれる余地があったのだと思うと涙が出そうになった。平和とはかけ離れた感情であるはずの憎悪が、平和の裏にある。憎むことが平和に繋がるだなんて知りたくもなかった。それでも、涙を零してしまったら敗北を認めてしまう気がしたから、決して泣くまいと背筋を伸ばした。自由の利かない下っ端社員に収まっていては、スパイ活動もままならない。手柄を上げ、這い上がるためなら何だってした。無知な勇気しか知らなかったビビには、人を傷つける勇気を学ぶことも必要だった。神聖な儀式のためではない化粧を覚え、派手な衣装で着飾り、身体を武器にした技を習得したのもその頃だった。見た目を偽れば心だって偽れる気がした。
サンジがナミに向ける愛情、ビビにはそれがとても純粋なものに思えた。だがそれも、部外者が外から縁取っただけの見解であるし、内側にはきれいなだけではない色々なものが巣くっているはずである。勝手な幻想の押しつけだ。理解した上でも、ビビには純粋すぎると目を細めずにいられない。
「ナミさんは私を神聖視しすぎてるのよ。そんなきれいなものじゃないのに」
サンジは絶句したまま、まるで今初めて知ったかのように、ただただビビの歩んできた道を思い途方に暮れるばかりだった。非力なビビがエージェントNo.9という地位に昇進するにまで至った理由。そして非力といえど、その地位に見合うだけの実力、その力を得るまでの過程があったはずだ。それは一概に、大切なものを守るためと綺麗事だけで片付けられるものではないと思い至るには、ビビと麦わら一味が出逢ったきっかけをはっきり覚えているサンジには容易いことだった。ビビは童話に出てくるような、世間知らずで守られることが仕事のお姫様ではないのだ。サンジはこんな時に掛ける言葉が見つからない自身を呪った。この口は調子のいいことばかりを学習して、肝心な部分をいつも欠け落としている。
「サンジさんがナミさんを見る目、ナミさんが私を見る目にそっくり」
しかし振り返ったビビは、サンジの予想に反して、先刻と変わらぬ朗らかな笑みを湛えていた。
「気をつけてあげてね。人ってそんなに、強いだけの生き物じゃないから。強い人こそ、脆い部分を隠して生きてるものだと思うの」
ビビがどうして突然こんな話を持ちかけてきたのか、サンジはようやくわかったような気がした。ビビの言葉の裏にある、存在。ほんの数日前までこの船に存在した、衰弱したナミの様子がありありと瞼に浮かぶ。熱さとは裏腹に生気の薄い温度さえも、未だ手に残っている気がして、サンジは寒気を覚えた。
「……ナミさんにも似たようなこと言われたよ」
そこで初めてビビの表情が一転した。驚愕の表情から時間をかけて緩まった頬は、柔らかな陽射しにも負けないまどろみを帯びていた。
ビビは心からの安堵に包まれるのを、全身で受け止めた。ビビにとってサンジとナミの間には、どこかぎくしゃくとした空気が付きまとっているように思えてならなかったのだ。ナミはビビがゴーイングメリー号に乗船してからというもの、人一倍親身に接してくれた。同性同士ということが大きく影響しているのだと思う。その証拠に、ビビに向けられるナミの愛情や思いやりは、不器用な形でクルー全員に向けられているものだった。
そんなナミが、どうしてだかサンジにだけは冷たく徹している。サンジさんが女扱いをしてくるから一線を引いてるの?それとも本当に嫌いなの?ビビの疑問に終止符を打ったのは、日常のなかの些細な瞬間だった。サンジの後ろ姿を追う、ナミの暗い瞳に、苦しい溜息。自覚していないだろうナミのその姿は、嫌悪の拒絶ではなく、埋めたいのに埋められない淋しい拒絶だとビビに暗示するには、充分すぎるものだった。どうしてかはわからないし、立ち入っていいことなのかもわからない。ただビビがわかるのは、ナミが戸惑っているということだけ。そういう仕打ちを受けているサンジを見ているのも辛かったし、そういった手段しか取れないナミを見ているのも辛かった。騒がしさものん気さも無謀さも、全部ひっくるめて温かな空間を作り上げる小さくも大きな船の上で、流れている冷ややかな一角。ビビにはお互いが傷つけあっているようにしか見えなかった。
しかしと思う。そういう話を出来るのなら大丈夫だ。本心をぶつけ合うことが出来るのなら。どんな未来が待っていようとも、きっと絶望だけではない。一筋の光が差し込むものだと、ビビは今初めて二人の未来に希望が持てた。
そして、考え得る限りの最上の形で報われてほしいと願わずにいられない。ナミさんの味方だから、サンジさんを応援してるの。それはサンジへの慰めでも何でもなく、ビビの心から出てきた本心だった。本当に嫌なら、何の躊躇もなく遮断してしまえばいいこと。簡単に終わりにしてしまえる。けれどナミは、拒みながらも振り切ることも出来ずにいる。サンジであることに意味があるのかは、ビビには判断がつかない。ビビが感じ取った断片は、心の奥底ではサンジが持つ感情を捨てきれないからだということだった。ナミはわけもわからず欲している気がしてならなかったのだ。隙間を満たすのは、ナミを心から欲しているサンジであってほしいと願う。ビビはサンジにだって幸せになってほしかった。
余計なお世話だったかもしれない。ビビは少し後悔した。
「同情と優しさを履き違えちゃ嫌よ、サンジさん」
「……?」
「きれいなことばかりじゃない世界を知ったからこそ、守れるものだってきっとあるはず。私は悲観なんてしてないわ。違う愛し方をすればいいの。だって私、色々なことを知って、色々な感情を知って、国を愛する気持ちが一層強くなった気がする。その道中で、みんなにも出逢えたんだから」
言葉をつくりあげる作業というものは非常に難しい、少なくともサンジにはそうだった。なので、精一杯の明るさで生み出すビビを尊敬せずにはいられない。ビビがつくりあげた言葉には、一匙の重さが隠しきれていなかったから。
含まれた想いを敏感に感じ取ることは出来るのに、伝える手段が思いつかない。サンジの長所と短所をないまぜにしたそれは、時にサンジを苦しませた。生まれ持ったものではないとサンジは自覚していた。
まったく、船長の人生に巻き込まれてからは強烈な刺激を受けてばかりだ。サンジは彼等と出逢ってからの日々で、幾度となく眩さと強さに自身を掻き消されそうな気持ちに襲われることがあった。荒波に揉まれ、行き先の見当たらないはじまり。だが、渦中に飛び込む決断をしたのは、サンジ自身だった。
「おれにはナミさんもビビちゃんも、純粋な煌めきで眩しすぎて、逆立ちしたって届かねェよ」
あまりにも純粋な声でサンジが言うものだから、ビビは唇を噛み締めねばならなかった。ただナミの事だけを、伝えたかったはずなのに。いらない身の上話までしてしまった。知能に優れているサンジが、言葉に含まれた裏を察しないはずがない。
ビビは世話を焼くつもりで、もしかしたら本当は自分が聞いてほしかったのではないかと思い当たって、その弱さを少しだけ恥じた。国のためにあらゆる覚悟を抱き続けたビビにナミの視線は、心地良くも優しすぎた。
ひとしきり感慨を噛み締めた後、それらを押し込めてビビはおどけた表情を作る。
「私は構わないけど、ナミさんに対してずっとそうだと困るんじゃない?他でもないサンジさんが」
「ははっ……仰るとおりで」
「そうね、じゃあ私からアドバイス。まずは手始めに、ナンパな振る舞いを止めてみたらどう?」
「あぁー、自分でも思わなくもねェんだけどねェ……。もはや条件反射っつか、身体に沁み付いちまってるからなァ」
「もう!それがいけないのよ、サンジさん。覚えてる?私と再会したとき、私の肩抱いてしけこもうとしたのよ?なんて手が早い人なのと内心呆れたんだから」
「んあっ!?……あーいや、あんときはさ、ホラ。……でもビビちゃんも、結ッ構ノってたよな」
「ずぶ濡れだったもの。猫の手でも利用しないとね」
「猫の手ですか」
「猫の手です」
顔をあわせて笑い合う。蜜柑色に彩られた、二人の穏やかな時間。終幕を予感したビビが移動する素振りを見せると、サンジも立ち上がって。
「では今度そのような機会がありましたら、仲間としてお手を拝借させて頂けますか」
仲間。当たり前のようにサンジの口から自然と出てきた言葉は、サンジが思っている以上の大きさでビビの心の奥底まで沁み入った。
「……期待しています」
そう言って曇りのない笑顔を一つ投げかけると、ビビらしい元気さでステップを踏む。階下に辿り着くと、くるりと振り向いて。
「安心して。ナミさんを奪う気はないから!」
「イっ……!?ちょっ、ビビちゃんそんな大声でっ……!!」
あたふたとうろたえるサンジに、キッチンに向かうビビは悪戯っぽい笑みを零した。ちょっと意地悪だったかしら、と反省もするけれど、私だけ心のど真ん中を射とめられたままなんて悔しい。そんな悪戯が成功した童心のようなビビの心情など知らない、蜜柑畑に残されたサンジは、後方甲板でニヤけるウソップ工場の主におっかない睨みを効かせるだけで精一杯だった。
参った。多感な王女様はどこまでもお見通しだ。女の子はそういった事にやたら勘が働くモンなんだっけな、と身に沁みていたことをサンジは久方ぶりに実感した。
グランドラインに突入してからというもの、ナミはサンジが知っているナミの中でも最高に無邪気な顔を、よく見せるようになった。生き生きとした生き方は、ココヤシ村を出航したあの時から何一つ変わらないものだったが、それまでのナミを取り巻いていた主な魅力は、凛々しい力強さだった。強靭な男クルーを引っ張っていけるほどの、逞しさ。それが近頃は、加えて歳相応の女の子らしさも窺えるようになったのだ。それは仕草や言動にも表れている。その起点となったのは、誰の目にも明らかに、ビビの存在だった。ナミの内にこめられていた表情を引き出すほどの力を持つビビが、飾り気のない愛情を向けられているビビが、サンジは焦れるほどに羨ましかったのだ。否、現在進行形で用いられている。参った、とサンジはもう一度心の中で呟くと、火のついていない煙草から紫煙を燻らせるように空を見上げた。今夜のメニューはビビの好物を並べようと、浮かび上がる真っ白な雲を見つめながら思った。
なぜだか無性にナミに逢いたくなった。ナミは少し前から女部屋にこもっている。書き物でもしているのだろうか。「寝込んでたぶんを取り戻さなくちゃ!」と、ここ数日のナミは一際張り切っていた。差し入れを女部屋まで持ち運ぶのは、迷惑な行為だろうか。ナミの大好きなハーブティ。「疲れたろう?一息つくのも大事だよ」と差し出せば、「ありがとう、サンジ君」と無邪気な喜びの笑顔をくれるかもしれない。
――職権乱用してご機嫌取りかよ
自嘲的な言葉が浮かぶ。未だ軽がると近づけない。ナミの領域に踏み込むには勇気がいる。外からの見返りを求めないラブコールなら、ベラベラベラベラ呆れるほどに出てくるくせにな。情けないと思うが、そういった切なくも愛しい葛藤も恋愛の醍醐味だとようやく知りはじめたサンジに浮かんだのは、幸せな笑みだった。
――ごめんなさい、ナミさん
デッキハウスに背を預けたビビは、そっと掌を開く。握り締めないように軽く、それでいて誰にもこじ開けられないほどの強い想いをたくして抱いていた蜜柑の葉は、ビビの掌の中心で静かに波をうった。あれだけ大事に、傷ませないように誠意を込めて触れた緑を、ビビは一つ頂戴してきてしまったのだ。
緑という色は、人を癒す力があるらしい。緑色をシンボルカラーに持つ剣士の姿がビビの脳裏をよぎって、どうなのかしらとおかしくなってしまう。そうしてからあら、と笑いを収めたビビは首をかしげた。……案外、的を得ているのかもしれない。何だか楽しい発見をしたような気分になったビビは、剣士の緑から航海士の緑へと心を移した。ビビが僅かに手を上下に動かせば、葉も一緒にまるでビビにお辞儀するように揺れた。優しい気持ちになる。不思議な魔力でも持っているようだ。その様子を瞳に焼きつけて、ビビは静かに瞼を閉じた。
サボテン岩の緑が、瞼から掻き消されることは願わない。きっとそれは許されないことだ。ただせめて、禍々しい緑を包み込むように蜜柑の葉が同居してしまうことを、願うことは許されるだろうか。
ふわりと吹いたそよ風に追い立てられて、ビビは目を開ける。視界に気だるそうに水色が舞った。
「ミス・ウェンズデー、その長ったらしい髪をどうにかしたらどうだい」
本名すら知らないパートナー。幾度か言われたそれは、ビビ自身もMr.9が不平を唱えてきた回数以上に、何度も思ったことだった。手入れは面倒なものだったし、戦闘力の高くないビビにとってスパイ活動の妨げになる恐れがあるものは、どんな小さなことでも回避するべきだと心得ていた。だから何度も決意をし、ハサミを入れかけたことだってある。しかしビビは「あらMr.9、色気増幅の利用価値にだってなるのよ」「気に入っているものを自ら手放すことほど、愚かなことはないわ」など、その都度適当な言い逃れをしては、二年間一定以上の長さを保ち続けてしまった。その重みは、今もビビの下に残っている。嘘をつくのって辛い。そう思わせるMr.9とのやりとりは、ビビにとって苦しくも優しい時間の結び目だった。なびく水色の長い髪。王家の象徴。それは一欠けらのビビのわがまま。
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[ 2007/09/23 ]
「ナミさんにも似たようなこと〜」は
サナ連載4話にリンクしています。