夢見心地
「……何?」
薄暗いランプに灯された女部屋にか細い疑問符が浮かび上がったのは、覆い被さる男の顔が思考を漂わせているように見えたからだ。ブラジャーの線に沿ってそっと指先を這わすサンジは、やはり何事か考えているのを隠さずに、「んー」と生返事を返した。
「いつもシンプルな黒が多いなァって。ナミさんオシャレさんなのに、下着には興味ないの?」
それは兼ねてからサンジが気になっていたことだった。夜を共にするようになってまだ日は浅いが、身にまとう衣服を剥いた先に現れるのは、大抵決まって似たデザインのもの。薄い布地を装着している日を狙って事に及べば、期待通りその下にはいつもとは違う色があったが、無駄な装飾のない至って簡易な作りという点では違いがないものだった。
これまでのサンジにとって女性の下着というものは、隠された箇所を暴くときの昂揚感を煽る材料という認識が強いものだった。しかし、相手がナミとなればまた話は別。ナミの秘められた場所を暴く瞬間というものは、昂揚感のみならず幸福感や征服欲、制御するのも困難な、きれいとばかりは言えないあらゆる感情がないまぜになった溜息が零れるひとときであったが、そこに至るまでの過程、視覚でも楽しみたい。自分だけが見ることを許されたナミの姿。そこにどうしようもない喜びを覚える。そして、もっと色々なナミを見てみたい。そういう新鮮な欲求を持つようになってからは、尚更気になって仕方がない日々を送らずにはいられなかった。
「だって安いんだもん。三点セットお徳用」
「……お徳用って……」
しかしてその答えは、サンジの予想のどれにも当て嵌まらない、なんとあっけなく明確なものだった。この場で出てくるような台詞ではない、色気の欠片もないナミの一言に、サンジは苦笑いを浮かべる他ない。
ナミにとってそれは極々自然な、今更口にするまでもない当然の事実だったのだが。ナミの言うことなら大抵のことはポジティブに解釈してしまうサンジの珍しく困ったような反応を見ていると、何故だかナミは自分がよほどおかしなことを口走ってしまったような気がしてきて、微かに頬に熱が集まる。
「な、なによ。悪い?言っとくけどね、下着代だってバカにならないのよ。特にブラなんて、最近こそ落ち着いてきたけど一時期、時期見失った成長期なのか何なのか頻繁にサイズ変わっちゃってしょっちゅう買い換えなくちゃいけなかったし、手頃なサイズは見つかり難いしで、かったるいんだから!見栄えにこだわって高値のものに手をつけるよりは、機能重視で長く安く使えるものを……」
「ちょ、ちょっストップナミさんっ、別に責めてるわけじゃねェって!」
長々と続く言い訳染みた熱弁を遮る。思わぬ方向に節約談義へと話が運び始めた事態にサンジは焦った。そんなサンジの心中に気づかないナミは、拗ねるように頬を膨らませた。
「やな感じの笑み浮かべてたくせに」
「いやぁ、ナミさんのハリのある肌理細やかな美肌には、濃いブラックも映えてそそるんだけどさ、ナミさんなら何着けたってスゲェ似合うのに。もったいないなぁと」
「……私の話聞いてた?」
「……でもま、肝心なのは中身だもんな」
「あっ」
一方的に結論付けたサンジは、ぴつりとホックを外すと、零れた胸の間に顔を埋める。
「おれだけのふくよかな天国に変わりはねェし」
「バカ」
そのまま下着を顎でずらし、つっ、と舌を滑らせれば、鼻から抜ける甘い吐息がサンジの髪を擽る。サンジが触れるごとに、感度を増していく彼女の身体。ナミですら知らないナミを芽生えさせているのが自分だと思うと、窒息しそうな充足感に満たされる。これもまた征服欲の一つかもしれない。そしてまた、幸福感を感じているのはナミも一緒だった。行為が終わった後でも、同室の者が不寝番の今夜は、朝日が昇りはじめる時間帯までは幸せに染まった息を共有できる。それが深い眠りの中だとしても。満たされることに変わりはないものだから。
――そんな冬島に辿り着く数日前の出来事を、ランジェリーショップを前にしたナミは思い出していた。
否定はしていたが、明らかにサンジは不満を抱いていたように思えた。そのことが、ナミの記憶に深くこびりついて離れない。
そもそも下着なんてものは、自分をガードさえ出来ればいいものだというのがナミの認識だった。
好奇の視線にさらされるのは好きではない。場数を踏むことで鼻で一蹴してしまえる程度のものにはなったが、進んで受けたいと思うことからは遥か遠い位置に属しているものだった。下卑た視線の先には、必ず浅はかな欲望が構えている。ナミはそれが想像できないほど幼稚ではなかったし、だからこそ、その手の視線を見下した。どうして自ら浴びたいと望むことが出来ようか。そういった意味で、フランキーの故郷である水の都、ガレーラカンパニー職長のロープ使いの男の反応はとても新鮮だったと懐かしく思う。顔を合わせれば、些細なことでまるでこちらに非があるように顔を赤くしてハレンチハレンチと小言を吐く、失礼極まりないものではあったけれど。
そんなナミがファッションという楽しみを知ったのは、ココヤシ村の解放を得てからだった。贅沢なんて考える気にもなれない毎日。監禁されている故郷の人々のことを思うと、新鮮で穏やかな生活に触れることにだって後ろめたさを感じてしまう。されどナミは、美意識を刺激するものに惹かれる愚かさを持っていた。可愛いものやきれいなものを見れば、自然と意識が傾くし、心が躍る。それは人間の本能にも通ずるもので、何ら恥じる必要などないにもかかわらず、ナミには愚かしいこととしか考えられずに、浅ましい欲望を宝に注ぐことで気持ちに封印をした。
晴れ晴れとした気分で故郷を旅立った、あの日。ローグタウンで今まで遠目でしか見たことがなかった、ゴージャスで華やかな衣装を嬉々として次々に試着し、店員の軽薄な賛美すら酔いしれる要素へと変化するほどの充足感。初めて衝動買いをしたあの日を忘れない。そこには予想以上の楽しさが存在した。ナミはそういった面で、悲しいほどに女だった。
(こういうの好きなのかなぁ……)
店に足を踏み入れたナミの目に最初に飛び込んできたのは、艶やかで大人びた紫色の素材に、存在感を引き出すホワイトレース。深いVゾーンは谷間が強調されるように作られ、小さな小さなショーツは薄く透けている。女のナミが見ても、あまりの際どさに頬を染めたくなる作りだ。サンジはこういう色っぽいものを好みそうに思えた。
(あ、でも)
その昔、貝殻や花といった素朴なプレゼントをしてきたことを思い出す。当時のナミには、サンジが差し出すそれに何の価値も見出せず、歯牙にもかけなかったのだけれど。いま思い返すと、とてつもない大切な落とし物をしてきたのだと後悔する自身が不思議だった。そうやって彼の気持ちを無下に扱ったことは、サンジと出逢ってからの日常の中に無数散らばっているのだろうと考えると、ナミは少し悲しかった。なんてもったいないことをしてきたんだろう。なんてひどいことをしてきたんだろう。でも、だから、見落としてきたそれらを拾い集めることは不可能だから、補えてしまえるくらいの想いを未来に向けるのだと。責めるよりは明日に生かしたい。人間は愚かな生き物だから、また同じ過ちを繰り返すかもしれないけれど、心を配ることは出来るから。ナミは勢いよく顔を上げた。
更に昔に遡れば、アラバスタでサンジが買ってきた踊り子衣装も、大胆なデザインでありながらシックにまとめられたビビの衣装と比べて、ナミのものはフリルを満載に施したピンク基調という、いやに可愛らしさを押し出すものであった。
どことなくサンジは、ナミに女の子らしさを引き立たせるものを身に着けさせたいきらいにある気がする。適切な言い方ではないが、少女趣味的な思考を持っていると思う。あの歳でまだ、女の子は甘いもので出来ているとでも思っているのだろうか。事実それは特にナミに対して、遺憾なく発揮された。
それならば、鮮やかなナミの髪を連想させるギンガムチェックの柄なんてどうだろう。花柄のレースが可愛さを引き立たせている。ちょっと子どもっぽすぎるだろうか。それとも、柔らかな春の日差しのようなピンクでまとめられた落ち着いたデザイン?
一口にブラジャーとショーツといっても、本当に様々な種類があるのだと知る。ところどころに細かく施された刺繍やアクセント、ディテールには職人の深いこだわりを感じる。今までざっと見でしか意識していなかった下着の豊富さに、元々お洒落好きなナミにはしゃぐのを抑えろというほうが無理な話だった。見繕うこと自体が楽しくなったナミは、目に止まると、見合ったサイズでないものにまでも手を伸ばしていく。着用するシミュレーションまでしはじめる始末。
ガードさえ出来ればいいと思っていたもの。だけどそれが、視点を変えることで一転して好きな人を喜ばせる要素となるのだ。それはナミ自身にも途方もない幸福を与えてくれる。そんなこと、考えたこともなかった。意味のない行為だったものが、生活を彩る素晴らしい一部となる。世に生産している人たちは、こうして選ぶ者の気持ちも想定しているのだろうか。今まで意識したことのなかった存在が、唐突に尊いものへと変貌を遂げる瞬間。世の中にはまだまだ未知の世界が広がっているのだ。
「いらっしゃいませ」
「えっ!?」
突然振って沸いた声に、ナミはまるで異界からグランドラインへと引き戻されたかのように、大袈裟に肩を跳ね上げさせた。振り返ると、にこにこと穏やかな笑みを浮かべた店員がナミの隣に並んでいる。
「どのようなものをお求めですか?」
「え、ええっと……」
長い黒髪をアップにまとめている。ナミとそう歳が変わらなさそうな外見をした女性の笑顔は、営業スマイルというよりは、誰が見ても心からの笑顔としか思えないものだった。それもそのはず、ナミの挙動は傍から見れば、想い人を心に描いていると丸判りなものだったのだから。それを知る由もないナミは、他人に今の自分の行為を見咎められたことで、途端に「恋人のために演出をする自分」を自覚していまい、急激に恥ずかしさが襲う。こんなの、らしくなさすぎる。暖房がほどよく効いていた店内。その瞬間にメーターがオーバーヒートしたのではないかとナミは疑った。
店舗を訪れる際の店員とのやりとりは、船旅を主にしているナミにとって新たな人々と触れ合える気晴らしの行為でもあったけれど、このときのナミにはとても会話を満喫する余裕はなかった。
「ナイスワンダフルなスタイルですねぇ!お客様ほどのサイズだと、なかなか良いものが見つからないでしょう?」
「え、ええ、まぁ……」
「まず胸囲を測ったほうがいいかしら」
「あー…………ごっごめんなさい、間に合ってるので!」
羞恥に耐えられなくなったナミは、後を追う店員の声を気に掛けることも出来ず、そそくさと店を飛び出した。
(やだやだやだ。サンジ君のぬっるい脳みそに浸かってるせいで、私まで頭が沸いてるんだわ。バッカみたい!大体、こんっっっなくだらないことに無駄遣いする余裕はないの!節約、節約!)
まるで無駄遣いをする子を叱る母親のように。ナミは歩幅も大きく前進しながら、痴態に手を染めようとしていた自身を必死でたしなめた。そうしなければ、その場にへにゃへにゃと崩れ落ちてしまいそうな気がしたのだ。
(で、でも……)
それを身に着けたら、きっと満面の笑顔で喜んでくれるだろうサンジの顔が脳裏に浮かぶ。たった今後にしたランジェリーショップを振り返る。どうして私がこんな後ろ髪を引かれる思いで、下着店なんて気にしなければいけないのだろう。ナミは八つ当たりとしか言えない理不尽な怒りを、今居ぬサンジに覚えた。
このまま逃避心に押されて帰るのは、勝負に負けたようで悔しい。何に負けを感じているのかはわからないけれど。それでもナミには、引き戻して桃色に色づいた空間に再度身を染めるほどの勇気もなく、ウインドウ越しに目が合った先刻の黒髪の店員に、微笑み返すのが精一杯だった。
ナミがイメージした予想を遥かに上回る、甘ったるい下着上下セットをプレゼントしてきたサンジに、ナミの拳が振り上がったのは、それから数時間後のこと。
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[ 2007/08/05 ]
ワンピ界の女性はみんな巨乳なのでありふれてる気もします。
ナミはバカバカ言いながらも着てあげればいいと思います。
これ以降ちょっとずつバリエーションが増えてサンジ大歓喜。