今も昔もその前も
「あ、竜児」
廊下を曲がり、聞きなれた声音と姿が飛び込んできたのは同時だった。ちょうど実験室から戻ってきたところ。教科書類を抱え持っている大河のほうも、移動授業だったらしい。国立理系進学コースの竜児と、国立文系進学コースの大河。クラスは隣同士である。
「おう」と大河に近づく竜児の関心は一点に注がれていた。いつもはサイドを覆っている豊かな淡い色彩が、いまはちらちらと背後で揺れる。今朝方とは違う髪型。大河は竜児の視線に含まれた疑問に気づいたようで。
「クラスの子にやってもらったんだ」
一つに結われた髪を梳きながら説明する大河の口元には、自然な笑みが浮かんでいる。
大河が竜児たちのもとに戻ってきてから、二ヶ月余り。二人の関係はもとより、あらゆる方面においても順調な日々を竜児と大河は過ごしていた。クラスでの調子もその一つだった。廊下で鉢合わせをしたり、教室の前を通るときなど、クラスメイトと親しげに接している大河の様子を目にする回数も少なくない。手乗りタイガーとして全校生徒を恐怖に震わせた過去があるなど、言われても信じられないほど輪に溶け込んでいるようで、竜児は妙に嬉しい気持ちになる。
「なんか久しぶりに見るな。いつもおろしっぱなしだろ」
「うん。色々試してみたい気もするんだけどさ、結構大変だからね」
「ボリュームすげえもんなあ」
「そうよ。手入れだって手間がかかるし、シャンプーだって気を使うんだから。剛毛な竜児にはわからないでしょうけど」
意味なく偉そうに気取る大河に苦笑しながら、面倒なら切ってみたらどうだと、以前にも似たような会話を交わしたことを思い出す。その際に大河から返ってきたのは、切るとも切らないともつかないような曖昧な返答だった。べつに竜児も切ってほしくて提案したわけではないので、会話はそこで閉じた。むしろ、そんなもったいないことを、という感慨もあった。いつだか大河に罵られたような、ロングヘアマニアでは断じてないが、それでも、大河の動作によって不規則に揺れるなだらかな曲線美も、柔らかに指に絡みついてくる感触も、竜児の密かなお気に入りの一つだった。
もっとも、櫛枝実乃梨や恋ヶ窪ゆりのような短さでも、それはそれでよく似合うだろうし、ショートカットだと大河の元気なところを引き立たせてくれそうで、見てみたい気もする。つまるところ、重要なのは髪の長さではない。
「ちょっと暑いね。なんで閉めちゃってんだろ」
竜児の勝手な妄想をよそに、大河が呟く。そのままの手で窓を開け放すと、わずかに生ぬるい風がかすめていく。暑い日々の到来を予感させる初夏。大河と恋人同士として過ごす、初めての夏が訪れようとしていた。
雲一つない青々とした空が広がる。どこまでも突き抜けていく開放感は、校舎内の空気をも変え、大河は目を細める。さらさらと髪がなびくなかで、ふいに竜児の目を奪うのは、いつもは隠されている形の良い耳たぶ。凛と通った首筋に、しっとりと後れ毛が揺れる。
本当に、ただそれだけのことだったのだけれど。
大河を纏う、一つ一つを意識したとき、竜児の中で一瞬にして廊下に響き渡っていたはずの喧騒が消えた気がした。窓辺に添えた、腕のなめらかさや白さまでもが存在感を帯びて竜児の目に飛び込んできて、思わず目を逸らす。
それは、くつろいでいるときだったり、勉強をしているときだったり、こんな風に公共の場だったり。どんな場合でもお構いなしに突然襲ってくる、扱いにくい感情だった。大河に触れてみたい、そんな欲求が胸を渦巻いて、どうにもならない。こんなことが増えてきて、そのたびに戸惑いにおののく。家族のような付き合いをすることで、底に押し込めることに成功していたのがほんの数ヶ月前のことだなんて、嘘のようだった。
(あー……)
どうか大河に気取られませんように。そんな胸中を表すように、一人気まずく視線を彷徨わせる竜児の耳を、「おーい」と快活な大声がつんざいた。恋人とはいえ、教育の場で邪心を漂わせる竜児を、まるで咎めるようなタイミング。反射的にびくりと肩が跳ねた。声の方へ振り向くと、外からこちらに向かって元気に手を振っている、恋人の親友の姿。
「みのりんだ。みーのりーーん!」
クラスが別れても大河と実乃梨の友情は健在だ。それどころか、共に過ごせる時間が減ったことにより、その分をも埋めるかのごとく仲の良さが増しているんじゃないかと、毎朝一人はぶられる竜児は知られたら死んでしまいそうな不満を少しばかり抱いていたりする。会える時間が大幅に減ったのは俺だって同じなのに、と。
そうは言っても、やはり仲良くしている二人の姿は微笑ましいものがあった。今この瞬間においては、穏やかな午後には似つかわしくない色情も、都合よく流してくれる。
大河は実乃梨に応えるため、ぶんぶんと手を振りまわす。勢いよく跳ねるものだから、シルエットがぴょこぴょこと無造作に揺れる。機敏に動き回る小動物のようで、なんだかおかしい。
「なによ、竜児。にやにやして」
一通りじゃれあい終え、実乃梨が去っていったあと。ようやく竜児を振り向いた大河の第一声は、そんなに自分は顔に出やすいタイプだっただろうかと、自問してしまうものだった。
「……にやにやなんかしてたか?」
「してたわよ。私見て、にぃっと口元釣り上げちゃって。形容するのも憚られる形相だったわ」
「なんつう言い草だよ……俺はただ、可愛いなと思ってたのによ」
「へっ?」
さあっと大河の頬に朱が散る。あ、ほら、かわいい。律儀に思う竜児が、自分の発言の意味を把握したのは数秒遅れてのことだった。
「おう!いや違う!そうじゃなくてっ、こう影が、そうじゃ……」
慌てて言い繕うけれど、こんなときに竜児が発する言葉の羅列がただの言い訳に過ぎないことなんて、大河はたぶん、本人以上にお見通しだった。ああ、みっともない。実際、いったい何が違うというのだろう。
ポニーテール姿が新鮮で良いと思ったのも、大河ならどんな髪型も似合うだろうと想像してみたのも、妙な気分になるほど見惚れてしまったのも、友達とはしゃぎ合う姿に微笑ましさで満たされたのも、紛れもなく事実で。
「ち、違わなくはねえ、かも……」
素直に認めた言葉には、大河が理解している以上の意味が含まれていたけれど。
数分前までは、竜児ひとりが速めていた鼓動。二人分の跳ね上がった心拍数を乗せて、恋人たちの空間だけ温度が上昇した。
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[ 2014/11/08 ]