祈りに似ている
間の悪い人間は存在する。激しい通り雨にあおられ、鳴らしたチャイムの意味もなく自ら豪快に高須家のドアを開け放ち、その途端、変化していく空模様に不満気に眉をしかめる逢坂大河も、その内の一人だった。
「ひゃー!冷たっ!」
「おう、待ってろ!今タオル持ってくっから」
しかしそれらの不運はときに怠惰と絡んでいて、努力や気配り次第で防げることもあるのだ。少なくとも、今回はそうだった。びしょ濡れの大河が証明するのは、竜児が送信した『傘忘れるなよ』という忠告メールが、何の役にも立たなかったという虚しい事実だけだった。
「天気悪いのわかってて念押しまでしたってのに、なんで傘持ってこねえんだよ」
「ちゃんと用意してたもん。ぱらぱら降り始めて準備万端!と右手を掲げてみたらさ、あれおかしいな、てのひらは空虚をつかむだけ……」
「ドジめ……」
パフォーマンスつきで自身の間抜けぶりを再現する大河に、呆れ顔でタオルを差し出す。大河好みのフリル満載な、小花柄ワンピースが台無しだった。玄関口に立つ大河からしたたる水滴は、小さな水たまりを作り、タオルを手渡す際に触れた手は、竜児までぶるりと震えてしまうほどに冷たい。風邪を誘発しそうな冷え込みに、竜児は思案する。いくら雪山から転がり落ちても傷一つですんだ頑丈な身体とはいえ、用心に越したことはない。二人は受験生の身なのだ。そうでなくても、大河が苦しむのは嫌だった。
「あーもーついてないなー」と、あくまでも天候のせいだと言わんばかりにタオルを顔に押し当てる大河を見やり、シャワーでも浴びたほうがいいだろう、と竜児が勧めるより前に、
「お風呂借りようかな」
「おう、入れ入れ。着替えは用意しとくから」
「え?一緒に入んないの?」
「なっ……!い、いい、一緒っておまえなに言って……!」
「ぷっ。焦ってやんの、ばーか。冗談に決まってるじゃん」
するりと脇を通り抜けていくちっこい生き物を狂眼で睨みつけるも、大河に効果などないことは明白。憎たらしくもおかしそうに笑って、浴室へと姿を消した。常に掃除の行き届いた板張りは、あっけなく大河の足跡で汚されてしまう。まったく、来て早々慌ただしい奴だ、とぼやきながらも、染まった頬は隠せない。
ずるい、と思う。
自分の一挙一動に、竜児がどんなふうに律儀に反応するかを知っていて、大河は楽しんでいるのだ。無邪気な好意に、純粋な信頼感を忍ばせた戯れに、何度刺激されたかしれない。それがわかっていてなお、大河を好きな竜児はまんまと術中にはまってしまう。大河の振る舞いの意味するところは、竜児は決して欲望のままにぶつけたりしないと、大河を大切に想う気持ちが伝わっていることの証であり、嬉しい反面、高揚しざわめく胸をどう扱えばいいのか困り果ててしまうのだった。
「っと、そうだ、着替え着替え……」
竜児は頭を切り替えるようにかぶりを振ると、自室へと足を向けた。迷いのない手つきでたんすから引き出した、「3−1 高須」のゼッケンが縫われたジャージは、濃厚な緑色。しわが寄らないように畳まれたそれは、中学卒業を最後に着用する予定はどこにもないにもかかわらず、クリーニング仕立て同然の綺麗さを保ち仕舞われていた。抱え持ちバスルームへ向かうと、断続的に響くシャワーの音が大きくなる。たちのぼる湯気、曇ったガラス窓の向こうが視界に入らないように、竜児は素早く着替えを置くと、そそくさと居間へと戻った。
風呂上がりの大河を目の当たりにするのは、これで三度目になる。二度目は、この先の生涯のなかでも恐らくあれほどの人生の転機はそう訪れないであろう、寒い冬の日だった。今にも立ち竦んでしまいそうな震える心を、傍で支えてくれていた、小さな手。慣れない泰子の実家で、「洗面所占拠するの、遠慮しちゃってさ」と変なところで慎ましさを発揮し、ストーブの前で半乾きの髪を温める様子も、大きめの引きずったパジャマ姿も、ありありと鮮明に思い出せる。
一度目は、秋。ちょうど一年ほど前の、ふわふわと浮遊する雲のように危うい均衡の上でいながら、盲目性を生むほどの親密さでいつも一緒にいた、そんな近いようで遠い、今よりずっと不確かで曖昧な関係だった頃。台風で大荒れのなか、何を考えてかいつもの突飛さで高須家にやって来たのだ。ずぶ濡れの大河を浴室へと押し込めたあと、彼女を覆ったのは、中学生時代の竜児のジャージだった。三年間着古して、一学年もの人数分だけ見慣れきったもののはずなのに、まるで初めて目にするような新鮮さに浸った。大河が纏う雰囲気もなんだかいつもと違って見えて、なのに大河の振る舞いは当然のごとく普段とひとつとして変わらなくて、自分一人だけが妙に意識していたのが、今となっては少し恨めしい。
そういえば、修学旅行もあった。あの時期のことを思い返すと、竜児は今でも苦い気持ちに襲われる。自分自身の傷やエゴイズムばかりに敏感で、前進と逃避を履き違えて、正当性を押し通したいがためだけの言い訳に必死だったあの頃。あと数ヶ月もすれば、あれから一年が経つ。あの頃よりも自分は少しでも変われただろうか。
ひたひたと聞こえてきた足音には、そんなセンチメンタルな回想を吹き飛ばすくらいの威力があった。
「ふー、温まった温まった。ありがとね。懐かしいね、これ」
いくら中学生時代の衣類とはいえ、大河の小さな身体にはあまる。振り向くとそこには、ぶかぶかと形容する以上のふさわしい表現が見当たらない、竜児のジャージに包まれた大河がいた。なるほど、やはり明確に覚えているつもりでも、時間という何より大きな侵略によってぼやける哀愁からは逃れられないのだろうと、記憶以上の深みを持って竜児の目に飛び込んできた大河を認めて感じ入る。しっとりと濡れた結い上げた髪は、耳元を露にしなやかな首元へと続き、鎖骨は引き上げられたファスナーによって隠されていた。合わないサイズを着込んだことにより、小柄な体格が殊更に強調されていた。袖口を掴んで広げてみせながら、はにかむ頬は桃色に上気している。
「……おう。俺のエキスがびっしり孕んだ生き恥ドレスで悪いけどな」
きょとりとした表情も、両手を広げたまま固まった仕草も、かわいい、と思わない奴がいるのならそいつの目も心も節穴だ。そう竜児は力強く思うのに、人は一瞬でここまで変貌できるものなのかと感心してしまうほど、大河の目はすうと冷たく眇められ。
「うわー引くわー、ドン引きのあまり言葉も出なかったね、よくもまあそんなキモエロい発想ができるもんだわ……」
「お、おまえが言ったんだろ!昔!貸してやった俺に向かって!」
「へ、そうだっけ?ていうか、守護ドレスじゃないの?」と邪気のない顔で小首を傾げる大河は、どうやら本当に忘れているらしかった。かくいう竜児も、自分の例えは今の今まで忘れていた。
生き恥ドレスに守護ドレス。また妙な単語が飛び交ったものだったが、言われてみれば確かに、悪態をつく大河のノリに便乗して、そんな馬鹿げたことを言った覚えがあった。人のジャージをまるで汚物のように悲観な捉え方をするので、これはあらゆる外敵から大河を守る素晴らしい機能を持ち合わせている優れものなのだと。自分は気軽に冗談を口走れるような性格ではなかったはずなのに。そう、嫁に行くときにも着てほしいとか何とか……
「……まあ、いいけどよ」
何がいいのか自分でもわからないまま竜児はそっぽを向く。入口の前で突っ立っていたのを、漸く部屋に入ってくる大河。まるっきり合わない丈は、裾の折り曲げもいい加減なため、つま先をちらちら覗かせながらだらしなく引きずっている。ペンギンを連想させる歩き方。
「つうか大河、早く髪乾かせよ。風邪ひくぞ」
「めんどい」
「だーめだって。ほら、ちゃんと拭いてないから垂れてるじゃねえか」
「拭いて」と大河が催促するより早く竜児はタオルを奪っていたので、大河の甘えたがりをたしなめるのは筋違いだ。だがまあ、そこはお約束。
「これくらい自分でやれよな」
「なによ、竜児のケチ。いいでしょ、最近私、面倒見る側なんだし。甘えたい年頃なのよ」
「いくつだよ、おまえ……」
と一応呆れる態度をとってみたものの、大河の言いたいことは竜児にもわかる。大河には今年生まれたばかりの弟がいて、母親の仕事の合間は大河が面倒を見ることになっている。離れ離れのまま過ぎていくかと思われた春に、大河が竜児たちの元へ戻ってこれたのは、その条件を母親が提示したからだった。それは、大河が事故にあったというきっかけ一つあれば飛んできて、父親に見捨てられた娘を強引な手段を用いてでも連れ帰ろうとした母親の、不器用な歩み寄りだったのかもしれないと、竜児は一段落ついたあとで考えたことがあった。とはいえ、約束は約束だ。実際大河はよくやっていて、弟のことはもとより、こと家族の件に関しては愚痴すら零さなかった。あれだけ確執のあった母親のことでさえも。
「あんまり無理するなよな。溜め込むのはよくねえし……なんなら俺を頼ってくれてもいいし」
ある日の帰り道、つむじを見下ろしながら呟く竜児を、大河はちらりと一瞥してから言った。
「言霊ってあるのかな」
「は?」
「んー、そんな霊的な話にいかなくてもさ、ほら、私って今までちょっとばかし気荒すぎたっていうか不平不満の塊だったじゃない?例えば、ほらこれ、この石っころ!でかっ!私の通路に、こんな踏んだら足裏痛そうな石ころが転がってるだけでも、きーっ許せなああぁぁぁいみたいな」と、かつての激情はどこにも見当たらない軽快な動作で、大河に蹴られた石はかつんかつんと音を立てながら、歩道脇へと追いやられていく。
「自覚はあったんだな……」
「そこ!口を挟むんじゃないよ!まあ、だから、あれよ。……受け入れるのは、難しいんだけどね、最初はそうじゃなかった、とか、色々考えちゃうんだけど。でもそうやって考えて思ったの。私が望んだものは何でも壊れちゃうって悲観してたけど、それって私がそういう嫌なオーラを振りまいて呼び寄せてたとこもあったのかなぁって」
大河の横顔はいつも通りに怖いほど整っていて、その光に屈しない美しさに竜児は見惚れてしまう。
「だから今回は、頑張ってみようと思うの。うん。それにこういうのって、竜児との、け、結婚にも繋がってることだもん」
「お、おう……」
「大体そんなに無理してるわけじゃないしね。いつも言ってるけど、ほんと可愛いんだよ!生きてるから思い通りにはいかないし、戸惑うことも多いけどね。でも、可愛い。私の弟だもん」
「……そっか」
「うん。ま、なんか耐えらんないことあったら、そんときは付き合ってもらうから。あんたは私の気の短さ、骨身に染みて知ってるでしょ」
「おう、いつでも付き合うぜ」
「そこは『何言ってるんだおまえの心は寛大で慈愛に満ち溢れている俺の誇らしい恋人だ』ってフォローするところじゃないの?」
「悪いな、生憎俺は嘘がつけないんだ」
「なによ」
むうと膨れる大河からは完璧な美が崩れ去り、かわりに温度のあたたかな身近な愛らしさを携えていて、竜児は我知らず笑みを零した。そうやって絶対に無駄にはしないという決意のもとに大河が日々努力していることを、竜児は知っている。その先に竜児との未来を思い描いている事実が、こそばゆく、たまらなく幸せだった。
「お、俺も頑張るから。勉強とか経済面とかもだし、そういう心持ちも……大河とずっと一緒に暮らしていけるように」
大河にも自分が実感するほどの幸せを与えたかった。しかし、染まりはじめた空色にも負けない夕焼け色で顔をほころばせる大河を傍らに、竜児は自分のほうが胸をくすぐられている気がしてならないのだった。
それでもやはり、日々の現実的な生活という点では寂しさを覚えずにはいられなかった。朝待ち合わせをして学校までの間、他愛のないやりとりを終えたあとは、クラスは別々、放課後は一緒に帰っているものののんびりと二人の時間を楽しむ暇もなく、平日はろくに共に過ごせないのだ。半同居同然だった二年生の頃よりもずっと心は通い合っているはずなのに、時間は反比例するばかりだった。
だから今日、会いたい気持ちを押し殺しつつ『雨が降りそうだが、やめるか?』と後ろ向きな問いかけのメールを送信したあと、間を置かず返ってきた『竜児のご飯食べたい』の文字列に、どれだけ心躍ったかしれない。そういう大河のストレートな感情表現には、二人の関係を築いていく上で随分助けられているようで、竜児は自分ももっと想いの丈を伝えたいと思うのだが、不器用な性格はなかなかうまくいかない。
シャンプーの香りが部屋に充満していた。すっかり竜児に濡れた髪を拭いてもらう気になっている大河は、目を細めてあぐらをかき、一つに括っていた髪をほどく。ならうように竜児も腰を下ろした。屈み込むと、一層さわやかな匂いが強まるようだった。くしゃり、とタオル越しに届く感触。
「はーやーくー」
「ったく。しょうがねえなあ」
甘えられるのは、嬉しかった。結局、呆れ声もため息もポーズでしかないことを、大河は知っているのだろう。
「竜児の『しょうがねえなあ』は、『大河に尽くすことができるなんてこの上ない喜びだ!』の意味なんだから」と以前クラスメイトの女子相手に自信満々に公言していたときには、とうとう頭がおかしくなったのかと訝しんだものだ。国立文系コースである大河は、親友の実乃梨とはクラスが離れてしまった。三年生に進級した今、校内で大河を見かける際はそのクラスメイトと行動を共にしていることが多く、仲の良さを窺わせる。苦笑をもらしながら去っていく彼女のなかで、竜児はどんなにか情けない男になっていることだろう。ここは文句の一つでも言ってやるべきだと口を開きかけるが、
「とても悲しくて遺憾なことだけど、あんたの目は野性のそれよ。事実は事実。フォ、フ、フィアンセだからこそ述べなければいけない真実もあるのよ」
「おまえは俺にとどめを刺したいのか……」
「違うってば!いいから聞け!だからね、あんたって意外と顔に出るっていうか、そういうときはこう、優しげに細まるっていうか……自惚れてるかもしれないけど……あんたがしてくれる色々なことが嬉しいってのはもちろんあるよ。感謝もしてるし、返したいって思う。でもそれだけじゃなくてさ、なんていうか……私はあんたのそういう表情が好きなのよ」
そんなふうに照れくさそうに微笑まれたのでは、何も言い返せるはずがなかった。なにより、大河の指摘に一寸の間違いもないことなど、竜児自身が一番よく理解していた。
「……自惚れじゃ、ねえんじゃねえの」
精一杯の一言だった。
灰色がかった淡い髪をふわりと包み込み、繊細な手つきでタオルを揺らせば、より濃厚になっていく香りが竜児の鼻をくすぐる。指が小ぶりの耳たぶをかすめると、大河がぴくりと反応するが、抵抗は示されなかったのでそのまま続ける。
水気を含んだ輝く質感。じわりと沁み込む心地よい手触り。全身から滲み出る安心感。いつも大河から立ちのぼる、甘やかさとは違う香り。
なぜだか妙に落ち着かなかった。べつに今までだって大河の髪をいじったことくらい、ある。それこそ恋人関係になる前から何度もあった。大河から漂ってくる匂いだって、高須家では日常的に使われている慣れ親しんだシャンプーのそれだ。それなのに、放っているのが大河というだけで、まるで別世界に誘われるような眩暈すら呼び起こすのが不思議でならなかった。
少し視線を落とすと、めまぐるしく様々な色を映し出すまばゆい瞳が、今は閉じられ、気持ちよさそうに大河はされるがままになっている。軽く猫背になった姿勢は、そのなめらかなラインから、意外なほど女性的な大河の体つきを思い起こさせる。身を寄せ、間近で眺めるたびに陶然としてしまうのは、すべらかな肌のきめ細やかさ。すっと通った鼻筋も、緩やかにカーブを描くまつ毛も、息を呑むほどに優雅な輪郭をかたどっている。
一際吸い寄せられるのは、やはりそこ。瑞々しく火照る、薔薇色の唇。いまだ広がる未知の、どこか幻想的ですらある大河の肢体のなかで、生々しさをはらんで竜児に訴えてくる場所。竜児が意思を持って触れられる、花びらのような形の繊細さ、その先にある舌の熱。狂おしいひとときが、竜児の脳裏に蘇る。ふっくらと吸いつく柔らかな弾力も、脳髄を蕩かすような甘さも、もう知っている――
「竜児」
「おう!はい!ああ、なんだ!」
無意識に見つめていた唇が突如竜児の名前を象り、目に見えて動揺してしまい、それがまた羞恥を助長させる。両手が塞がれていなければ、顔を覆ってしまいたいくらいだった。こんなところを二人の共通の友人である川嶋亜美などが見ていたら、「あんたら付き合ってどれくらい経つと思ってるわけ?カマトトぶってんじゃねーようぜー、あーあ亜美ちゃんやってらんない」としらけた視線を寄越してくるに違いない。
「あんた、力入れすぎ。髪傷んじゃうじゃん」
「え、そうだったか……?す、すまん」
「それとね」
「おう?」
「ちゅーしようか」
べつに、キスだって珍しいことじゃない。二人は恋人同士なのだから、ムードだったり、お互いの気持ちを確かめあう行為だったり、不意打ちだったり、幾度となく重ね合わせている。だから、こんなことで動じるのは馬鹿げたことなのだろう。そうだとしても、いつだって大河の一途さに竜児の心は捕らえられ、鼓動は正直に跳ね上がるのだった。
あ、とか、う、とか、言葉にならない声で呻くことしかできない竜児は、自身の情けなさを省みる余裕もない。だが、ぷくく、と喉の奥で笑う大河が、竜児に冷静な判断力を取り戻させた。……からかわれた?
「……っ、おまえ、なぁ……!」
なんだか弄ばれた気分になった竜児は、ますます紅潮して、身体ごとそっぽを向いた。「ごめん、ごめん」と含み笑いで誠意の欠片もない謝罪をされたところで、許してなんかやるもんか。「ねー竜児ー、ごめんってば。竜ちゃん」と背中からのしかかってきたって同じだ。そう胸中で呟くものの、そんな拗ねた感情を保っていられるのもほんの僅かのことで、長続きした試しがないことは竜児が誰より知っていた。
「だって竜児、わかりやすいんだもん」
生まれてこの方、初めて指摘されたといっても過言ではない見解にさらされる。顔真っ赤にしてさ、と告げる大河の顔も、トマトみたいに赤く染まっていた。
竜児は背中に、不安すら覚えるほどの大河の小さな重みを受け止める。両肩にかけられた腕から、線の華奢さが直に伝わる。男物のジャージはだぼだぼと不細工に寄っていて、袖口から覗く手首の頼りなさ。耳元に触れる、大河の吐息。清潔に保管していたジャージには、一年もの歳月は感じ取れず、我ながら完璧な仕上がりだと感嘆してしまう、ソフトな肌触り。
そう、一年が経つのだ。
泰子の職場が浸水の危機にあると電話で知らされたのは、竜児と大河がつかの間の朝食を味わっていたときだった。人手が足りず困っているとなれば、泰子一人を行かせるわけにもいかず、三人で高須家を後にした。屋内で見るよりも遥かに凄惨な状況に唖然としたほど、一歩前進するのにも体力と時間を消費する、かつてない暴風雨だった。
レインコートを着込んでいたとはいえ、嵐のなかを巡回したジャージからは、大河の残り香はほとんど奪い去られていたはずだった。だが、大河がまとった竜児の衣服、その事実だけで十分だったのだ。それはあの夏の日、竜児にだけ見せてくれた水着姿の大河に抱いた、言い知れない罪悪感に属する、恐怖。「大河はそういう対象じゃない」という軽い否定から、「大河をそういう対象にしてはいけない」という意志へと明瞭な変化を遂げたのは、今思えばあの瞬間だったのかもしれない。動いた感情も欲望も、ふとした折に苛まれる違和感も、丸ごとすべて消してしまいたくて、竜児はいつも以上に念入りに洗濯をしたのだった。
「……おまえだって」
言い様に、軽く口付け。大河は少し驚いた表情で、けれどゆるやかに破顔して受け入れてくれる。あのとき背を向けたままに、逃げ続けていたら永遠に届かなかったかもしれないものが、今、触れられる距離にある多幸感。
竜児はもう一度顔を寄せ、更にもう一度大河を抱き寄せ、次は大河から。恐ろしいほど柔らかな感触に酔いしれる。触れる唇から、溢れる気持ちごと大河の内側に流れていけばいいのにと願わずにはいられなかった。優しくすることはいくらだってできた。ただ、それ以上の想いをどうすれば伝えられるのかわからなかった。
「……風邪、ひいちゃうんじゃなかったの?」
何度目かのキスのあと。潤んだ瞳、ささやくような大河の吐息が、竜児の脳をしびれさせる。
「……おう。そうだったな、待ってろ、今ドライヤー準備するから」
それでもなんとか、溺れてしまいそうな心を奮い立たせたというのに、大河は大袈裟に肩を竦めると、はあ、とわざとらしくため息をついて。
「まったく、どこまで鈍感なんだか。どうして『俺が温めてやる』くらいのことが言えないのかしら」
「いや、意味わかんねえしそれ」
つい今しがたまでの夢うつつな雰囲気はどこへやら、一瞬にして緩んだ空気へと変わる。けれど大河の色づいた頬は、確かに存在した甘いひとときを物語っていた。竜児も同じ顔をしているのだろうか。唇が、大河に触れた手が、体が、消えずに熱を持っているようだった。
頬に張りついた髪をどけてやると、大河はくすぐったそうに目を細める。その仕草がじゃれつく猫のようで、昔は野性の獣、獰猛な虎、そういった荒々しいイメージで埋め尽くされていたのになあと、竜児の胸に懐かしみや通り過ぎた過去、戻れない二人の関係、今がある奇跡、慈しみ。いろいろなものが込み上げてきて、結局は微笑んでしまうのだった。
もう一度、待ってろ、と頭をぽんとたたくと、ドライヤーを取りにいくために立ち上がる。今日はたっぷり時間がある。髪を乾かして、そういえば数式でわからないところがあると登校中にぼやいていたことを思い出す。ここは恋人として、頼もしさの見せ所かもしれない。「竜児は理系なんだからできて当然でしょ」と、つんと顎をあげる大河が浮かんだが気にしてはいけない。なんといっても、二人は眩い幸福に包まれた未来への道しるべの一つ、受験生なのだ。そのあとは、頑張っている大河に愛情満点の、とびきり美味いチャーハンを。二人で食べるのだ。
――――――――――――
[ 2010/08/13 ]