プールには奴の体だけが浮かんでいた。
 
 ただでさえ暑苦しい髪型なのにふやけられてはかなわない。俺は少しだけ考えて、やっぱりざぶざぶと塩素まみれになることを決意した。着衣したままの水中歩行はなんとも素敵な気分だ。ゲロゲロ。
 制服のままの古泉もずぶ濡れだったので、俺はとりあえずの行動優先順序を考える。シャワーだな。だって暑いもん。
 
 幻怪にほだされた世界のみんなは、動かない古泉の話を聞いてわいのわいのと騒いでいる。
 だがどれだけ深刻ぶられても、俺にはどうしてもそんなに騒ぐことには思えないのだった。寝かせた保健室ものどかなもんだ。どうせチャイムか何かが目覚ましになるんではないの、気安さにしか考えが及ばない。
 
 献花――おいおいあんまり笑えないな、と思ったらハルヒだった。
「何してるんだよ」
 俺の質問には答えない。そこらのぺんぺん草やオオイヌノフグリをかき集めてきたようで、枕元に散りばめられたそれらは滑稽だ。古泉の持ち腐れた長い睫毛は伏せられたままで、けれどもそんな、マジになることじゃないだろう?
「――あんたには見えないのね……」
 ああそうさ、俺は超常的なものなんて生まれてこの方見たことがない。シュールリアリズマーと違ってな。
 
 
 星霜はたつりと惜しまれるかのように流れ落ちたが、この部屋は取り残されたままだった。
 毎日のように様子を見に来ていた俺だって飽きが来たし、きっとみんなはもう忘れている。なあ、もういいだろう? 人間前に進まなくちゃいけないんだ。整合性とか条理は二の次なんだ。お前だってわかってる、はずだろ。
 
 それでもハルヒは動かない、元々備品だったかのようだ。ここには二人しかいない。そんなはずは無いのに、俺の焦燥はごまかせなくなってきた。ハルヒと古泉はふたりきり、だ。
「夏が終わっちまうぞ、」
 目線は外れない。
 別に、俺はハルヒに対してふしだらな想いを抱いていたわけでもなければ、そういう希望すらなかった、ないのだが、これはダメだ。いらつく。どうせ狸寝入りだっつうのに。俺にするみたいにぶったたいてみろよ、神様に頭叩かれたって感動して起きるから。
 
 ハルヒは無感動に涙を流したまま、古泉の手を取る。
(かわいいな)
 同時に俺は恐ろしい疎外感に見舞われた。そう、はっきり言って俺には揺らがない自信があった。どうあがいても古泉はハルヒを攫うことなどできはしないし、逆も俺もまた然りだったのに。当たり前だった天板はこんなにも脆かった。俺は遅すぎたのか? いや、そもそもあの日、あいつを助けなければよかったのか?
 
 いっそ罵られれば気が楽なのに、ハルヒの唇は何も紡がず、ゆっくりと顔を落としていく。古泉のそれはとっくに青紫で、さぞ味の悪いことだろうと見目にもわかるのに。
 
(あ)
 
 だめだ。
 境界線を踏み越えて、気がついたときには俺はもう、ハルヒを引き寄せていた。しかし、それは割れ物だった。
 確かに掻き抱いたと思ったのに、がしゃんがしゃんと母親に怒られそうな音を立てて割れてしまった。やっぱり俺は遅かった。当たれるのは目の前の亡霊だけだ。
(溺れ死んじまえ)
 花にうずもれた古泉の死に方はそれがふさわしい。お天道様は気まぐれに俺の願いを聞き入れてくれたらしく、すぐに部屋は色とりどりの知らない花でいっぱいになっていった。降り注ぐ七色をいいものとは思ってやらない。それが嫌なら起きろ、今すぐに。
 
 
(おめでとうございます……)
 俺ははっとした。
「違う!」
 急いで掻き分けたところで、頭がどこにあるのか分からない。どこへ行った。
(いえ、本心です。そうでないと言い張るのなら気づいていないだけの話、あなたらしい話、です)
「違う、本当に、俺は……」
 そういうつもりじゃない、ただ、お前が起きてくれれば、それでよかったんだ。
(それはなるほど一時の欺きには使えるかもしれません、ですが、)
 
 最後に少しだけ、指先がかすめたのは手の平だった。
「選ぶのがいつかの未来になるだけで、苦しいのはあなただ。まさか僕がこれを喜ばないとでも?」
 
 
 そして握れなかった右手は永遠に淀みの中に、俺はまだここに、いた。(BAD DREAMS)