目を覚まして飛び込んでくるものが見知らぬ景色でも俺はもう驚きはしない。人間はわりとたくましい。
「また何を思いつかれたんでしょう」
 
 今回は誰もいない遊園地と思しき場所で、涼宮ハルヒはナーバス全開だった。なぜだろう、と俺は古泉一樹らしく考えてみる。そういえばなんでだろう、俺がいてあの男がいないというのは。間違っちゃったんだったりして。どんまい?

「古泉くん、初恋の相手とかって覚えてる?」
 不躾なのはいつものことだとして、涼宮ハルヒにしては世間の枠にはまった質問をされた。俺は大抵の無茶振りになら否応なしに培った機知で立ち向かえると自負しているが、女子高生の昼下がり(昼休み、でないと急にピンク映画の香り)の話題は管轄外だ。
 
「安心して、浮ついた話をしたいんじゃないのよ。例えばその場の勢いで不覚にも心拍数が上がったのを恋なんて甘ったれた幻想と勘違いしたときのことでいいわ、その時の相手の名前を思い出せる?」
 そして涼宮ハルヒは建前を忘れない。でも、それは多分小学校高学年から中学くらいの男子が女子にそっけない態度をとるのと同義で、ただの興味の裏返しだ。いつかあんたも例外じゃなく、人が好きだと気づく。わかるよ。俺はあいつが嫌いじゃないから。
 
「曖昧ですねえ。幼い頃のことだと思いますし」
 平気な顔でうそぶいてみせる。涼宮ハルヒは古泉一樹の恋愛事情に反応するだろうか。いや、彼女は古泉一樹のなににも興味がない。あっては困る。へらへらと笑うことしかできない木偶に寄り道するような女なら、誰かも愛想をつかしてしまう。
「そうよね」
 彼女の向こう側には観覧車があった。バブル期に取り残されたみたいな配色の。
「そういうものよね」
 
 沈黙。
 
「――だから、あなたはこうも色々と面白いことをなさるんですか?」
 己の役割のためだけに、古泉一樹はまったく取りこぼしのない笑顔で聞いた。最低の男だ。
「……わからない、」
 涼宮ハルヒは常にアナーキーであろうとし、もがく。周りもそれに準じるし、彼女にたてつく人間はいない。けれどその粗製のメッキを必要としないとき、彼女は驚くほど暗いものをむきだしにする。
「でもね、古泉くん」
 
「忘れないことなんてないのよ、きっと。あたしは今これだけムキになってるけど、いつかそんなこともなかったことにしてしまったら……古泉くん、古泉くんもそうよ、あたしのことなんて名前も思い出せなくなる日が来るわ」
 
 それはないよ、と、口に出かかったものを唾と一緒に飲み込んだ。それはないよ。確証もないけど、あの日あんたが俺の中のどのへんに降ってきたのかと考えたら、涼宮ハルヒというものはもはや俺のどこかと溶け合ってしまった病気のようにすら思えるから。そもそも忘れてしまいたいと腐っていたときもあったのに、これから叶うとも思えない。
 今は……どうなんだろう。普通? 便利な言葉だ。
 
「今だけ夢中になって、もうこれしかない! なーんて思い込んで、それって本当に後生なかったことにならないのかしら、ねえ、どう思う。大人なこと振りかざすやつなんて大嫌いだけど、あたし達ってば内弁慶よ」
 おしゃべりな涼宮ハルヒ。あんたは、古泉一樹がなんでもない答えしかできないのだと知ってそういうことを聞くのかな。まあそんなことはないんだろうけど、なんだか喉がひりついて。嫌なことを言ってしまいそうだ。

「でも、あたしのしてること、あたしが否定するようになっちゃったら、今のあたしはどこへ行くの?子供だったからなんて言い訳でしょう。なくしたって認めたくないから、みんなそういう風にごまかすんだわ」

 そう、涼宮ハルヒの願いはミドルティーンの呟きみたいなもので、かつ誰しもが一度は想うようなことばかりだ。だから人は強く咎めることをしない。できないんだ。それっていうのは、多分本当は残念なことなんだけど、誰もかれも見ないふりをする。そういうわけで涼宮からしてみれば、初めて自分の外側から歩いてきてくれたあいつはあながち王子様でも間違いないのかもしれない。ここにいるのが俺で申し訳ないと思う。とかって、単純な自責の念はあるのに、
 
「僕は忘れませんよ」
 己の口はひねくれている。
「転校してきてからこっち、色々と貴重な経験をさせていただきましたからね。あなたのおかげです」
 これは嘘じゃないけど、こんなものは遠まきからの返事にしかならない。涼宮はこの類の助けにならないただの言葉を言われたときによく、今みたいなどん詰まった顔になる。その後すぐに相手に悟られぬよう、傷つけないような色に戻る。無意識下の優しさだ。
 
「……古泉くんはさすがだわ。またあたしが情けないこと言ったら、尻でもどこでも一発火ィつけてやって。ドカーンと」
 爆音?
「承知しました」
 次に苦笑。涼宮もようやくほんのりと笑う。それは俺のあちこちを痛くさせるもので、そろそろ慣れてしまいたいと思っている。
「今度の連休は遊園地もいいわね」
 景色が目に入ったのか涼宮は言う。それはいいですね。中間が近いですが、彼には家庭教師が付けば大丈夫でしょう。どうせなら妹さんも誘って騒ぎましょうか。楽しみです。
「みくるちゃんは絶対フリーフォールに乗せなくちゃね! 瞬間最大萌え風速うけあいよ。有希は……どうなのかしら。行ったことなかったりして……園内の飲食物はぼっただから慎重にって言っとかないと。キョンのバカはこの間も遅刻したし、ここらで我が団の活動意義を思い出してもらう必要がありそうね。荷物持ち兼場所取りの権限を与えてやるわ! ――ありがと、なんか元気出てきたかも」
 ふふ、やはりあなたはそうでなくてはね。こちらこそ、どういたしましてと言わせていただいても?
 
 
 だめ。涼宮は折り合いをつけたのだ。本当に欲しいものをくれる相手はここにいないから。
 ごめん。謝るのもおかしいか。でもごめん。こんな自分でごめん。
 
 未だに、あんたこそ、と思っている。あんたこそ、古泉一樹なんてやつのことは忘れてしまうでしょう。言葉も届かない少し不思議なだけの空洞で、暇つぶしにはなるかもしれないけれどほとんど蜃気楼。かといって俺が与えることは適わない。どうにもできないよ。
 なのに俺はまた、まだ考えている。
 古泉一樹が本当はどういうやつだとか、そういうことだとか言えば、古泉一樹はコンマ数秒であっても涼宮ハルヒの記憶の中心にいられるのだ。
 そうしたら。取り返しがつかなくなっても覚えてはくれんのかな? それって幸せ?
 どうなの。
 
「古泉くん?」
 
 
 
「はい」
 ――なんてことは考えない。大丈夫。俺は大丈夫な人だから、そういうことは考えない。
 
「予定も立ったことだし、こんな辛気臭いとこは三行半でおさらばよ。しっかりついてきて、副団長!」
 涼宮は片目をつぶってみせると、踵を返して走り出す。ああいいなと思う。
 俺が首を横に振るかもだなんてのはまるで考慮してくれない、新しいどこかだけ見るその姿。信頼だなんて鼻高々に言えないが、あんたの気持ちが古泉一樹という偽者に向けられたものでも嫌じゃない。
「全力を尽くします、団長殿」
 よそ見をしたら置いていかれそうだ。
 不確かな地面を、蹴る。
 
(これだけは頼んでおきたいんだけど、全部嘘になる日がきたらその時は迷わず突き落として。気色悪いんだと言ってやって。そうしてなんにも無かったことにして、どうか笑って生きてください)