「そうねぇ、さすがにちょっと媚びすぎ感もあるわよねえ」
朝比奈が「ピ、ピンクですかあ」と消え入りそうになりながらも涼宮に申し立てたのは、色が気に入らなかったわけではなく、そもそも恒常的に眼鏡をかけるというのはどうなのか、という意味だったのだが、通じた前例が無い。
週課と化した町内市内探索は、それでも朝比奈にとって苦痛ではない。名目上は文化の吸収と言えるし、そんな逃げ道によろしくを言わなくとも、この環境はきっと心地いい。そう思っているのが自分だけではないことが何より嬉しいと、受難とも置き換えられる時間の中でえさえ朝比奈は思っていたし、そこに嘘は無い。しかし人は道理機関で動くものではなく、いわゆる通俗的な(それも一部を対象とした)格好をさせられることに抵抗が無くなるのは、未だ遠い幻日だ。
「うーん……やっぱり前みたいにノンフレームがいいかしら、でももっと記号的ってかんじがあったほうがいいわよね」
涼宮は人工代表のような色のそれを戻すと、物色を再開する。
朝比奈は今日、初めて伊達眼鏡店というものの存在を知った。午前いっぱいの探索と昼食(代金はいつもの彼であり申し訳ない気持ちになる)の後自由時間を宣言した涼宮に、朝比奈は例によって引きずられる形で衣装漁りの旅に出かけた(させられた)。
北口駅から国道沿いの厄神駅方面、多少入り組んだ場所にある店は小さいながらも、壮齢の店長と合わせて落ち着いたものだった。今度はどうとっても朝比奈には合わない(あの彼もとい朝比奈に好意的な男子ならば誰でも、朝比奈さんには何でも似合います! と言うし、事実朝比奈自身が思うほど似合わないものなどないのだが)くどめのセルフレーム達にべったりな涼宮を見やってから、朝比奈は視線を横に滑らせる。
長門有希は、和風の内装に馴染んでいるクラシックケースのガラスをぼうと見ていた。これは時間のせいに過ぎないのだが、日陰になっているそこと有希の立っている場所への日差しのひどくかみ合わない境界は、なぜだかとてもふさわしいものだと朝比奈には思えた。
「有希、手にとって見ても大丈夫なのよ」
すっと通る声、涼宮は澄んで言う。有希の二つの零れそうな瞳が、涼宮とゆっくり会う。ふ、と誰かが息を吐くような間が流れ、有希は無言で向き直るときい、と床を鳴らした。そうしてひまわりの光のような世界から有希は踏み出し、日の当たらない場所へたどり着く。有希の目の光が遮られ、朝比奈はもったいないなと思った。そうしてすぐ、自分はあまり有希と目を合わせていないのだと気づき、気恥ずかしくなる。
長門有希は人間にかたどられている。言葉にしているわけではなく、心の認識だ。
それはまったくその通りだと思う。それ以前がなんであれ、それは有希を決める要素になりはしない。少なくとも周りにとっては、そうだ。大抵の人間は自分が経験したものに則って、他人ないし他の生命無機物現象を位置付けるものだ。今だって、有希はあたらしいものへの興味をまかせている。決して主張しない、うつくしい前へのそれは、朝比奈にとっては古めかしい言い方でもあるが、心と呼ぶには充分たるものだと思えた。
それでも朝比奈が有希にさらりと向き合えることは、少ない。到底誰にも理解してもらえないような抽象に言いかえてしまえば、朝比奈にとって有希はしばしば、少女の形をとっていなかった。芝生の上の金魚だったり、光のきざはしだったり、深淵をのぞきこむ朝比奈を、じいと見返す何かだったりだ。
表情がうかがい知れないといった皮一枚の話ではない。どんなに線をつなげても有希の本来の力は強大で、自分達にとって畏怖の対象なのだ。末端という同言ひとつ用いても、自分と有希とではその意味が違う。宇宙人や超能力者や一般人(ある意味そうとは言えないのかもしれないが)が、降り積もる問題を払い落とすたび、埋もれてゆく朝比奈は空虚になる。果たして自分はここにいるべきだという証明ができようか? ――べきでないという証明もできないのだから、と、朝比奈の楽観的な一部が慰める。人見知りの気があるのも、よくないと自覚している。辛いはずの環境は朝比奈に優しいのだ。
涼宮は、当然だが有希をすわりの悪いひがめで見たりはしない。有希はきっと無遠慮な踏み込みを嫌うが、涼宮はその境界をよく理解し、人に必要以上の干渉をしない。初対面から少し踏み込むとプライベートを薄く共有し、それを友達という枠にしまってよしとする、そういう人づきあいのプロセスを涼宮は備えていない。歯に衣着せずなふるまいは無神経ともとられがちだが、その実は逆だろう。
この買い物一つとっても、きっと朝比奈と有希だけではいい場になっていない。朝比奈から見て有希が"している ”と明確に分かる行動は、せいぜいが読書をするか、涼宮関連の問題で動いているか、健康的に食べているかで、どこからどこまでが朝比奈が介入しても邪魔にならない間なのかが読み取れないからだ。
対して涼宮は、するりとその間をぬってどこかへ行ってしまいそうな有希を連れ戻す。
有希はきっと、それを不快などとは思っていない。
なんとなしに朝比奈は、姉妹のようだと思う。暗黙の距離、姉は妹の前でそっと伸びた草を分ける。
かちゃり、と有希は度の無い眼鏡を手に取る。以前有希がしていたような質素な作りのものだ。
はた、とそこで有希が朝比奈を見た。今まで有希を見ていたことを忘れていた朝比奈は、後ろ暗いことなど本当は無いのにぎくりとしてしまう。有希がこちらを見たのは数秒で、ゆっくりと深い深い場所にある視線は逸れてゆく。一度きりのそれだったが、朝比奈はどうしてか有希に呼ばれたような気がして、日陰にふらりと近づいた。
有希の隣に立つ。当たり前だが、何が起きるわけでもない。初めの頃近くに来ただけで汗を握っていたことを考えれば上々の気もするが、落ち着かないのはよろしくない。
有希がとったところとは違う段から適当なものを手に取る。ビロードの空白が生まれる。考えもなしに選んでしまったので感想が浮かばない。黒縁だ。三文字。
自分から話を切り出したい、と朝比奈は思う。元より朝比奈以上にイニシアチブを握ろうとしない有希が相手なのだ。しかしそもそも、有希も自分と交流したいのではないか、という疑念がただの自意識過剰であったなら、有希にとってはまったくの迷惑となってしまう。口だけを動かしはじめの一文字を探すが、湧いては落ちるように見つからない。時間だけが待ってくれない。ちらりと有希を見てもいつもの憮然だ。
けれどきっとその聡明な横顔は、きっと朝比奈の右往左往なんてとっくにお見通しで、なんでもないことのように佇むだけなのだ。
そこまで考えて、朝比奈はいやに悲しくなった。どう押しても動かない今を謝りたかった。無論、直截的なごめんなさいなんてものは的外れで、有希が欲しいものではないことぐらいは分かっていたのだが、このままぬくぬくと甘えるよりは、もっときちんとした気持ちを告げたほうが幾分もましだと思えた。
探り当てた声は上ずったもので、不安な心情をだだ漏らしにすることうけあいだったが、気持ちだけを羽にして、朝比奈は口を開いた。
「あの、」
その瞬間、昔に置いてきたような、ひやりとした感覚が朝比奈に走る。
いつの間にかきつくモダンを握っていた朝比奈の手に、有希の体温を感じさせないそれが重なっていた。
元々事態の予測能力に長けているとはいえない朝比奈だが、これは本当にいきなりだったものだから、一周回ってぱちりと瞬きをするに留まってしまった。有希を見やったところで、この膠着状態は解けそうに無い。
壁時計の振り子が一と半分を往復してから、朝比奈は力を込めていたのがいけないのだと分かり、すうと手の力を抜くと、有希はゆっくりと朝比奈の両手から眼鏡を抜き取った。額面どおりぽかん、としている朝比奈のこめかみに、有希の手のひらと同じような無機物が触れる。
「眼鏡は」
有希が口を開いた。そういえば今日有希の声を聞いたのは何度目だろう? 短い言葉で切ってしまうせいで耳からすりぬけていき、おかげでいつも有希の声は懐かしくて、遠くから聞こえるもののようだ。朝比奈はそんなことを思いながら、かけられた眼鏡のガラス越しに有希を見る。
「かけるもの」
「わっみくるちゃん! なるほど……似合ってるわ! 濫造され気味の型からちょっとレトロダサにずらすことでピンポイントではめるってわけね! ナイス!」
数分前の朝比奈の意見は範疇にないといった風体で暖色系のフレームばかりくわえてきた涼宮は、有希と黒縁眼鏡をかけた朝比奈に気づくと顔を輝かせて言った。うららかな雰囲気のせいで、さらにふんわりとしてきた朝比奈の頭は、なんだかここにいてもいいような気がしてしまって、許しを請うように有希を見たのだが、有希はいつもの通りすっとして朝比奈を見ていた。
「そ」
「そうでしゅね」
噛んだ。