「こういうときに感傷に浸るってのも負けた気がするのよ。よく感動映画とかうたっちゃってるやつの手法に似てるわ。そう反応するのがさも正しいことだって刷り込んでるわけじゃない。それ以外は淘汰されるなんて嫌な話」
 
いや、商売でやってるやつらは単に広告の必要があるだけで、そんな精神論までは考えちゃくれないだろうさ。
窓の外をぞんざいに見やりながら呟くハルヒに、俺は義務感を感じながら合いの手を入れる。
 
某月某日、雨。思い出はいつの日も雨。ジャスラックとジャロの違いはなんだったろうか?
 
「だからね、しけったりしないって誓ったの。梅雨も台風もどんとこいよ」
そうかい、そりゃ頼もしいね。割りにこの間は随分なメランコリをかましてくれたようだがな。無意識にケチをつけるのは俺のお里が知れるか。適当なことを考えながら、俺は玉将を指でもてあそぶ。王将の相手は、早退したのか欠席なのかは知らないが今日はいない。季節の変わり目はなんとやらと言うが、どうも風邪が流行っているのは本当らしく、俺とハルヒのほうでもちらほらと主を失った机がある。バイトは今までは忙しかったのだというし、あいつだって体調が思わしくないことぐらいはあるだろう。それでも想像力が貧困な俺の脳裏に浮かぶのは、せいぜいがぺら薄い笑顔でみかんのスジをゆっくり剥いでいる様子ぐらいだ。もったいないことしやがって、この野郎。
妄想に業を煮やす哀れな俺をはた目に、ハルヒが告げる。
 
「ま、強く降ってきたら大変だし、今日は早めに解散!古泉くんも具合悪いみたいだけど、みんな自己管理はきっちりするようにね!風邪だってひき始めになんとかしなきゃ、どうなるかわからないんだから」
いきなりよろしく保健教員みたいなことを言い出したハルヒは、なるほどテンションが右肩だ。無理に上げているのか、天来のものなのかと問われれば、迷わず後者だが。
その後の俺達はいつもの流れ作業だったが、ついぞ使われなかった将棋盤を片しながら、俺は自分の携帯の着信に気がついた。三時五分。ホームルーム中。
古泉一樹。
 
 
はぁ?と相槌を打ったところで始まらない。とりあえず下に目を滑らせる。時間は……八秒。相手を呼び出そうとするならば、どうにも短気が過ぎる長さだ。かといって、あいつにしつこく呼び出される理由は……あるときはあるのかもしれないが、今は平時だと思う。僕らメル友〜なんて気さくな間柄でもないし、候補の一番上には電話帳からの選択間違いを据えるべきだろうか。
奥歯のとっかかりを覚えたまま、それを一応顔には出さないように心がけ(後から思えばこんな気後れをする必要があっただろうか?)、俺は前方のなんやかんやで仲の良い三人娘を眺めながら、たまには落ち着いた帰りもいいもんだ、なあんてそれなりにはいい気分で帰路に着いた、
のだが。
 
 
ハルヒとも別れ、いよいよ楽な道を残すだけとなった所だというのに、特にこだわりのない着信音と共に、2度目のそれは来襲したのだった。俺が名前を目に留めた瞬間、切れた。六秒。
果たしてこれは反応すべきなのか?世界がどうのがらみだったら、悲しくも無視はできないが、それなら部活中にかかってくるだろう。ただ暇なだけか?俺にちょっかいかける元気があるならそもそも学校に来いと言いたい。
その可能性も無いとするなら――あまり、できれば、願わくば考えたくないが、のっぴきならない体調なのかもしれない。だが、それなら優先順位が違うだろう。ワンだか何切りだかして遊んでいる場合じゃないぞ。三つのボタンをプッシュすればいいだけだ。
 
どうしたものか。液晶に水滴がつく、うっとうしい。折り畳みはたまに襟足食うよな。痛いよな。はらはらと振る晩夏の霧雨は、確かに、憂鬱さを誘発させるものではある。俺も固定観念に飲み込まれているんだろうか。
 
冷えていくコンクリと一緒よりは、どこでもましだろうな。熟考してもしょうがないので、俺は自分の中の色々なものを押しつぶして、あたたかい家への航路を変更した。
 
 
 
とはいえ、だ。現実問題として、一度二度紹介された程度の知人の家の場所を正確に把握できる人間は、果たしてどのくらいの比率でいるのだろうか?
駅前まですごすご戻り、ちらちらと建物を見繕う俺は、一般のみなさんには随分不審なものと映ったであろう!これで留守だったら鍵穴壊してやる。あ、まずオートロックだったか。飽食の申し子め。
 
幸い、人混みが薄れない程度の近距離に、それらしき鉄筋を思い出すことができた。
十一階建てで、最上階からの展望も床暖も外観もぺらぺらぺらと言っていた。こればかりは奴の長い話に感謝だ。
植樹された景観はどうも人工の臭いが拭えないが、何事も前向きなもののほうがとりあえずは嬉しい。整った駐輪場を左手に、俺は雰囲気的に恐ろしく似合わない、小奇麗マンションの開かない入り口に立つ。ここがまた難関で、部屋番を思い出すのに数分、押し間違いはないかと緊張するのに数分、人生を無駄にした。
インターホンから数秒の空白。反応が無いとして、部屋で倒れていたらどうするべきだろう――そこまで面倒は見たくないぞ。
 
 
「はい」
杞憂だった。というより、
「元気じゃねえか」
聞こえてきた機械にあえられた肉声は、どう聞いても健常のそれだった。
「ああ、あなたですか」
「元気じゃねえか」
二回言ってやった。もう帰ろうかな。
「はあ、まあ」
「かけてきたのはいたずらか?」
「ええと、そうですね、」
それが肯定のイントネーションではなく、次の言葉を探している様子だったので、思い切りいい笑顔(見えなくても伝わるこの嫌イマジン)でコケにされるかと思った俺はおや、と思った。よくよく落ち着いて聞くと、どうも言葉の区切れが悪いというか、テンポが遅い。いつもなら切り返すかなにかするところだ。
「とりあえず、ロックを解除します」
部屋まで来いってか。まてまてまて、腹も減ってきたんだよ。
というか、こいつと二人きりの場所というのは妙な緊張が走る。なんでだ。いや、いくら怪しい仕草でもほんとにその、アレってことはないだろうよ。ないない。……うん、ないない。何事も前向きなもののほうが――嬉しくねえんだよ!さっき考えたばかりの自分の方針をピッチャー返し。時代は流れうつろうのだ。
「エレベーター前と、部屋の分も解除しました、」
お前はちょっと落ち着きなさい!ていうか何だこのセキュリティ、こんな地域で需要あるのか?テキサスじゃねえんだぞ。
「場所は、まあ、思い出してください、六階です」
「おいこら、なんでもないなら帰」
ぷつりとした電子音に遮られ、俺は後ろ向きな意味で破顔した。
しかし、どうしてくれようかと思う間もなく、目の前のガラスの引き戸が俺を手招く。
 
結局、いよいよもって強くなってきた雨足を睨みながらも、俺は育ちが違う廊下を踏み荒らし、話の聞けない子の部屋の前までえっちらおっちらやってきてしまったのだった。
まさかカードキーではあるまいな、と訝ったが、さすがに一般的な鍵穴で、程度の低い安心感が沸く。
ノブを捻っても人のいる雰囲気が身に染みなかった。それはただの俺の想像で、多分雨のせいでもある。
住んでいる人間に適当な、うさんくさい音と共に、扉を開ける。
 
 
 
 
どうしたものか。
「おい」
玄関に踏み入れもしないうちに、俺は予想外の杯に満たされた。当然だ。
茶の一つでも持ちながらのっそりと登場してくるのかと思った部屋の主は、冷たさを感じない床に、堂々とした面構えでうつ伏せだった。なんだこれ。どっきり?
 
「ああ、」
どこを見ていたのかいまいち漠然としている古泉は、顔だけを上げると、「どうも、」と言った。なんだこれ。
前情報が無ければ、まず人として慌てるところなのだが、どうにもだるい空気が充満している。
 
 
「お前、大丈夫か、それ」
無論、色々な意味だ。
「はは、」
ひゅうと古泉が息を吸い込む。こっちに頭が置いてあるせいで気が気ではない。見下ろす顔が青白いのはどうも本当のようで、俺は眉をしかめる。
「ご心配なく」
腹から性格のいいやつが言えば謙遜だが、この食い合わせでそれはわざとやっているとしか思えない。
横の壁には、俺以下庶民からすれば贅沢な操作パネルが取り付けられている。来るまではギリギリ大丈夫だったのか?
ゆらりと空気を裂き、ざあざあとした音の背中に押され、古泉がようやっと起き上がる。
 
「もったいなかったんですが……どうしましょうね」
「分かるように喋れんなら寝とけ」
「これは、また、なるほど」
「……ホントにやばくないか。病院行けよ」
このすがすがしい泰然さからして大したことは無いのかもしれないが、呼吸が変だ。回数が多い。
 
「雨だと、」
どうも、口を回すのが億劫らしい。だからと言ってこっちを見られても、どういう類の期待なもんだか、テレパシーなら普通エスパーの十八番なもんだがな、なわけで、俺は返事を紡げない。
 
「めんどくさくないですかね、なんか」
何を言い出すんだこいつは。社会に出て同じ状況下に入ったら泣くぞ。ハルヒの復唱になってしまうが、周りのためにも不調はさっさと治してしまうのが利口だ。最も、俺はガキの頃からあまりそういう教訓めいた気持ちにはなってはいないが、ありがたいことに。
 
「ふざけてるだけなら帰るぞ」
「はい、どうぞ、」
醤油とってくれない?いいよ程度の気軽さで、推定病人が牽制してくる。
「……」
「ああ、実はもう、車を呼んだんですよ、さっき」
「……」
「ですから、どうぞ、また明日」
「……」
「おぶっていってくださるとでも言うなら、僕は、楽ですが」
「元気そうだな」
「元気ですよ」
「一つ聞きたいんだが、俺が来る必要性はどこか一分だけでもあったのか?」
「はあ、そのへんは、あれですね」
駄目だろうこれは。制服は着込んでいるから、学校にはいたのだろうが、常のかっちりしたネクタイは取り繕えていないし、誰に言われず模範的なシャツの第一ボタンも開けている。
 
「駅の向こう側すぐにあるんですが、行ったことあります?」
医院も病院も気軽によろしくしたい場所ではない。答える変わりに一瞥する。俺の返しには反応せずに、古泉は棚からすさんだ緑の傘を取り出し、こつこつと踵を鳴らす。体裁は保ちきるつもりらしいので、俺は退いてやる。のんべんだらりと立ち上がった古泉は、音だけならば苦しそうだが、真偽や加減は分からない。
 
 
エントランスを抜けると、既視感のある光沢のタクシーが道路脇に止まっていた。一見して、いや、どの角度から見ても運転手にしか見えないその人が、俺に気がつき会釈をくれる。それを小生意気な調子で返す間に、後ろを歩いていた古泉はさくさくと後部座席に鎮座していた。なんだろうこの敗北感。振りだけ投げられてオチが無い。壇上に一人で残された気分を思い浮かべると、どこからそんな俺のかわいそうさを嗅ぎ取ってくれたのか、運転席の新川さんはこちらに手を差し伸べていた。どうぞ、という様子だ。大人の優しさに触れた俺は、機会もない家族以外の車の感触に甘えることにした。ここを正面に駅の向こうとなれば、大雑把な分類として、だが、とりあえずは俺の家の方面だ。
 
「すいません、お願いします」と、平々凡々日本人らしい語り口で、俺は助手席にお邪魔した。
ドアが閉じられると、叩きつける雨が色濃く浮かぶ。そういえば今まで気にかけている暇が無かったが、裾が結構濡れている――と思った瞬間、視界の隅から肌触りの良さそうなタオルが差し出される。本当に、ありがとうございます。いつか菓子折りを古泉に預けて、届けてもらうべきかもしれない。
新川さんは後ろにもタオルと、小さい紙袋らしきものを渡すと、堂の入った仕草で視界を確認してから、小気味いいハンドル捌きで、車体を車線に乗せた。
 
前も横も、不確かな景色だ。会話の無い車内は、ふぞろいに鳴る雨の音と、それに埋もれた俺達とで、虚空の果てだ。ミラーに視線をぶつけるのもはばかられたので、仕方なく看板の文字を数えて過ごす。見慣れたようで、ついぞ知らないであろうことはたくさんある。町も人もおんなじだ。なんてな。
 
 
電線のカラスが飛び去った。ひいふうみ、その間にエンジンが切られる。共用駐車場の一角のプラ看板に提げられた医院の名前は、耳に挟んだことぐらいはあるものだった。隣の駐車スペースに書かれた料理屋の名前のほうが見知っていたが。
俺は新川さんにまた、礼を言い、すっかり元気の無くなった傘を広げ、違った角度から見ているような周囲を見回す。遅れて古泉が降りてくる。何を話していたのかはよく聞き取れなかったが、帰りの迎えは不要といった旨のことを言っていたようだ。タクシーはもやにうずもれようと、ライトを点す。
 
「あ」
 
そのとき古泉が発したそれは、ごくごく平凡な男子高校生のやっちまった的な「あ」だった。およそ似つかわしくないということは、俺には嫌な予感しかしない。
 
「すいません、」
濡れた窓を軽く叩いて新川さんを止めた古泉は、制服のポケットを探り、四拍ほど考え込む体を見せると、眉を寄せてすぐ閃くという変な顔芸をし、仰々しく呟いた。
「お願いがあるんですが」
明らかにこっちを見てるっぽいずみ君。なんで俺だよ。いや妥当なのか?思わぬ果報に喜んでいる子供の顔なのはどういうわけだ?俺は親じゃないから渋面でいい。
「なんか今言うことがあるのかよ」
「いえ、ただ」
 
「財布が」
 
あ。
 
 
新川さんの同じ笑顔に迎えられ、同じ道を走り、同じ階段を上り、つまりは無駄な行程を行き来した俺が清潔感のある小さな医院の自動ドアをくぐった頃には、五時を告げる市内放送の、MIDI音源のような音楽が聞こえていた。
ああ、穀潰し生活の俺だって、ここは金ぐらい貸すぜ!友達だろ!なーんてブルガリの革モノでも出せばトゥルーエンドだってことぐらいはわかっていたのさ。しかしな、本人が「お願いします」とそれまでの流れに読点もつけずに俺に鍵を押し付け、とてもさっきまで萎びていたネギとイコールとは思えない機敏さでさっさと中に入っていってしまった、世の中やったもん勝ちだなあ。第一、俺の雀の財嚢で事足りなかったら恥ずかしい。まったく娑婆は世知辛いっぜ!
途中、よっぽど部屋を荒らし食料を見繕おうかと思ったが、やつの財源を持ってすれば大した損傷にもならないであろうことが目に見えていたので、やめておいた。性善説の勝利だ。結果、諭吉さんの家をすぐに発見してしまったわけだが、靴箱の脇に置き去りにされていたさぞ詰まっているであろうそれは、意外にも控えめで安価そうな外装だった。
 
俺も帰りはいいです、と、エンジンを切ろうとした新川さんに言った。背景は俺にはよくわからないし、首を突っ込もうとも思わないが、若造の面倒を見るほど暇ではないだろう。ここからなら徒歩でも大丈夫だ。
「今晩にかけて強くなるそうです。お気をつけて」
新川さんは最後にそう言うと、今度こそ荷物の無い軽やかな足で去っていった。俺は背中に一礼、傘を数回水切りし、息を吐く。微かに白い色を含んで、雨に溶けた。
 
そして俺は、恐らくは診療を受けるものだと思いながら「こんばんは」と言ってくれたであろう、温かみのある木の世界にいる受付の看護師(婦でも遜色ないと思うが)のお姉さんに、妙な絵面だとは思いながらも由を話した。待合室には既に古泉の姿は見えなかったので、診察が終わるまでそうかからないだろうと見当をつけていた。
 
「ああ、一樹くんなら」
さりながら、俺に返ってきたのは、どうして今日は頻発する、軌道のずれた答えだったわけで。
 
 
 
病院なんてしばらくぶりに見るせいで、どこもかしこもイメージ先行で真っ白の錯覚だ。通された部屋も例に漏れずで、シャワーカーテンの区切りの向こうに、採血しているお婆さんをちらりと見とめながら、俺はそんなことを思っていた。
 
 
「お前、病人に見えるぞ」
無理やり引っ張りだしたそれが、どういう意図での感想なのかは、俺自身よく分からなかった。
まず目が行ったのは、正式名称イルリなんとか台のそれだ。愛想のないステンレスのフックに、マジックでなにか走り書きされた袋がぶらさがっている。
次には固そうな枕に頭を預けた古泉がいて、隅のドックハンガーにはブレザーが掛けられていた。窓のカーテンの隙間から、通りの味気ない光群が微かに見える。
 
「ありがとうございます」
俺の言葉を受けてではなかった。差し伸べられた古泉の右手に、未練なく諭吉袋を渡す。
次をどうしたものかと思った俺は、丸椅子に気がついてしまい、仕方なくそこに腰を落ち着ける。
こちらに近いところにあるはずの左手の甲に刺さっているものは、どう控えめに見ても翼状針で、辿っていけばホルダーがあり、薬液があり、通俗的な用語を使用すれば(出典:対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース長門有希より引用)点滴静脈注射ということになる。
 
「いえ、本当に大したわけではないんです。一時間ほどで済みます」
首だけをこちらに向けた古泉が、先回りをしてくる。胸まで掛けられたブランケットの上下が、生きているのだと囁いてくるせいで、俺は柄の範疇のことを聞くことになる。
「お前らって、病院まで根回ししてるのか?」
雰囲気に合わせて控えめなトーンで言ってみたが、当の本人は「そう思いますか?」と微笑するだけだ。さっきの人の応対といいこの処置の早さといい、ありえる。涼宮ハルヒの住んでいる市、条件にはお墨が買える。一体この辺りの公共施設はどこまで侵食されてるんだ、まさか緊急時に備えて病院なんて完全制覇とか言うまいな――世紀末論者の妄言とセッションできる考えが俺の頭を駆け巡る。まぁ、後に俺は図らずもこれを体を張って立証してしまうわけだが、それはまた別の話だ。
 
 
「で」
「で、とは」
無意識のうちに、腕を組む格好になる。
「それも嫌がらせなわけか?」
言いながら、俺は古泉の右手を指差す。
「ああ、これは」
なあなあだが先程よりはいつもの顔色になっている古泉は、財布の口をなぞると、枕元に置く。
「本当に忘れてしまったんです。すみません、ご迷惑を」
だろうな。俺はともかく、新川さんにまでこいつが苦労をかける理由がない。俺はともかく?あれ?
「って、機関が管理してるなら、金なんて持って来る必要ないだろ」
「管理というと語弊があります、協力を仰いだりケースバイケースですから。神人がらみで運び込まれたわけでもありませんし、市民として利用する以上、社会規範は守らなければ」
潤沢ってかんじがするけどな。そういうもんかね。
「そういうものです」
 
会話の幕間には、雨足が入り込んでくる。何の薬なもんだか、いっとう遅いペースで落ちてくる点滴が、それを助長していた。
まずいな、出時を逃した。閉塞が染み渡っている。別に急いで帰る理由も見当たらないが、大に片足突っ込んだ高校生に付き添うっていうのも、なんだかとってもあれだ。
 
「起きたときから自覚はあったんですが、乗り切れそうだったので」
「できてないな」
「すみません」
表情と謝罪が一致していない。
「熱は?」
「その類の不調ではないんです」
「じゃ、持病でもあるのか?」
「ですから、大したわけではないんです。精神的なものですから」
 
俺は相当に怪訝な顔になったらしい。当たったことのように古泉は笑う。
「僕もあなたも多感期なんですよ、年齢上はね。それに、緊張して腹部に痛みが走るぐらいは経験するでしょう?」
多感期に年齢の定義なんてあっただろうか。
「精神って、点滴で直るものなのか」
「何気に失礼ですよ」
しげしげと合成樹脂の袋を眺めながら欺瞞の臭いを暴こうとする俺を、古泉が珍しく差し押さえる。
「このところ夜勤が多かったせいもあります。なまってきたのかもしれませんね」
「暇であるべきなんだろ。本来は」
「それが僕達にとっても涼宮さんにとってもベストだと思っています、少なくとも今は」
「誘導させる言い方だな」
「以前にもお話した通り、こちら側でも色々と、ね、人間同士の集まりですから。僕個人としては、涼宮さんの元から持っていたものが外に向かってくれれば、と望んでいますが、幸いその点は実現しつつあります、あなたのおかげで」
「前から気になってたんだが」
「はい?」
「色々過大評価な気がするんだが、とりあえず、なにかに俺をよいしょするのはなんなんだよ」
「不当だと思いますか?」
「手放しで褒められると気持ち悪い。俺は優秀じゃないんだ」
「優秀、ときますか、そうですね。ある意味でかなり優秀な存在、僕達が羨望すべきものだと思いますが」
「大体、お前の説明にしたって納得しかねるね。そんなに凄い力って押すなら、そもそも俺が関われるわけないだろ。理由が無い」
「あの、それは」
 
「本気で言っているんでしょうか」
 
ざああああ。言葉だ。ちゃんと言葉で拾った。
「はあ?」
そうしても分からないのなら、聞き返すしかない。禁じ手質問返しに、古泉は目を細める。けだるい場のせいで雲隠れされそうだ。
「……いえ、結構、失礼しました」
お疲れ様でしたの手振りで古泉は話を切るが、そこでやめられれば戦犯は俺だ。
「いや、なんだよ」
「こういうのは個人差がありますよね。わかりました」
自己完結ってお前、やめろよそういう尾っぽを増やすの。俺達の冒険はこれからだ!みたいなの。
「ちょっと待て、ほんとになんだよ」
「正直な話、一人で唸っているのも馬鹿らしくなりまして」
また位相が噛み合わない。今度は何の話だ何の!
「帰宅してから本格的にひどくなってきたものですから、横にはなっていたんですがね、どうにも安静にできる環境があるときに限って快方に向かわないんですよ、それでまあ病院かな、と思いまして、あなたの携帯にかけさせて頂いた次第です」
「いやおかしくないか」
「何もおかしいことはありませんね」
やっぱりこいつは具合がよろしくないんじゃないか、とじんまり思う。
いよいよ外は濁白の様を呈し、あいまいな境界は音を立ててにじり寄ってくる。耳鳴りの向こうは数を見下すダイナモ、今夜はきっとよだかも見えない。ポエムか!
 
(どうして俺を呼んだんだ)
形にするのだとばかり思っていたのに、まな板の魚のような古泉の顔は、落ち所のない怒りを誘発させる色を孕んでいた。こっちを見なくなったが、きっと俺の妙な印象は伝わっている。仮にも床に臥している相手にかけるのは布団で充分で、罵声は割合十で俺の非になってしまう気がするし、どうして俺はこういうことを考えているのかどうにも分からない。どういうわけか、いらいらする。
 
 
「印象形成は、他人の行動を総合的に評定しているつもりでも、実際は初頭の動作、印象深いいくつかの単語に誘導されてしまうそうです」
「一応、ハルヒも心配してたぞ」
「ちゃんと顔は出しますよ。ご心配をおかけしました」
勢いはない。わかりやすいほど眠そうで、見ていられない俺は頭を下げる。
 
もしかしてこいつは、俺に来てほしかったわけでもなんでもないんではないかと、頭上はそんなことでぐるぐると回っていた。時間は平面の連なり、こいつがいるもしもでも、結局誰も呼ばないんだろうけども、それは俺が見てきたすべてで、本当は、
 
 
 
 
「期待したんでしょう、」
 
 
さめざめとした微笑みで、古泉は言った。きっと嘲笑だ、汲み取るぐらいはしろ、と言っている。冷静に考えてみればひどい話だが、それでも俺は不思議と、何の感動も覚えなかった。
正解の拍手が投げやりに鳴っている。もう話すことは特にないが、返事ぐらいはしておこうと思った。
 
「なあ、」
 
これが本日一番の斜め上だったと思うが、信じられないことに古泉は寝ていた。
なんとなくこいつは寝ないんだと思っていた俺は、そこまで演技かよ、みたいなことを考えたが、どれだけ貧乏を揺すっても古泉に反応は無く、寝息が聞こえてきたところでおじゃんとなった。
これでようやく怒ってもいいのだと気づいた俺は、お疲れ様でしたーといい笑顔で、公共物に軽く蹴りを入れ、場末にさよならし、湿度地獄に飛び入った。
 
 
 
三百六十度破裂音の中で、軽いトラウマができた携帯の電源を入れると、ハルヒから一通届いていた。ねえ古泉くんにメールしてみたんだけど返事が――のくだりで、目を這わすのをやめた。返事は家まで生還できたらだ。
きっとこれを古泉に話せば、俺に挿げ替えるくせに、底光りのどこかで喜ぶんだろう。だから言ってやらない。電車に乗りもしない人間には、なにも。
 
 
 
 
 

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※消失前の話です
古泉はやっすい部屋かたっかい部屋の二択がいいな……という(高いverは機関の人に甘やかされて)