〈錆〉
ハルヒと付き合い始めてから半年が過ぎた。
思ったより世界の見え方は変わらなかったというのが正直なところだ。それは俺の主観というより、ハルヒの淡い懇願なのだろう。普通の彼氏彼女から俯瞰すりゃ、さぞやきもきする関係だろうとは自分でも思う。ただ、ちょっと裏っ返せば、そこにはそれがいいと声を大にする俺がいるので、俺達はこれでいいのだ。
「来週は日曜が空いているようですね」
キシキシ、キシキシ……。
当然、俺達の関係が変わったことは古泉以下朝比奈さんも長門も知るところとなっている。その上で何も変わっていない〈ように見える〉、この部活に、俺は心底安堵していた。情けのない。
ただ、変わったと感じるのは、この間から古泉と会話すると妙な音が聞こえる気がするのだ。
「もうご予定は立てられましたか?」
ああ、まただ。キシキシ、キシキシ……。
〈膿〉
古泉に対する違和感は膨らみ続け、最近ではなんと、古泉が二人に見えるようになっていた。
古泉が口を開くと、顔のある古泉と顔のない古泉が出てくるのだ。俺はそれが不気味かつ面白くて仕方が無かったので、指摘してやろうか否かしばらく迷っていたが、目が痛くなるのでさすがに言ってやることにした。
「お前、変なモンが憑いてるかもしれないぞ」
「はあ」
当然だが古泉は相手にしていない。
「あなたにも涼宮さんの力のようなものが備わってきた、ということですかね」
「そうかもしれねえな」
超法規にして超次元的な存在の傍にいたもんだから、なにがしな能力が伝播したのかもしれん。
だが、その間にも顔のない古泉は横で揺れているのだ。じっと俺を見ながら、じっと口を結びながら。
〈Sab.〉
ハルヒと二人で課外探索するのも、珍しくなくなった。逢引とかサブいこと言う時代錯誤人がいたら、脛に蹴り入れてやる。
これ以上値を望むのも難しいといったぐらいの日曜日らしい日曜日で、俺達はのびのびと街中を回った。俺は柄にも無く、平均の幸せというやつを噛みしめていた。
ただ一つにして重大な懸念は、ずっと、ずうっと俺達を見ているやつがいるということだ。
そいつは例の、顔のない古泉だ。
(出歯亀してんじゃねえ)
俺は胸中で怒鳴った。そうすると、顔のない古泉は笑った。(ふうん、)
(今日は、ヤるんですか?)
俺は古泉の胸倉を掴み上げていた。
〈倦み〉
「ど、」
顔のある古泉は笑顔を割合曇らせたまま聞いてきた。
「どうなさったんですか」
「……」
そうだ。俺達は部室にいたんだ。急に立ち上がったせいでチェスの盤上世界は無残にご破算になり、パイプ椅子が不快な転倒音を立てた。
「……」
「――俺は本音を吐かれないから嫌だとは思わん。だが」
今の俺の文脈の不連続っぷりは、普段の古泉の鏡面とも言えよう。ほら、語れば落ちるのが漢ってやつなんだろう?
「譲ってやったと思われるのは、その倍々は不愉快だな」
古泉はそれで大概を理解したようだった。
「――どうしてそう思うんです?」
「この間も言っただろ。お前にゃ質のよろしくないモンが憑いてるよ。そいつがゲロしてやがんのさ。お前のデキモノを」
「なるほど。それは困りましたね」
くっと顔を歪ませた古泉は、ゆっくりと俺の腕を払うように手を掲げ――
――俺に触れた瞬間、ざらりと四肢を崩壊させた。
古泉だったものはさらさらと砂になり、俺のブレザーの上をざらざらと滑り、はらはらと床に積もっていく。
そして、俺の足元は砂浜になった。
〈寂と海〉
上履きに砂粒が入る感覚。不快だったので俺は靴を脱ぎ、ぞんざいに放物線を描いた。投げた先からはぱしゃん、という水音。そこには海が広がっていた。どこまでも性悪そうな、どす暗い青の海が。
「――きっとここは、取捨の捨の側の生き物が嘆いた標なのです。そう思いませんか? この色、この音! ……だもんですから、僕の最終出口なわけです。あなたには用の無い場所でしょう? どうかお邪魔しないで頂きたく、切に、切に願えませんか」
顔のない古泉は鈍色の空の下、海風に飛ばされそうになりながらそう歌いあげた。
「神妙に断る。お前、お前らはそうやって、自己犠牲とか、お情けとかに置換するのが趣味なんだろう。慰めなんだろう? そうしなきゃあ精神が不健康なんだ。俺みたいなやつはそれを見て、ああごめんなさいだの、ありがとうだの言わなきゃいけないのか? 冗談千万。人の巡りなんて、当人同士だけの問題じゃねえだろ、きっと。そこに至るまでの人生があって、関わったものすべてがあって、初めておお、気が合うな、とか、合わないな、ってなもんだ。俺と……あいつだってそうさ」
「――随分と、お自信のおありなお性格に御なられたようだ。僕が一度でもそんなことを頼みましたか? 僕が、ですよ。ええ、ええ、あなたと彼女は永劫お似合いですとも。ですからもう、僕は静かに暮らしたいのです。いらないものはここに捨て置いて、ね。それを引きずり出さないで頂きたい」
「迷惑してるのはこっちだ。あっちゃこっちゃで透け出てきやがって。いっぺんぐらい余計な理論武装は解いて、口に出してみやがれ。俺はいつでもいいぜ」
「あなたがよくても涼宮さんが困るでしょう」
「今あいつのことを一番理解してるのは俺だ。異論ないな。その俺が言うが、あいつは今、お前ごときにゃ精神を揺さぶられんほど成長した。安心しろ」
「バレていると言いたいんですか」
「薄々感づいてるのはな。お前だって分かるだろ?」
顔のない古泉は苦い顔をした。
「僕は、これでも、勝ち目のない戦いに赴くほど愚鈍でも、実直でもないんですよ。バカらしい」
本当にバカらしいと思うなら、こんな場所には来ないはずだろう。お前の心は。
「これから先、ずっとお人形さんと会話していくつもりはないぜ。出てこいよ、古泉」
俺はきっぱと言い捨てた。悪いが、ハルヒにゃ辛い選択を迫る必要だってあるさ。そうしなきゃこの根暗男も、日和見男の俺も前に進めないっていうなら、俺にはそれをさせる義務がある。これは勝者とか敗者とか、そんなんじゃない。そんなんじゃないんだ。
「僕は……」
顔のない古泉は、ふっと己の内を哀れむように平坦な顔を両の手で覆った。
「僕は、あなた達を祝福したいのです……このコミュニティ下における全ての幸せを、幸せと感じるように……心から思えるように……。飽き飽きなのです……心を置いて口を開くのは……」
しゃがれ、淀んだ声と同調するかのように空は落ち、雲が天蓋を覆い、波が揺れる。
「僕はッ」
視界が遊覧したかと思うと、俺は海に突き飛ばされていた。
「僕は、認めないッ、認めません、自分がこんなに融通持たぬ人格だったなんて! そうです、あなたと同じ大気の下にいたら、僕は狂ってしまう。僕だけが抱える病理ではありません、彼女達も――ただ、彼女らは僕より気持ちの整理が得手だったというだけで……」
最後の方はごもごもと呟きながら、古泉は尻から塩水に浸かった俺を見下ろしている。下半身から冷えていく体に反比例して、俺は頭が煮沸するのを感じた。
「僕だってそうありたいのです、それの何がいけないんだ――」
「なら、もっとうまくやりやがれッ」
反動をつけて立ち上がると、顔のない古泉の腕を取り、海に威勢良しに叩きつけた。
「……っ、あなたさえ、都合をつけてくだされば、」
水濡れになりながら、古泉も気勢を上げる。
俺の顔面に水がかけられた。
「俺、だけじゃねぇ、ハルヒにだってバレてんだ、まだ分かんねぇのかッ」
お前は涼宮ハルヒをものの知らない尊い生き物だと思いすぎた。あたりまえの推察力と興味はお前にだって注がれていることに、もっと傾力すべきだったんだ。
文字通りの水掛け論に発展した俺達は、不毛な戦いを続けた。上から下まで海水の重みでぐずぐずになりながら、初めて勝ち負けの無い喧嘩をした。顔のない古泉がうう、とかこの、とか埒も無い声を上げるのは新鮮で、それが俺にはしてやったりと思えた。生傷をこしらえながら、俺も無様に咆哮した。
二人同時に息切れしそうになった一瞬間に、大波がやってきた。気力の残っていなかった俺は黒青い海に飲みこまれながら、それでも顔のない古泉を睨みつけた。向こうさんも同様だった。ぐるぐると視界は回り、どこに流されたってまだ白黒はついちゃいねえぞ、と……。
ようやっと波が引いたときには、俺達はまっさらな砂浜に打ち上げられていた。聴力が戻ってくると、耳に残る水が痛い。ぷるぷると頭を振って意識を戻す。潮騒が聞こえてきた。
あちこちが痛い。が、気分は悪くない。呼応してくれたのか(誰だって自意識は過剰だ)、お天道は暁に染まり、水面に反射するおめざの陽光がそれはそれは綺麗だった。
近くで、古泉が海面に顔を沈めていた。声をかける前に、ぷは、と息を吐きながら、古泉は面を上げた。そこには、憎たらしい顔があった。
「……」
俺達は瞳を合わせた。水分を含んだ古泉の睫毛が、呼吸に合わせて上下する。色素の薄い唇が、ゆるりと開いている。
ああやっと、現実に立ち帰ってこれたと思った。ここがようやっとのスタートラインなのだ。嬉しくて俺は顔を歪めた。
「おはよう」
いつもの挨拶じみるように挨拶してやった。これが俺のピストルだ。これから先、お前とどうなったって恨みっこなしだ、という意味だ。
古泉はじんまりと俺をねめつけた後、腹を括ったように見えた。そして凛とした面立ちを引き締め、〈いつものように〉、薄く笑ったのだった。
「古泉一樹です。……よろしく」