昔々、まだ八百万の神々や妖怪が人と同じ世界に暮らしていたころのお話。
とある山村に、1人の少女がいました。特別美しかったり器量がよかったりといったことはなく、引っ込み思案で存在を忘れられがちなことを除けばどこにでもいる平凡な女の子でした。
そんな彼女のどこにでもあるようで類を見ない物語は、どこにでもある話のような出だしから始まります。
村の近くにある山の中腹にある小さな祠。松明もろうそくもない質素な作りのそれは、自然にできた洞穴を利用して作られていた。
頼りにできる光源は入り口から差し込む夕陽の光だけで、それもあと一刻もしないうちに西の地平へと沈んでしまうだろう。
は指定されたこの地で、人生最後のものとなるであろうその夕焼けを網膜に焼き付けていた。
はこの山のふもとにある小さな村の生まれだ。
物心ついてから数年前に両親がはやり病でこの世を去るまで、はよく1人で山に入っては夕陽が沈むまで夢中で遊びふけっていた。生来の引っ込み思案が災いしてか村で友達が作れなかった彼女にとって、山に棲む動物たちは自然の中で生きる知識を与える教師であり、同じ時を分かち合うよき友であった。村で生活している誰よりもこの山を知り尽くし、その恵みを享受してきたのがだったのである。
そんな思い出の詰まったこの山が、自らの人生の終焉の地になるとはなんたる皮肉であろうか。
山に棲み付いている1匹の妖怪がある日、生贄を要求してきた。だいぶ昔から山にいたそうなのだが、はこのとき初めて自分がいつも登っている山に妖怪が居着いていたことを知った。特に悪さをするわけでもなく村人の前に姿を見せることもなかったその妖怪は、声明文を送るまですっかり村人たちから忘れ去られていたのだ。
今まで全くといっていいほど人とかかわりを持たなかった山の妖怪が、なぜ今になって突然生贄など求めたのだろうか。村の大人たちはその真意を測りかねていた。
何しろその妖怪が欲しているのはなのだ。
なぜ自分なのか。村人たちの好奇と同情の視線を背に受けながら、もまた彼らと同じ感想を抱いていた。は自分がこれといった魅力のない平凡な女性であることを自覚していた。
だがそんなことをいくら考えたところで、力を持たぬ人間が数百年を生きる妖怪に異を唱えることなどできるはずもない。疑問は黙殺され、妖怪を恐れる村人たちはを実にあっさりと売り渡した。その後の彼女の運命を分かった上で。
身寄りがないとはいえあまりに簡単に見捨てられた少女は、しかしそれを仕方のないことだと割り切った。誰だって自分の身や家族が惜しいに決まっている、自分だって彼らと同じ立場であったならそうするしかないだろう、と。
おとぎ話になぞらえるならここで勇敢な若者か高名な陰陽師が現れて、哀れな生贄たるを救ってくれるところなのだが、あいにくとそんな都合のいい展開はなかった。実際のところは村の若者は助けてくれるどころか「どうせ数日後には死ぬ身なのだから」とに手を付けようとしたりする始末――幸いにもそれは未然に終わったが――であったし、わざわざ辺境の山村まで足を伸ばそうとする酔狂な陰陽師も現れなかった。現実は無情である。
しかしその代わりにとでもいうつもりなのだろうか。にはよくあるおとぎ話とは少し違った結末が用意されていた。
ぎゅっと恐怖と緊張に汗ばむ両手を握り締め、視線を膝の上に落とす。どうせ殺すのなら早くしてくれないだろうかとさえ思えるような長い時間、ずっとは祠の前に座して死を待っていた。
日も暮れて空が紅から藍色の星空へと変わりかけたころ、の視界に影が入り込んだ。そのことに気付いて視線を上げると、そこには1人の青年の姿。
歳のころは16、7程度だろうか。くすんだ銀色の神は日に焼けて傷みが激しくあちこち跳ねており、健康的に日焼けした肌は精悍さと野性味を青年に加えている。そのくせまだあどけなさを残した顔立ちは、彼の印象を年齢よりも幼いものにしていた。
「……?」
一瞬、はこの青年が山に迷い込んだのかと思ったが、その背後にごく自然に付き従っている狼たちの姿を見てその考えを改めた。よくよく注視すれば彼も狼たちと同じ耳や尻尾がついているではないか!
「やあ、! 来てくれたんだな」
ニカッと白い歯を見せて大陽のような笑顔を浮かべながら、青年はの名を言い当てた。これはもう間違いない。
「ひょっとして、あなた様が……」
知らないうちに息を呑んだために後半の言葉は声にならなかった。ここに来るまでに想像していた妖怪の姿とはまるで違っていることに衝撃を受け、ぱくぱくと口を動かす。
「ああ。俺は八左ヱ門――お前をここに呼んだ張本人だ」
八左ヱ門と名乗った狼の妖怪は、場の雰囲気にそぐわぬ明るい笑顔を見せた。
連れて行きたいところがある、と八左ヱ門に連れられたは両脇と背後を随伴の狼に固められた状態で山道を歩いていた。八左ヱ門は比較的緩やかな傾斜の道を選んでくれたり、足場が不安定なところでは手を貸してくれたりと、体力的に劣るを気遣ってかいろいろと気配りをしてくれていた。村にいたときには異性にそんな気遣いをされたことがなかったには、それが気恥ずかしくて仕方がない。
(それにしても一体どこへ行くんだろう……?)
落ち着かなさをごまかすために考えたのは、目的地のことだった。あの祠は狼的に食事に適していないからとか、そういう理由で移動させられているのだろうか。今一緒にいる狼たち以外にも結構な数がいそうだし、全部集めたらあそこには入りきらないのかも。
「大丈夫か?」
「えぇっ!? は、はい……」
「慣れない者にはきついかもしれないけど、もうすぐ着くからな」
1人考えごとをしていたのを疲れたと勘違いされたのだろうか。八左ヱ門は心配そうな目で気遣う言葉を投げかけると、再び前方に視線を戻した。ずっと先導していたのに、どうしてこちらの様子まで分かってしまうんだろうか。にはそれが不思議だった。
「ほら、着いたぞ」
草木が生い茂る獣道を抜けると突然開けた場所に出た。広場とおぼしきそこには、すでに先客が大勢ひしめきあっていた。そのすべてが妖怪だというのだから驚きである。
多様な種類の妖怪たちの双眸が一斉にに向けられる。注目されることに慣れていないにはそれが針のむしろのように思えた。
「おーい、こっちだこっち」
八左ヱ門が少し離れた位置からを呼ぶ。その声に誘われて慌てて彼のそばへ歩み寄ると、枯れ葉が丁寧に敷き詰められた場所へ腰を下ろすように薦められた。が言われるがままに座ると、八左ヱ門もその隣に腰を下ろす。
2人の眼前には簡素ながらもおいしそうな匂いを立てる料理の数々が並べられていた。否、目の前だけではない。そこかしこに鎮座ましましている妖怪たちの前にも料理が置いてあり、たちが来る前から各々が気ままにそれらを貪り食っているのだ。それを見たは密かに「あれ人肉とかでできてたりはしないよね……?」と心配したという。
「今日は朝から何も食べていないんだろう? 詳しい話はともかく、今は腹いっぱい食べて体を休めるといい」
「はあ……」
八左ヱ門がを気遣う言葉とともに料理を薦めるが、は気の抜けた返事を返しつつも内心は訝しさでいっぱいだった。
だって彼はを名指しで生贄に指定した張本人なのだ。食料に手を付けずあまつさえ食べ物を薦めるだなんて不自然ではないか。それとも太らせてから食べる作戦なのだろうか。
「あの、ひょっとして腹減ってなかった……?」
「いいえとんでもない!」
疑心暗鬼に駆られて難しい顔で下を向いたままのの顔を覗き込み、不安げな表情を見せて八左ヱ門が問うと、はつい反射的にそれを否定してしまった。思いのほか大きな声に八左ヱ門だけではなく周りの妖怪も目を丸くしてに注目する。
「い、いただきます……」
周りの視線に穴があったら入りたいと思った。しかし食べると言った手前、手を付けないわけにはいかない。は覚悟を決めて手を合わせると、恐る恐る箸を取って料理に手を伸ばす。
緊張によってかすかに震える指先を、箸に挟まれた料理が形のいい唇に触れて口内へ運ばれるさまを、それが咀嚼され嚥下されるまでの間中ずっと彼らは息を呑んで様子を伺っていた。
「おいしい……」
思わず出た言葉に口元に手を当てて周りを見渡すと、皆一様にほっとした様子を見せていた。何もそんなにみんなで緊張しなくてもいいのに、とは顔を綻ばせる。
「やっと笑ったな」
「え?」
そう言って優しげに笑う八左ヱ門に、は思わず自分の顔に手を当てる。言われてみれば、確かにあの状況下では笑う余裕などあろうはずもないし八左ヱ門の前で笑顔を浮かべたこともなかったような気がする。
「その……ごめん」
「え?」
「に求婚したこと……」
「えぇ?」
予想外の言葉には驚いてしまった。だって村のみんなに自分は生贄として選ばれたのだと、お前が欲しいと言われたと、そう言っていたから。それをすっかり信じきっていたは自分は八左ヱ門に食われるものとそう思い込んでいたのだ。
ああ、でも。そう言われて初めて今の状況が把握できた。こんなに多くの妖怪が1つの場所に集まって宴を開いているのは、自分たちの結婚を祝うための祝宴だったのだ。
周りがにわかにざわめき始め、「おい、誰だよ村に伝達した奴ー」と冗談交じりの野次があさっての方向に飛んでいくのを聞き取って、はなぜか申し訳なさを感じた。実際のところには何の非もなかったのだが、それでも八左ヱ門の寂しそうな顔を見てそう感じたのだ。
「その様子だとたぶん、村人に無理やり連れてこられたんだろ?」
「それは……」
そんなことはない、とは言い切れなかった。は全くの無抵抗であったため暴力的な手段を用いることこそなかったが、もし少しでも抵抗や逃亡の意思を見せていたら何をされていたか分からないくらいには、彼らは切羽詰っていた。
「悪いとは思ったんだけど、村の人間がそろそろもどこかに嫁いでもいい年頃だとかいう話を聞いて……いてもたってもいられなくなって」
それで、結婚の申し込みを。
そこまでを告げると八左ヱ門は顔を真っ赤にして耳も垂れてしまった。はというと、人生初の告白――求婚と言ったほうが正しいか――に戸惑ってしまった。
今まで村の人以外の人間に会ったことなんてないし、村人にはいてもいなくても気付かれないような扱いしか受けてこなかった。今を逃せば間違いなく婚期を逃す――いいえちょっと待って、冷静になりなさい。人間とほとんど変わらない姿をしているけれど、相手は妖怪なのよ。2つの相反する考えがの中でせめぎ合う。
「返事は今すぐじゃなくてもいいんだ。たとえ断ったとしてもや村に手出しをするつもりはない。
今日はもう日が暮れているから、明朝に村まで送るよ」
「え、でも……」
急な話だったものだから考える時間がもらえるのはありがたかった。だが、たとえ八左ヱ門本人が「村に手出しはしない」と言っていても、生贄の役目も全うせずにが戻ったところで村人たちは満足するだろうか。おそらく、答えは否だろう。
の浮かない表情を見て八左ヱ門もそのことに思い至ったのか、自らの浅慮に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
2人の暗い表情に、周りは気配さえも消してしんと静まり返った状態で動向を見守る。
「……本当に、すまな」「あの」
重ねて謝罪しようとした八左ヱ門の言葉をさえぎってが顔を上げる。その瞳にはまだ迷いが見え隠れしながらも、どこか覚悟を決めた光が宿っていた。
「結婚の件は、急に言われたものですからすぐにはお返事できません」
が静かに、しかしはっきりと自分の考えを述べ始めるのを八左ヱ門は黙って聞いていた。
「ですが……その」
急にそこで言葉を切って視線を外すの姿に、八左ヱ門も周りの妖怪たちも「ああ、やっぱり断られるのか」と諦め顔になりかける。
だが、が続けた言葉は彼らにとって意外なものだった。
「八左ヱ門さんのことは憎からず思っているというか……ですからその、できればここに置いてもらって考えさせてもらうというのは」
駄目でしょうか。が苦笑しながら八左ヱ門に問う。彼に否やはなかった。
諦めと絶望がありありと浮かんでいた八左ヱ門の頬に赤みが差し、みるみるうちに表情が輝き始める。それどころかまだはっきりした返事ももらっていないのに感極まり、思わずをかき抱いてしまう。
「もちろん! のためならいくらだって待つさ!」
「あ、あの八左ヱ門さん落ち着いて!」
「いやっほぉおう!!」
「きゃー!」
喜びのあまりを抱きしめたままぐるぐると振り回す八左ヱ門に、がそれを制止できずに悲鳴を上げる。
1拍の間を置いて再び盛り上がる周りの妖怪の中にいた、そっくりな顔をした2匹の狐は互いの顔を見合わせた。
「なあ雷蔵、これってめでたしめでたしでいいのか?」
結局のところとかいう娘は問題を先延ばしにしただけではないのかと、狐の1匹が首をかしげると、その片割れは難しい顔で「うーん」と唸りながら腕組みをして考え込むしぐさを見せた。この狐は何かにつけ迷う悪癖があるのだ。
しかしそんな彼には珍しく、そう時間もたたないうちに「いいんじゃないかな」という結論に達してしまった。
「本当にいいのか? 村に帰れない以上あの娘は八左ヱ門と結ばれるしかないんだぞ」
「三郎は深く考えすぎなんだよ。だってほら、よぉく見てごらん」
雷蔵と呼ばれた狐はにこやかに笑いながらすっと指先を祝宴の只中にいる2人に向ける。散々に自分を振り回した八左ヱ門に対して怒る素振りを見せているは、しかしごく自然に笑顔を浮かべていた。なるほど、最初に見たときは「どうしてこんな平凡な娘を」と思ったものだが、笑った顔は確かになかなかかわいらしいではないかと三郎は思う。
「あの分なら、そう遠くないうちにまた宴ができると思うよ」
迷わず言い切る雷蔵に、三郎は「確かにそうだな」と大きく頷いた。
そして半年の後に、狐の言っていたことは現実のものになりました。
それからさらに48年が過ぎたころ、彼女は夫と多くのこどもたちに囲まれてその生涯を終えることになります。
故郷の村では今も彼女は村のために泣く泣く生贄になったのだと伝えられていますが、今わの際の表情がこの上なく穏やかな笑顔であったことが、の人生を何よりも物語っていたのではないでしょうか。