にとって午後の授業は、一言でいえば退屈そのものだった。
ただでさえ午前中に抱えていた空腹が満たされ陽の光が暖かく降り注ぐ昼下がりは、睡魔が最高に絶好調な時間帯なのだ。
もしこの時間の授業が彼の得意な実技の授業であったならばまだ身の入りようが違っただろうが、教科の授業が入ろうものなら授業の説明を行なう教師の話が子守唄のように聞こえてくる。五年は組の生徒たちは大半がと似たようなタイプだったものだから、教室内では睡魔との闘いに悪戦苦闘している者がほとんどであった。
例外といえば、ただ1人。
(こいつくらいなものだよなぁ)
ちらりと横目で盗み見れば、は隣であくびをかみ殺しているに目もくれず教師の説明を一言一句も逃すまいと一心不乱に筆を紙面に走らせている。速記も顔負けの速度でだ。
彼らがこの忍術学園に入学したてのころは、は自分のノートを取ることさえも忘れてただただ見入っていたものだが、五年もたてばすっかり日常風景のひとつだ。
教師がキリのいいところまで説明を終えると、ぐるりと室内を見渡した。慌てて黒板のほうへと意識を向けて背筋を伸ばすが、視線がかち合った教師には呆れたような困ったような苦笑を向けられただけだった。
何か説教でも食らうのかと身構えた瞬間、授業の終わりを告げる鐘の音が響き渡った。その音で意識が現実に戻されたのか、ほかの生徒たちも一斉に夢から覚めたかのように顔を上げる。
「ここはテストにも出るから各自きちんと復習しておくように。それでは本日の授業はこれまで」
「「「「「ありがとーございましたー!」」」」」
お決まりのあいさつを済ませると、教科担任の教師はそれ以上の小言を飲み込んですごすごと教室を出て行った。一年は組の教科担任は胃炎持ちだと聞いたことがあるが、あの分だと彼も同類になるのはそう遠くないかもしれないとは思った。
授業からつかの間、開放されたためか教室内がにわかにざわめき始める。早めに席を立って教室を移動する生徒の姿もちらほらと見受けられた。
「そういえば次は実技だったっけ」
筆記用具を片付けながらが不安げな面持ちでに確認する。暗に何かあらかじめ注意事項を言い渡されていなかったか問いかけていることに、は気づいていた。
「今日は剣術の小テストだって先生が言ってただろ。ちゃんと忍者刀持ってきたか?」
ほとんどの生徒の傍らに刀が置いてある中、の近くに彼のものらしき刀はどこにもなかった。答えは予想がついていたが、それを尋ねればやはりというか何というか、それまでてきぱきと教室を出る準備をしていたの手がぴたりと止まる。
「…………」
「忘れたんだな」
「あ、いや、今朝までは覚えてたんだって! ちゃんと目立つところに置いてあった、はず……」
最後のほうは自信なさげに声が小さくなっていく。そう、今朝までは覚えていたというのにどうして持ってくるのを忘れてしまったのか。
「今から取りに行けばまだ間に合うんじゃね?」
「……先に行ってて!」
言うなりは席を立つと慌てて教室を飛び出していった。
廊下を走っている途中ですれ違った教師に睨まれることはあったものの、は割り当てられた自室の机の上に置いてあった忍者刀を難なく見つけることができた。
「よかった……」
ほっと息をつくと、部屋の前を何人かの影が通り過ぎたのが見えた。先ほどまで授業で校庭を使っていたろ組の生徒たちが戻ってきたのだ。
(いけない、急いで行かないと遅刻する……!)
そのことばかりに気を取られていたためか、焦るあまりに外の様子も見ずには慌てて部屋を飛び出した。
それがいけなかったのだろう。
「おわっ!?」
「!」
曲がり角の向こうから歩いてくる人影に気づいたときには、互いにすでに避けられる体勢ではなかった。
衝撃が伝わると同時に、は思わずたたらを踏む。ぶつかった相手のほうはぽかんと口を開けてその場に立ち尽くすばかりで、何が起こったのか分からないといった表情をしていた。
「ごめんっ、大丈、夫……」
制服の色からしておそらく同級生だろう。ともかく謝罪の言葉を口に出しつつ相手の顔を見上げる。
しかし、ぶつかった相手が誰かを認識したとたんには凍りついた。次に、体中の血液が熱を発して頭部へと上っていくのが自分でも分かった。
「いや、俺は大丈夫だけど……お前のほうこそ大丈夫なのか?」
「あ、いや……」
同級生が心配そうに気遣ってくるのに、はそれ以上の言葉が出ずに首振り人形のようにこくこくと頷くしかなかった。「本当に大丈夫なのか? どこか具合でも悪いんじゃ……」その様子を見た相手はが何か無理をしているのではないかと考えたのか、なおも言い募る。
「いや、本当に、大丈夫だから!」
思わず大きな声を出してしまったが、相手には疑わしげな視線を向けられただけだった。
だが、この状態をどう説明すればいいのだろうか。普段は意識しない限り感じ取ることができない心臓の鼓動が胸に手を当てるまでもなく分かるし、頬が熱いのが自分でも分かる。そうなった理由に心当たりはありすぎるほどにあったが、それを目の前の人物に伝えられるのなら苦労はしていない。
「おーい八左ヱ門、早くしないと授業に遅れるぞ!」
どうこの場を切り抜けようかと思案していたであったが、背後から彼を呼ぶ声が聞こえたときには思わぬところから助け舟が出たと思った。
「それじゃ、俺はこれで!」
「あ」
逃げるようにその場を走り去るの後を追うべきか逡巡するが、友人からの再度の呼びかけに「分かったよ、今行く!」と答えてそちらのほうへと走り出した。
「どうしたんだろ……」
あまり面識のない相手の反応に不審なものを感じつつも、友人たちと合流した八左ヱ門はすぐにぶつかった同級生のことなど忘れて次の授業のことで頭を悩ませるのであった。
一方、は校庭まで一気に走り抜けると肩で息をし始めた。
「びびびびっくりした……!」
まさかあんなところで彼と言葉を交わすことになるとは思ってもみなかった。おかげで緊張してうまく話すことができなかったが、嫌な奴だとは思われなかっただろうか。
「少なくとも挙動不審には思われたろうな……」
しかし、口下手な部類に入るにとって想い人と自然に会話を交わすことはあまりにもハードルが高すぎた。何せ今まで彼と話をしたことがなかったばかりか、接点のせの字も見当たらないのだから無理もない。
顔つきも幼く、身長も同級生よりも低い。前に出ることが苦手で一度背景と同化すれば声をかけるまで誰にも気づかれない。
実技の成績は平均的で、若干教科のほうが得意ではあるものの忘れっぽい性格のせいで成績自体は悪くもないが特別良くもない。存在感は薄いほうだが、委員会の後輩のように友人や先輩にすら名前を忘れられるほどでもない。
つまるところ、五年は組のという人物はこれといった特徴のない――いわゆるモブの見本のような少年だった。
それも忍者には向いているのでそう卑屈になるようなことでもないのは分かっている。だが、忍として優秀なことがイコール好きな相手に好いてもらえる、というわけでもないことをは理解していた。
このままではいけないことは自分でも分かっている。だが、どうすればあの一点豪華主義的な友人たちに囲まれた八左ヱ門を振り向かせることができるのか、には検討もつかない。かといって何も告げずに諦めるには引き際を逸していた。
「それでは授業を始める!」
諸々の問題を抱えたため息は授業の開始を告げる号令によってかき消された。