そうだな。そんなこともあった。
「001」
「大丈夫ダ。マダ行ケル」
「そうか」
無茶はするんじゃないぞ、と言いかけた。舌が動く前にやめた。こっちが無茶をしてもらわなければならない立場だったのだ。そのかわり、少しでも001が楽な姿勢でいられるようにと、ずり下がってきた腕をずらして抱えなおす。今はこれが彼のためにできる精一杯のこと。
爆発の規模はかなり大きかったはずだが、他の連中は無事でいるだろうか。自分たちだけがここに「飛ばされ」てから、どれほどの時間が経過したのか見当もつかない。見えるものも聞こえるものもなく、全てが眠くなるほどに曖昧だ。もし自分ひとりだけだったなら、とっくに眠っていたかもしれない。ただ、抱えた001の暖かさとの比較で、空間の持つ冬のような冷たさを知ることができていた。
真闇の空間に二人、001は得体の知れない何かからの干渉に対抗しつづけている。全ての力を障壁にそそぎ、いつもみたく念動力で宙に浮くこともできない。だがときたま、彼のほうから思念波が流れ込んでくる。
その度に004は安堵の念をおぼえる。001が生きているということに。自分たちが確実に息をしているということに。
「ソウイエバ」
「何だ?」
「コウシテイルト、イツダッタカ君ト親子ニ間違ワレタコトヲ思イ出ス」
あれか。
ほんの少し口角を持ち上げて、004は微苦笑に似た表情を浮かべた。
「買い物に連れて行かれたときだったな」
「ソウダ。べびーかーガ持チ込メナイカラ、ズット君ニ抱エラレテイタオカゲデネ」
「不服そうだな。そんなに嫌だったのか」
「ソウ聞コエルカイ。カク言ウ君ハドウナンダ」
「さてね。むしろ始末に終えないのはフランソワーズだな。あいつ、面白がって寝巻きまで買いやがった」
水色の地に、卵色の象のアップリケがついたパジャマ。まぁいいか、と二人して平然と着ていたらジェットが呆れ果てていた。
『なんで恥ずかしげもなくそんな格好が出来るんだ?』
別にいいじゃないか、そのくらい。
だが本当にこの寒い中でイワンを抱きかかえていると、あのときのことをとめどなく思い出す。
004、と再び脳裏に言葉がひらめく。
「君ガイテクレテ良カッタヨ」
いつになく静かな声音に、ぎょっとして暗闇の中にあるはずの顔を見ようとする。
「一人ダッタラ、眠ッテイタカモシレナイカラネ」
お前もかよ。
まいったなあ。
言葉は音となって周囲に拡散することはかなわず、代わりに泡が立ち昇る。
海の底は本来ならば008こと、ピュンマの独壇場である。水中戦闘に特化した改造を施され、半永久的に水中での活動が可能な戦士は、だがしかし本領を発揮すべき海中で困り果てていた。
景気良く戦闘機械を残らず破壊したはいいが、爆破の衝撃で吹き飛ばされ、ついでに瓦礫に足を挟まれてしまった。手持ちの武器はもはや弾切れ、周囲に利用できそうなものもない。通信機は生きているようだから助けは呼べるだろう。だが、まだ上で戦っているだろう仲間達に、これ以上負担をかけるわけにもいかない。今は、自分の救助に戦力を割くべきではない、と判断する一方で、さりとて一人ぼけっとしているわけにもいかない、と焦りが募る。
さてどうしよう。
青い空間で、彼は一人戸惑いの波に身を委ねていた。
戦場でぼうっとするというのは、ひたすらに妙な心持ちだった。彼にとって戦地の空気とは、皮膚に馴染みすぎるほど馴染んだ、慣れ親しんだものである。それでも、このようにぼんやりしたことなどありはしなかった。当たり前だが。
海流に乗ってワカメのようにゆらゆらなびいていると、段々と眠気すら湧いてくるから不思議だ。出血がそれをもたらしているのは分かっていても、母なる海に包まれているせいだろうかとまで思ってしまう。
そのときだった。さあっと、太陽の光が一直線に彼のいる地まで届く。薄暗い青は一瞬にして透明な、何と言ったらいいのだろう。透かされた海の色は、これまで見たことがないものだった。重い瞼でうっとりと海面を見上げると、こちらに向かってくるあざやかな赤が見えた。
「おはなみ?」
ことん、と耳の中に転がり落ちた慣れない響きにわずか首をかしげ、ジョーの言葉をなぞるように呟いた。
「うん。日本ではね、桜が咲くと連れ立って見に出かけるんだ。"お花見"っていうと桜を見に行く、っていう意味なんだよ」
「桜は日本では一番愛されている、って聞いたことはあるけど本当だったのね…」
「だからちょっと、その、一緒に見に行かないかな、と思って」
ちょうど見ごろの時期だし。今日は天気も良いし。平日だから人もそんなに多くないし。えーと、迷惑じゃなかったら。
「あ!もちろん無理にってわけじゃないから!他に用事があるんなら、その」
どぎまぎしながらもあれこれ並べ立てたあと、急に居心地が悪くなったのか顔を真っ赤にしたジョーは、まるで途方に暮れた仔犬のようだった。
明らかにこういった事態に不慣れとわかる、そんな自分がフランソワーズの目にどう映っているのか。それを考えると身の置き所がなくなってくる。
一方のフランソワーズはというと、気付いているのかいないのか、おっとりとジョーの顔を覗きこんで、言った。
「一緒に行ってもいいの?」
弾かれたように顔を上げると、穏やかなフランソワーズの表情が目に入った。
「あ、ありがとう」
「お礼を言うならこっちの方だわ。今日はとても気持ちの良い日なんだもの。散歩にはきっとぴったり。…誘ってくれてありがとう。本当に嬉しいの」
何か持っていく?
歩くだけだから、そんなに荷物はいらないと思う。
どこまで行こうか。
近くの公園だけだともったいないわよね。
「気持ちの良い散歩のコツを知ってる?ゆっくり歩くこと。空気をすうこと。風をほほにかんじること。浴びた陽の光を大切にすること」
こんな日には、二人で歩くことがきっと世界で一番贅沢な時間の過ごしかたなのです。
「あれ、ジョーいねえのか」
「出かけたよ。フランソワーズと散歩だってさ」
「散歩ぉ?あの二人がか?」
「何なんだよそのリアクションは」
あごをかぽーんと落として珍妙なポーズをとるジェット。ピュンマは一応礼儀としてつっこみを入れた。
「ちぇっ。暇だからジョーでも誘おうかと思ったのによ」
「野暮なこと言うなよ。鈍いやつだなぁ」
「は?鈍いって、俺がか?何でだ」
「わかってなかったのか…」
まるで珍獣でも見るかのようなピュンマの目つきも意に介せず、ジェットはソファに長々と横たわった。
「あー。腹減ったなぁ」
「何か食べたらいいじゃないか」
「勝手に食ったらフランソワーズの奴がうるせえんだよ」
「なら、自分で買い物に行けばいいじゃないか」
「俺、道知らねえんだ。だからジョーに道案内させようとしたのによー」
そんな理由で誘い出したとしたら、それこそフランソワーズが怒るだろうに。
「あー!はーらーへーったー!!」
「うるさい、ってソファの上で暴れるなったら!」
「くそ、動いたら余計に腹減った…」
(やっぱり馬鹿だ)
「そういや、ジョー達は一体何しに出かけたんだ?」
「お花見だってさ」
「オハナミ?」
「ほら、サクラが咲いているだろ。あれを見に出かけたんだ」
「サクラぁ?何だってわざわざ花なんか」
「少しくらいは花を愛でる心を持てよ。モテないぞ」
「モテるのと花と、一体どういう関係があるんだ」
「花くらいじっくり見ないと女の子から野蛮だと思われるのさ」
そう言うピュンマも、オハナミとやらを解しているかどうかは怪しいものだ。ジェットはそう思った。
「サクラ、サクラねぇ。…あーサクラのこと考えたらまた更に腹へって来た」
「いやなんでだよ」
「サクラってほら、あれだろ。枝にこうモコモコついてるみたいに見えるんだ。あれがうまそうでさー」
言っているだけでも幸福そうなジェットにため息をひとつつき、ピュンマは立ち上がった。
「わかったよ。とりあえずコンビニでも行こう」
「お、いいね。おごってくれるのか?」
「あのな、僕でもそこまでお金持ってないよ」
「先生ケチだぜ。それじゃ女の子にモテないんじゃねえの」
「うるさいよ」
ジェットの胃袋に見合うような財布なんて、持ってないんだよ!
まぁまぁ。で、そっち食いたいもんある?俺はあれがいいな。何だっけか、葉っぱ巻いてるピンク色の。
サクラモチ?
そうそうそれそれ!
きっと少々の買い物でも、今日は気持ちのいい散歩日和。
いってらっしゃい。
真っ赤な夕日を浴びながら、ドルフィン号は泥で汚れた体を波に洗われていた。008は長々と身を横たえ、規則正しく打ち寄せる波音に耳を傾けた。ドルフィン号のなだらかな曲線は、疲れきった体を優しく抱きとめてくれている。
静かな揺れが心地よい。自然、008のまぶたは閉じられる。
ふと、こちらに向かってくる気配が感覚に触れた。神経がさわさわとざわめく。しかし、008は警戒などしない。ここは敵地ではないし、それにもう戦闘は終わったのだ。
だから、向こうが近付いて声をかけてくるまでただ待っているだけでよかった。
「ここにいたのか」
「ああ。悪い、少し休みすぎだったよな」
「いや、おれも休憩だ」
起き上がった008の隣に立ち、004は持っていたフラスコボトルを海へ掲げた。一口あおると008にボトルを差し出す。漂う香りから、中身はウィスキーと知れた。
「よくこんなものが…。どうしたんだ?」
「007が隠していたのをくすねてきた」
悪びれもせず言ってのけ、奴には内緒だぜ、と付け加える。
「ばれるとうるさいからね、007は」
「まったくだ」
008の手に渡ったボトルは、さっきと同様やはり海に向けて掲げられた。鈍く光る銀色が海を映していた時間は、004のときよりもほんのわずか長かった。
ああ、故郷の夕日だ。
よぎった感慨をまぎらせようと、中身を一気に喉へ流し込む。とたんにむせ返った008を、004が呆れたような目で見やった。
「子供か、お前さんは。慌てなくても逃げやしないだろうに」
「そりゃ確かにそうだろうけど――」
「あーッ!てめえら二人で何飲んでんだよ!」
「子供に残りを全部取られる、ってこともあるだろ?」
「……確かにそうだ」
「って、あっ、おい、ちょっと!何も海に流すこたねえだろ?」
「やかましい!お前に飲ませるための酒じゃねえんだ」
008はけらけらと笑った。ちくしょう、酔うほど飲んだのかよ、とそれを見た002はふてくされる。そこへ騒ぎを聞きつけ007が上がってきて、空になったボトルを発見し崩れ落ちた。我輩のとっておきが!
004は002に押し付けようとしたが失敗し、結局三人そろって追い回されてしまう。しばし、海の上はどたばたと騒がしくなる。
うるさくしてすまないね。でも、うまい酒でチャラにしてくれないかな。また来るよ、帰ってくる。ここに。そうしたら一緒に飲もう。話していないことがたくさんあるから。
息を切らせた使いの子供が戸を叩いた。寒さに頬を真っ赤にして、赤子が無事取り上げられたこと、母も子も共に息災だと告げる。
子供は赤子の生まれるところを初めて目にした興奮に目を輝かせ、彼の手を強く引っ張った。
早く早くと急かす子供をなだめ、彼は雪の降りしきる外へ出た。もうこんな時刻だというのに、街は祭りの気配が色濃く騒がしい。彼らの住む一角にもその熱気が伝わってきていた。だがこのあたりは静かだ。ほとんどの者は街の祭りにかりだされ、今も働いている。赤子の父もその一人だ。きっと気もそぞろでいることだろう。
空は一面雪雲に覆われていたが、遠くかすかに山の端が白んでいるのが見える。ならば今日生まれた赤子は、太陽と共に生まれ出でたのだろう。それは赤子にとって、喜ばしいことに違いない。
彼は足を止め、そっと耳を澄ました。語りかける声が聞こえはしまいかと思って。新たな子が生まれた、今この時ならば。
だがどれほど願っても、彼の耳は何らの声も捉えることは叶わない。声が消えてしまったわけではなく、ただ彼の心が大地から離れてしまっているからだ。そして今では、声を聞くことのない者のほうが数多いのだ。それどころか、信じようとしないものも少なくはない。
彼ですら聞こえないのだ!ならば誰が子らを導いてやれるだろう?鉄の家に住み、大地と共にあることすら難しい今となっては。
不思議そうに見上げる子供の頭を撫でてやると、彼はまた歩き出した。長として赤子の誕生を祝うために。父祖の伝えるものを何一つ持たない、名ばかりの長ではあったが…。
待ち構えていた女たちは、この上なく尊いものを扱う手つきで赤子をおしいただき、彼の手に渡した。その瞬間、火のついたように泣いていた赤子が、ほんの一瞬だけ泣くのをやめた。
真っ黒な赤子の目と向き合った彼は、この上ない驚きを感じた。
最後の子供。この大地に根ざして生まれる最後の子供だ。
彼が抱き取ると、赤子はまた大きな声で泣き出し、目は再び閉じられてしまった。しかし間違いようはない。彼は震える膝をつき、赤子を掲げ持った。
今、確かに彼の耳に声が届いた。間違いない。太陽と共に現れ出でた生命は、大地に連なる子として生まれたのだ。