けんかをした。
というより、不機嫌にさせてしまった。理由?些細な言い争いだ。タネは聞くな、おれも覚えちゃいない。どのみち、いつまでもいい年齢をしたおとな二人がいがみあうほどのことでもなかったはずだ。だから実を言うと、食事に行こうと誘ったのは機嫌を取ろうと思ったからだった。
自分でも野暮、単純のきわみだとは思うが、そんなやりかたしか、よく知らん。
「中華料理が食べたい」
「…なんだって?」
「わたしは・ちゅうごくの・りょうりが・たべたい・です」
わざわざ引き伸ばすようにして言わなくても。いや、それよりもなぜ中華料理なんだ。中華料理だと?いったいどこで食わせてくれるっていうんだ。
「あなたが食べたいものを言えって言うから答えただけよ」
しれっとして返す、その澄ました顔!なんなんだ、怒ってるのか、まだ。勘弁してくれよ、と口の中で呟いたつもりの言葉が聞こえたのか、それとも長い付き合いというやつでばれたのか、中華料理じゃなかったら行かないわよ、ときたもんだ。
「なあ知っているか。中華料理っていったらな、飛行機や椅子まで食っちまうんだぜ」
「え。嘘」
「嘘なもんか。この前新聞で見た」
「…あなたが取ってる新聞って例のあれじゃない。友だちが作ってるっていうタブロイド」
「そうともいう」
飛行機はさすがに無理だ、だから今日はほかのメニューにしてくれ。いや、もしかしたら飛行機だって意外とうまいのかもしれないが。
ああ、いつか近所に来ねえかな、中国人。そうしたら毎日飽きるまで中華料理を食えばいい。
「仮面をかぶり、姿をまとい、数々の人生を演じてきたからであろうか。古くからある劇場では、亡霊の目撃談が相次ぐ。
緞帳の影にひるがえる白い影、深夜の舞台に響く苦悶の声。こうした話は、劇場に出入りしたことのある人間なら誰でも聞いた覚えがあるはずだ。
中でも演劇関係者の間で語り継がれてきた、有名な話がある。
『見事な変わり身のわざを持っていたよ。あれは名のある奇術師じゃなかっただろうか』
『目の前でくるくると顔を変化させていくのです。特殊メークを生業とする今なら分かりますが、あれは不可能としか思えません』
『ふらりとこの劇団に居ついて、いつのまにかやめてしまっていたのがいた。役者としては……まあ大したもんじゃなかったと思うが。ただ、メーキャップについては誰も真似できなかったな。聞いてみても、はぐらかされるばかりで何一つ教えちゃくれなかった』
『よく覚えています。父に連れられて、場末の小さな劇場に行きました。美女が振り返ると老人になり、老人が振り返ると獣になり、獣が振り返ると今度は青年になる。まだ小さかった私は、夢中になって見ていました』
噂である。
その人物は弱小の劇団にだけ現れ、数年間所属したあとふらりと消えてしまう。
いや、誰とも組まず一人で舞台に立っていた、と話す人もいる。
様々に語られるが、年来も声も顔も性別もばらばらであり、正体は分からない。共通するのは、瞬時に顔を変えてしまう技術を持っていることのみ。
ただ証言を辿っていくと、半世紀以上舞台に立ちつづけていることになるため、同一人物とは考えられない。おそらく、誰かから誰かへと、技術が受け継がれていっているのだろう。
どれほどの役者でも、人としての寿命を超えて生きることはできない。
しかし、演じる人を代えながら、一つの技術――芸が長年伝えられているというと、まるでその芸が生き物のように感じられないだろうか。
この記事を書いている今も、このロンドンのどこか小さな舞台で、変わらず誰かが至芸を披露しているに違いない」
「生きているってのはいいことだ。最近そう思うようになった」
ハインリヒは黙った。なぜならグレートが口に出したのはそれまでの会話とまったく関係のない台詞だったので。確か自分たちは、急に人数が増えたせいでたまった洗濯物を干していたはずだ。マットレスを陽に当てていたはずだ。どうした、風にひるがえる紳士下着に人生の極地でも見出したのか。
しかし、ハインリヒは黙っていた。うっかり返事をしてまたグレートの妙なとんち問答に付き合わされたあげく、気力を奪われるような目には合いたくなかったからだ。
「生きていれば忘れることができる。なくなりはしない、が、おお、そはあるかなきかのかそけきもの…」
それはおそらく何かの台詞だったのだろう。ハインリヒは何も言わず、グレートが視線を向けるほうを見ていた。つまり、座り込むピュンマの背中を。
しなやかな体躯を弓のようにひきしぼっている。じっと微動だにしない背を見ていると、いまにもほとばしる感情が矢となって放たれるかとさえ思われた。昨夜、急を告げにギルモア邸に姿を現したときからずっと。
「忘れてしまうことだよ」
振り返ると、とっくにグレートは何事もなかったように洗濯干しを再開していた。とすると、いまのは完全に独り言だったのか。だがハインリヒの耳にはグレートの声が妙にはっきりとこびりついていた。
実は、とギルモア博士が何やらあらたまった様子で切り出すので。
「もう、博士。そんなこと気になさらないでください」
フランソワーズは微笑んで言った。
「そうですよ。僕だって博士のお供くらい務められます」
「う、ん……。まあ、しかしな。わしの勝手に付き合わせるようで…」
気がとがめるんじゃよ。あとの言葉は口の中でもごもごと消えた。尋常でない耳を持つ二人には、はっきりと聞き取れたけれど。
つまり博士は、学会に参加したいと言いたいのだった。
もちろん博士が何かを発表するわけではない。いつ来るとも知れぬ追っ手から逃れる身だ、うかつな行動は避けるべきだった。
ただどうしても、じかにこの目で見聞きしたい研究発表があるのだ。それで行ってもいいものか…と考えあぐねた末に相談しにきたのだという。
「しかしのぉ、聞いても面白いものじゃないかもしれんぞ」
「博士。どうしても一人で行くとおっしゃるなら、私たちが後ろから勝手に追いかけていきますよ」
「それこそ今更ですからね。博士が一人で行くほうが心配なんですよ、僕らとしては」
「どういう意味じゃ、それは?!」
というわけで、ジョーとフランソワーズは博士のお供で出かけることになった。もちろんイワンも一緒に。
大変なのはそれからだった。
まずギルモア邸には、生活に必要な最低限のものしかない。いざ旅行しようにも、服も鞄も酔い止め薬もないのだった。メンテナンス設備なら、十分すぎるほど整っているのだが。
「フランソワーズ、もうこれでいいと思うんだけど」
「だめです。服に着られてるんじゃ、学生にも見えないわ」
そういうわけで、みんな準備に大わらわだ。一番大変だったのはジョーだった。いや、むしろフランソワーズか。
いわゆる「きちんとした、よそ行きの格好」をするにあたり、妙に張り切ってしまったのだ。旅行にかこつけて衣装を買い込むとか、そんなことをしたのではない。が、ジョーの服をとっかえひっかえ、ためつすがめつ吟味している。
スーツを一着買えばいいかなぁ。のほほんと考えていたジョーは認識の甘さを思い知った。
「まあまあ。これから入用になるかもしれんじゃろう」
助け舟を出してくれたのは、コズミ博士だった。
着いてきなさい、と歩き出した博士の後ろを、鴨のヒナよろしくついていった一同は、百貨店に足を踏み入れた。コズミ博士は、なじみらしい店員に若者二人を任せ、にこにことその様子を見守る。
「ギルモア君、新調したらどうじゃね、きみも」
「いやいや。わしは今着ているこれが、一番肌にあっとるんじゃよ。のうイワン」
ギルモア博士は腕の中で眠るイワンに声をかけ、口元を緩めた。
ハインリヒには、日本を訪れると必ず行くところが一つある。コズミ博士の家だ。
今もコズミ博士は、最初にハインリヒたちが日本へやってきたときと同じ場所に住んでいる。当時博士が住んでいた家は、BGの追っ手との戦いに巻き込まれて壊れてしまい、少し小さくなってしまったが。
そのとき囲碁の相手をした縁で、折をみて一局指すのが恒例だ。
メンテナンスをひかえた今日、背中を丸めてうんうん唸るコズミ博士と相対し、ハインリヒは不適に笑って構えていた。勝利を確信した笑みだ。コズミ博士もそれほど弱くはないはずだが、戦績は今のところ弟子のはずのハインリヒを一歩追う格好になっている。ちなみにギルモア博士は更に弱く、どうもコズミ博士には一度も勝ったことがないらしい。
と、そのとき電話のベルが聞こえた。
集中しきっていたコズミ博士の肩がわずかに跳ねる。ああでもないこうでもないと頭の中で棋譜を描いているのだろう。気遣ったハインリヒは「おれが出ようか」と立ち上がった。
電話の相手はフランソワーズで、夕食の準備ができたからと帰宅を促すものだった。よければコズミ博士も一緒に、と。それを伝えに、夕日の差し込む縁側に戻ってくると、…何やら違和感を感じる。
「じいさん」
「んー?」
「石、入れ替えてないか?」
「はて、そうじゃったかのう。近ごろとんと記憶が頼りないんじゃ」
手を考えようとして石を実際に動かしてみたら、碁盤がぐちゃぐちゃになってしまったとは本人の弁。だがハインリヒはそれ以上何も言わなかった。おとなぶったわけではない。早く戻らねば食事が冷めてしまってフランソワーズが不機嫌になるからだ。
ところで、ギルモア邸まで行くにはカーブの多い崖沿いの道を行かねばならない。そして、いくら都心を離れた郊外でも道が混むときはある。今日がまさにその日だった。
よろよろよろよろ。コズミ博士は慎重にハンドルを切っていく。車は派手な弧を描いてカーブを曲がっていった。ガードレールが車体何ミリ向こうを過ぎてゆく。
「じ、じいさん、今のはちょっと、まっ待て前!前だ!」
「ほっほっほ。大丈夫大丈夫」
なにが大丈夫だ。分かっていない。全然分かっていない。いっそ運転を交代しようかと思ったハインリヒだが、自分が日本の免許証を持っていないことに気づいて歯噛みする。結局、かれは妙なところで律儀なのだ。しかも背後には。
「なあ、後ろがかなり渋滞してるんだが…」
「いや、こういうところで慌てたら事故の原因になるんじゃよ」
もうちょっとスピードを上げろ、というメッセージは伝わらなかったようだ。なんだかハインリヒは後悔した。いろいろと。
というわけで、コズミ博士が運転する車は、長い長い列を引き連れて道をよろよろ走っていったという。
到着し、車から降りたハインリヒはサイボーグにもかかわらずひどい車酔いだったのはまた別の話。
更に、コズミ博士に対抗意識を燃やしたギルモア博士が免許を取ると言い出したのもまた別の話である。