モノカキさんに30のお題

06. レトロ

 それはフランソワーズのものだと思ったのだが、本当の所有者は実は博士だった。

 おそらくは何の気なしだろう。スーツの内ポケットから、古びた懐中時計を取り出した博士を見、(そういえばこの人はいつもスーツをきちんと着ている)と思う。頭の中にある"博士"のイメージは常に白衣で、たいていは眼鏡をかけた老人だ。付け加えるならば、そして髪の毛がいくぶんか後退している。
 そういう、自分の抱いている勝手なイメージを反芻しながら、ジョーはまったく別の言葉を紡ぎだした。
 「随分と、古そうな時計ですね。大切なものなんですか?」
 「うん、そうじゃな…。母の形見なんじゃ」
 そう言って、昔を懐かしむ目で時計をなでる博士の手はいかにも愛しげで、深い時間の溝と哀しさがこもっている。ジョーはほんの少しちりりと火花を感じる。きっと僕は「羨ましい」と思っているのだろうな、と彼は頭の隅くたでぼんやり考えた。

07. 携帯電話

 「Noooooooooooooooooooo!!」
 非常にアメリカ人らしい悲鳴をあげながら飛んでいくのは、当然のことだがジェットだ。というか、彼以外の人間があのようなオーバーアクション付きの、安っぽい悲鳴をあげたらそれはそれで怖い光景だ(まあ、今の彼は飛んでいる最中なのだからアクションもできないが)。
 たとえばフランソワーズはどうか。愚問だ。似つかわしくない。
 ジェロニモならば、悲鳴をあげるところがまったく想像できない。
 ハインリヒは…、いやよそう。わざわざ恐怖で脳を凍結に追い込むこともあるまい。
 「ピュンマ」
 呆然とジェットを見ていたピュンマの意識を、冷静な声が現実に引き戻す。
 「やあハインリヒ。思ったより早かったね」
 「休暇がきちんと取れてな。それで、あの馬鹿はいったい体何をしているんだ」
 「暴走している」
 「?」
 「かなりメンテナンスをさぼっていたらしい。博士達にせっつかれてようやく日本に来たとたん、こうだ」
 「…なるほど」
 放ったらかされていたエンジンがついにイカレたか。可哀相に、こき使われても長年耐え忍んでいたのだろう。だがそれも限界点を突破してしまったようだ。それもぶっちぎりに。
 「HEEEEEEEEEEELLLLLLLPPP MEEEEEEEEEE !!!!!」
 それにしてもすごいスピードだ。加速装置でも作動しているのだろうか?急降下、続いて芸術的な角度の方向転換。加えて減速は一切なし。そんな状態でも悲鳴だけははっきり聞こえるのが謎だ。
 「なんて見事なんだ。あれはcos28°くらいかな?オリンピックに出たら金メダルものだね」
 淡々とわけのわからない賞賛の言葉を口にするピュンマ。完全にパニックに陥っている。仕事が終わってすぐに飛行機に飛び乗ったハインリヒは、今になってどっと疲れを感じた。やけに肩が重い。だがこの状況を放置しておくわけにもいくまい。彼らはめだつことは許されないし、何よりご近所にも迷惑だ。
 「撃墜する。一発しか弾がないがな」
 「無茶だ!あのスピードだし、それに方向転換の予想がつかない!って、なんでミサイルが入っているんだ?!」
 「だが、他に方法があるか?」
 後半の質問は無視し、マイクロミサイルの照準を慎重に定める。こりゃ相当なバクチだな、と思ってハインリヒは笑みを浮かべた。
 「待つんじゃ!」
 「博士!」
 「ハインリヒ、いかにお前さんでも今のジェットを撃ち落すことは難しい。そこでじゃ、急造なんじゃが…これを使え」
 「これは?」
 「通信機を改造した。ジェットはGPS携帯を持っておる。これで追尾ができるはずじゃ」
 「しかし…リスクが大きすぎます!」
 「分かりました」
 「ハインリヒ!」
 「頼む。任せたぞ」
 ピュンマの抗議の声は無視し、ハインリヒはしゃがみこんで再びミサイル射出の姿勢をとった。チャンスは一度。弾は一発しかないし、はずせば余計な騒ぎを巻き起こすことにもなりかねない。
 ピピピピピ……
 追尾気が奏でる電子音が静かに緊張を高めるなか、不意にわずかな風がためらいがちに彼らのほほを撫でた。
 瞬間。静かに発射されたミサイルは、見事標的を撃墜した。
 「やった…」
 ピュンマか、あるいはギルモア博士のどちらかが感嘆に声を震わせる。ハインリヒは立ち上がって伸びをしながら呟いた。
 「世の中、便利になったもんだ」

08. 境界

 じぃっ、と見つめられて知らず足が止まった。ただ「見る」というのとは違って、体の奥や心の中まで全て見透かされてしまうような、射抜く力強さを持った。

 あなたはこっちに来るの?来ないの?

 静かに問い掛けられているように思えた。切羽詰ったほどの真っ直ぐさで、踏みしめたつまさきの向こう側が境界なのだと知る。
 振り返って、背後で喚く白衣の集団に迎えられるか。このまま前に歩いて真っ赤な服の集団と行ってしまうか。
 後ろで響く、ヒステリックで聞くに堪えない罵詈雑言を聞くにつけても、考えるまでもないことだ。どうも自分は寝ている間に何か訳の分からないことをされてしまったらしいし、どうみてもこのまま前を選んだ方が絶対に良いはずだ。
 今この足を押しとどめているのは、受けた視線の強さ。逃げることを許さないその眼から、自分は背を向けずにいられるのか。

 ここは、その境界線。

09.冷たい手

 だだっ広いシャワー室を使う人間は、もう彼を除いて他にはいない。
 安っぽいタイル張りの床、高さ約三メートルのところに何本も渡されたツヤのないステンレスパイプ。仕切りも、むろんカーテンなどもなく、パイプから定間隔でにょきにょき生えたシャワーノズルがまるでキノコのようだと軽口をたたきあった。
 笑えない冗談だ。
 まったく言った人間のセンスを疑う。

 「…冷てえ…」
 素っ裸で床に仰向けに転がって、ジェットはぬるい湯を浴びていた。水流が当たっている箇所はともかく、ぬれた床に直接触れている手などはかなり冷えていた。しかし気力すらも使いきり、指の先までも疲労しきって姿勢を変えるのも億劫だ。
 かつて。かつて温められた水は全てのノズルから放たれていた。今は一つからしか出てこない。体温とほぼ同じ温度のそれは、冷たさも暖かさも、ぬるさすらも感じない。まあ埃と泥を落とすのには役立つか。
 しばらくの間、しぶきが顔にかかるにまかせていたが、やがてそれも鬱陶しくなって顔に手のひらを被せる。芯から冷たくなった手のひらは、自分のものでないような違和感を感じさせた。
 とにかく疲れている。

 このシャワー室を使うのは、今日で彼しかいなくなってしまった。

10.ドクター

 「はじめまして、ドクターギルモア」
 僕はコズミといいます。控えめに差し出された右手と、にこにこした笑みを交互に見る。
 「…どうも」
 いささか不自然な数秒が過ぎ、ぼそりと言ってこちらも右手を出した。幸いにも、相手は気にしなかったようだ。
 「ベンジャミン教授から言いつかっています。宿舎に案内しますから、こちらへどうぞ」
 ギルモアは少々驚いていた。おそらく留学生なのだろう。見るからに人の良さそうな、折り目正しい青年である。今まで周りにいなかった種類の人間だ。なるほど世界には色々な人間がいるものだ――
 などと認識が一般常識から離れていることにも気づかないまま、ギルモアは鞄を持ち直して歩き出した。
 「ドクターは、確かドイツからいらしたんですよね」
 「ええ、まあ。参加していた企業の開発部門が凍結されることになりましてね。ですが、その方が良かったのかもしれません。ハーバードに来ることなどできなかったでしょうから」
 「では、ちょうど良い時にいらしたことになりますよ。ああ、ほら。ここは宿舎の隠れた名所なんです」
 コズミの指す方を見れば、目を見張らんばかりに鮮やかな大輪の薔薇が咲き誇っていた。決して広くはない庭に木々が注意深く配置されており、一帯に様々な色彩があふれている。夕陽を浴びて橙色の光に融けていくような花びらは、いっそ窒息死しそうなほどだった。
 ギルモアは、同年代の男性と比べて特に花に興味があるわけではなかったが、この時ばかりは感嘆せずにはいられなかった。
 「見事なものでしょう。この中庭の薔薇は、今が最も美しい時期なのです。まるで、あなたを歓迎しているようではありませんか」
 そういえば、身近に花がある事を意識したのはこれが初めてかもしれない。そんなことを思った。

 ところで、彼がてっきり学生だとばかり思っていた相手が、自分と同じ「ドクター」だと知るのは翌日のことである。