ひとが他人に踏み込まれて不快さを感じる距離は、およそ40cm前後なのだという。
それを知ったとき、ひどく痛くなった。
なぜってハインリヒがいつも自分を置いておくのは、37.5cm離れた位置だったのだから。そしてそのことが親密さを表しているのではない、ということは自身が一番よく知っている。
すぐさま左手で首すじをかき切れる長さ。それがアルベルトが許す彼への距離だ。
灰色髪の死神が嘆いて言った。
「なんと寂しく、ぞっとするほど空々しいところだろう。まるで、僕以外の皆が死んでしまったみたいじゃないか」
しかしまたすぐに死神は嗤って言った。その表情の変わる様は、まるで無造作に仮面を付け替えるようであった。
「けれど、僕にこれ以上似合いの場所も無いだろう。下された罰だというのなら、僕は喜んでこの身に受けよう。なぜなら僕は罪びとなのだから」
すると一匹の道化師が登場し、高く高く笑い声を上げた。哄笑を聞きつけた死神はただちに冷たい怒りの表情と共に、その大鎌を振り上げた。道化師はぎょろりと光る大きな眼と、先の丸まった長い尾を持った緑色の生き物だった。死神は道化師の名を知っていた。
「ヤアヤァ、これは失敬失敬。何ァに何、貴殿を愚弄するつもりはついぞなかったのだがね。お気に障ったのなら謝罪しよう」
道化師は黒い山高帽を脱ぎ、これ見よがしに一礼した。しかし死神は、構えた鎌を下ろすことはしなかった。死神は道化師の名を知っていたからだ。彼の名はカメレオンといった。
「お前はここに存在してはならないものだ。それがどうして地を渡ったか。今すぐにでも答えねば、その首切って二度と舞台に立てぬようにしてやろう」
当てられた刃など微塵も気にかけず、道化師は飄々と笑って答えない。
「嘆くことはあるまいよ、死神どの」
道化師はパイプの煙をぷかりと輪にして吐き出した。
「我等は須らく皆許されることなどない罪びとなのだから」
もう今はなくなってしまったが、子供の頃近くに洒落た風情のアパートがあった。と、いってもその時分は「洒落た」などという言葉はもちろん知らなかったのだが。
しかし、まるで絵本に出てくる城のような尖った屋根と、一面真っ白に塗られた壁などは、幼な心に他のアパートとは違った雰囲気を感じさせたものだった。
同級生や、施設で暮らしていた同年代の少女達はやはりそのアパートに憧れを持っていたようで、「大きくなったらあんな家に住みたい」と話していたのを覚えている。
自分のほうはというと、憧れも関心もさほどあったわけではない。だが何故か、そのアパートに据えつけられた螺旋階段の一番下が気に入りの場所で、叱られて飛び出したあとなどはよくそこに座り込んでいた。
あの頃、沈む陽を見ながら何を考えていたのかはもう、覚えていない。
けれども螺旋階段を見かけるたびに、段差に膝を抱えて座り込んでいた自分の姿を重ねている。
ふぅぅいぃぃぃぃーーーーーっ
その年はどういうわけか、常よりも過ごしやすい夏だった。とはいえ、昼の間はこの国独特の蒸し暑さが支配している。それでも夕方ともなれば、気温がずっと下がって心地のよい風が吹いた。
夕食後のことだった。フランソワーズが風を入れようと窓を開けたとき、まるでそれを待っていたかのように円を描くふたすじの光が飛び込んできた。
突然目の前に現われた虫たちに驚いて、彼女は小さな悲鳴をあげた。思わぬ来訪者たちは、そのまま部屋の中をぐるりと飛びめぐって、寛いでいたピュンマとジェロニモにも何事かと顔を上げさせた。
外の宵闇の中ではうつくしい光の軌跡を引いていた彼らも、家の灯りのもとで黒い姿を顕わにしていた。その差異から、かえって気味の悪さを感じてしまう。あれ、どうして虫が、と本を閉じてピュンマが言った。
「明かりに引きつけられたのかしら…」
外に逃がしてやろうと、カーテンに止まった彼らをつまもうとした瞬間、嫌がってかあっさりと逃げてしまった。む、とフランソワーズはむくれてしまう。虫取り網でも持ってこようかしら、と言ったところを見ると、あと少しというところで逃げられてムキになりかけたのだろう。
「虫取り網かあ。それは、ジェットが喜びそうだね」
ピュンマの台詞にフランソワーズも笑いながら同意した。それまで黙って事のなりゆきを見ていた男が、ゆっくり口を開く。
「無理に捕まえないほうがいい。夏、このころやって来るものたちは、みな死者が姿を変えたものだというから」
「君のところの言い伝えかい?」
ピュンマが問うと、ジェロニモは首を横に振って続けた。
「いや、以前にジョーから聞いた話だ。古い風習で、人々は戻ってくる死者たちを迎える祭りを行うのだそうだ」
「じゃあこの虫も、私たちのところへ帰ってきた魂なのかしら…」
ジェロニモの言葉はいつも重いようで柔らかく、身の内に自然としみわたる。フランソワーズは、並んで止まっていた虫たちに再び手を伸ばした。さっきとは違い、触れれば壊れそうなものを、いとおしむような手つきで。
ふぅぅいぃぃぃぃーーーーーっ
だが、彼女の手がまさに触れると思われた瞬間。かれらは飛び立って、窓の向こうの闇の中へ行ってしまった。後に残ったふたすじの光の軌跡も、泡雪がとけるようにすぐに見えなくなった。
あまりに現実味を欠いていたので、はいそうですかとにわかに信じることはできなかった。もっと正確に言うならば、笑って済ませたくなる状況だった。
「なんでこんなことになったアルかねえ」
気持ちとは裏腹に、のんびりした口調でひとりごちる。放り出された部屋は円形状のだだっ広いところで、どこもかしこもやけに白い。だがところどころに、何が原因でできたのか、あまり考えたくないような染みやら焦げ目が彩りを添えていた。
視線を上に向けると、はるか遠くにある天井と、動く黒い点が見えた。監視カメラだろう。そのままぐるりと周りを見渡す。床も壁も、つるつるした同じ材質でたとえ何か起こっても、壁をよじ登って逃げることはできそうになかった。
つまり。
「つまり逃げられんいうことネ」
006は自らを叱咤するように言い聞かせて、緩慢にしかし確実に近づいてくる戦闘機械に向かって身構えた。
耳障りな軋む音を響かせて、最後の機械が崩れ落ちる。広い室内は燃えかすの匂いがたちこめ、それが胸につかえて006は気分が悪くなるのを感じた。一応の換気はしているはずだったが、それも追いついていないようだ。焼けたゴムの匂い。その他もろもろ。
中途半端な破壊などせず、それこそ完全に燃やし尽くせば少しはこの匂いもマシなのだろう。だが、最近では一体一体にかかる手間のことも考えて最小限の破壊に留めることにしていた。
「はて。ワテもずいぶん慣れてしまったのコト」
訓練終了のアナウンスにまぎれさせて、聞こえないようにこっそり呟く。胸の何ともいえないむかつきは、まだ取れない。
そういえば、と以前頭の中に流しこまれた映像に思いを馳せた。あの映像では、まだ子どもといってもいいような若者たちが戦っていた。一見普通の人間と変わらない姿をしていた彼らも、程度は違えど自分と同じく体の一部が機械に替わっているのだという。
そのときは、よもや世間では機械が肉体の一部になってしまう病気でも流行っているのではないかと、妙な想像をしたものだった。
彼らも、今の自分と同じむかつきを抱えているのだろうか。
せめて美味しい料理でも食べていたらと思う。なにしろ、ここで出されるものといったら貧相でない方が少ないので。
006は、もし彼らと顔を合わせたなら、そしてその時に調理道具を持っていたなら何を作るか考えはじめた。その若者たちが冷凍保存されているとも知らずに。