「なぁ」
と、一言発したきりジェットは再び黙りこんでしまった。
張々湖はせわしなく動く手は止めないまま、いぶかしげに眉をひそめてそんなジェットを横目で窺う。言葉を濁すなど、常に過ぎるほどまっすぐなこの青年にしては珍しい。
「さっきから何アルか。そんな所で座てるヒマあたら、手伝うヨロシ」
ほぼ同時にトン!とリズミカルな音を立てて、手の中の包丁が鮮やかにひらめく。瞬時に薄くスライスされたローストハムが一山、形良くまとめられてまな板の隅に移動した。
「ちょいとおかしいネ。ははぁ、さては失恋でもしたカ?」
「……絶対に違うって分かってて言ってるだろ」
「何もないならただの邪魔ヨ。ほれ、さっさと退く!」
「あー…。あのよ、何つーか…。ちょっと聞いてもいいか?」
「長くないならダイジョブヨ。ワテ、見ての通り忙しいからネ」
「すみません。あとで手伝います」
ジェットの殊勝な調子に、張々湖はかえって気味悪さを感じた。「あの」ジェットが、先ほどから一体どうしたというのだ。これではまるで別人だ。さてはやはり失恋でもしたか。相手はフランソワーズか、それともアメリカで薄幸の美少女とでも出会ったか。
「若いうちはネ、みんな手の届かない相手に恋するヨ。くよくよせずに明日を生きる。これ大事」
「だから失恋じゃねえって!…ちょっと聞きづらいんだよ」
一瞬声を荒げたものの、決まり悪そうに頭をばりばりかいて、再び声が小さくなった。行儀悪くもたれかかった椅子の上、しょぼくれた頭があっち向きこっち向きした後、重大な決意でもしたように勢い良く跳ね上がる。
「あんた、泣いたことあるか?」
「そりゃあるのことヨ」
返ってきた答えは、ジェットの予想と違ってずいぶんとあっさりしたものだった。まるで、今晩の献立を告げるのと同じような。
「ワテかて相応に人生送てるのヨ。泣いたことの一つや二つあるに決まてるネ」
思ったことがすぐ顔に出ているのを見て取ったのだろう。こちらの方を見もせずに言われて、ジェットは思わずうろたえた。とはいっても、そういうすぐ見抜かれるあたりがジェットのジェットたる所以だ。
「例えばどんなときにだよ…」
顔色を読まれたのが気に食わなかったらしい。顔をうずめたシャツの襟首から聞こえる声音は、やや憮然としたものである。
「ふむ、大切に育てた豚を殺さなきゃいけんかたときかネ」
「……」
「飢え死にしかかてたからネ。そういうときは豚より食べる方が大事。言っとくけどシャレ違うヨ?お腹空いて空いてたまらんかたから、寂しいとも何も考えんかた。だから泣いたのは、だいぶ時間たってからのことアルけどネ」
最初から落ちこんでいたらしいところに、こんな話を聞かされてよけいに心が沈んだのだろう。うつむいて黙ってしまったジェットをさすがに気の毒に思って、張々湖は重ねて言った。
「そういえば、改造されて一つだけ良かたと思うことがあたヨ」
「?」
「たまねぎをいくら切っても、涙が出なくなタ」
さあ手伝え、とばかりに目の前に差し出されたたまねぎの山を受け取って、ジェットは半分泣いているような笑みを浮かべた。
泣きたいときは、たまねぎがお供になるのだ。
ちなみに、彼ら二人では改造の箇所がそれぞれ違ったせいなのか、ジェットはたまねぎを切りながらしばらく号泣する羽目になったという。
飛ぶってのは、どういうことか?……そうだな、呼ばれてるってのが一番近いかな。ずっと呼んでるんだよ、切れ目のない声で俺を。眼を開けてるときも、寝ている間もだ。何にって、空に決まってるだろ。信じないかもしんねぇけど。
呼んでいるんだ。空が。
パイロットになりてぇって奴がいたんだ、ガキのころのダチで。あいつがそういう言い方を、確かしていたんだと思う。馬鹿に高いところが好きな奴で、俺たち悪ガキ連中も一緒に、今日はあっちの屋根、明日はこっちの屋上、みたいな具合だ。たぶん言われてたな。「煙と何とかは高いところが好き」!
でもあいつの目当ては、もっとずっと上のほう、空そのものだったのさ。いつか絶対パイロットになる、っていつも言ってたな。あいつ、今どうしてっかな。
で、だ。俺は初めて自在に空中を駆け回れるようになったとき思ったね。間違いなく、ここには俺たちを呼ぶ何かがいるって。空へ向かって足裏から貫かれた線があるみたいに、最後にはみんなあそこに行っちまうんだ。
俺はそんなとき、海も雲も全部真下に置いてけぼりにして、眼ごと全部がぐるぐる回ったような気分になるよ。
なにぃ?そんな目には合いたかねぇだと?くそ、分からねぇか。しかたねぇ。ま、その気になったらいつでも言ってくれよ。俺が連れてってやるから。
「これあげるわ」
「……なんだ?」
ころりと手のひらに零れこんだ小さなチョコレートを見て、彼はうめき声を上げた。ちょうど親指の爪と同じくらいの大きさの、赤いアルミ箔に包まれたチョコレートがひとつ。
「いいからいいから」
投げ渡した当の本人は、ころころ笑ったそのままで、あろうことか足取りも軽やかに歩いていく。何がそんなに嬉しいのか、そのまま踊り出しそうな陽気さだ。
手にぶら下げたスーパーの袋のざわめきも、持ち主の気持ちを反映しているように思える。
ぽつねんと立っていることもできないので、訳がわからないなりに、後を追いながらチョコレートを口の中に放り込む。甘いもの、といえば普通砂糖の味しかしないものだが、これは舌走る苦さを帯びていた(そしてどちらかといえば彼好みの味だった)。
包み紙をポケットの中に押し込もうとして気づく。
『お値打ち品、超特大特価!!』
あれか。
私がまだ、ほんとうに19歳だったころ。
昔よく、冗談半分に言ったものだった。
「女って不便よねえ。いっそなくなってしまわないかしら」
もちろんそんな訳にはいかないことは分かっていたのだけれど、あのころは自分の体を微かながら嫌悪していたのだ。
定規で測ったように正確な周期は確かに便利ではあったが、前兆がなくとも近づいているのが判っていつも鬱陶しい。始まったときから特有の痛みはかなりきついもので、楽屋裏の片隅できゅうと体を丸めて鈍く重いその痛さをこらえていた。
ぬるり、と独特の感触がしたたるたび息を漏らす。どうしてこんなに汚らしく忌々しいものが、生まれてこない子どもを祝福するのだろう。これがあるだけでも私は他の人達よりも不運だ。
でもまさか、本当になくなってしまうなんて。ねえ?
本当に時たま、手術室のごみとして投げ捨てられた子宮を思うことがある。
「やはり紳士たるもの、品性の欠けたいでたちは好ましくない」
「ああ」
「かといって愛想のない、ましてや何ら自己主張のない服装も好ましくなかろう」
そうかもしれない。だが、やはり個人の趣味、あるいは好みにまかせるのが一番良いのではないだろうか。問題なのは、それを他人に押しつけることなのだから。
「さてモノクロームというものはどんな場合にも合わせやすい反面、無難なものに落ち着きすぎるきらいがある。よって、いかに洒脱さをみせるのもこちらの腕前というわけだが…」
「張大人」
「話は済んだアルカ」
「ああ」
威厳たっぷりに重々しく頷くと、頭からスミをかぶったジェロニモは、今の今までしっかりと掴んでいたよく喋るタコを突き出した。
「ゆでダコにでもしてくれ」
赤一色になってちょうどいいだろう。