もしも願いがかなうなら。
「ねえイワン、何か欲しいものはある?」
突如ドアが爆音を立てて開き、風圧でカーテンが根こそぎ吹っ飛んでもうもうと埃が舞い上がったと思うと、息を切らせたフランソワーズが立っていた。一所懸命に走って来たのだろう。汗で前髪が額にはりつき、その白い頬を真っ赤にしている様を見ていると、爆風が駆け抜けた一瞬前の光景が幻だったように思えてくる。
と、いうか幻に違いない。いや絶対そうだ。
世間一般でいう、恋する少年であるところの島村ジョーは、心の中でそう結論づけた。大きな瞳をきらきらさせているフランソワーズを見つめながら。
衝撃の余韻にぎーこぎーこと揺らいでいたドアが静かになるのを待ち、イワンは無造作に訊ね返した。
「ソンナニ慌テテ、一体ドウシタッテイウンダイ」
「だから!あなたがもらって嬉しいものが知りたいの」
僕もどうして君がそんなに慌てているのか分からないけれど、ベビーベッドが軋むほどくってかかることはないと思うよ。横にいるジョーは思った。おそらくイワンも同様だったろうが、無論二人ともおくびにも出さない。
「今まであなたの誕生日のお祝いしたことないんですもの。一人だけやらないなんて、不公平だわ」
彼らゼロゼロナンバーズは、普段は各国に散らばって暮らしているために顔を合わせるのはなかなか容易ではない。それゆえにか、フランソワーズは持ち前の細やかさを発揮して、各々の誕生日には何がしかのプレゼントを贈ることに決めていた。
無精な男どもも、彼女の誕生日には普段の心遣いに感謝の念をこめて各自からバースデーカードやプレゼントが送られてきた。そしてこの習慣をはじめてちょうど一年、フランソワーズはまだ誕生日を祝っていない人間を見出したのである。
「ナルホド。理由ハ分カッタカラ、今少シ落チ着キタマエ」
「だって、だって!ふっと思い出したら、いてもたってもいられなくなったんだもの」
こうまでフランソワーズの気が急いている理由など、イワンはあくまでそ知らぬ調子である。気持ちの伝わらない焦れったさに、フランソワーズは地団駄を踏んだ。
「花は咲いて、あと少ししたら散ってしまうわ。そして緑の葉が一面を覆ったと思ったら、もう夏になってしまうのよ」
秋が過ぎ、とりどりの葉が枯れ落ちると冬がやってくる。鮮やかな色は褪せ、そしてまた春になる。くるくると季節は巡る。
「一年のうちほんの一日くらい、あなたのお祝いをする日があってもいいじゃないの。でしょ、イワン?」
ぎしぎしぎしぎし。フランソワーズの掴んだベッドはまだ軋んでいる。
……壊れないかな。ジョーは不安になった。
ジェロニモ手製のそれは、ホームセンターで購入した木材でできているが、しょせん通常の素材である。そしてフランソワーズは仮にも戦闘用サイボーグ。彼女とて骨格や外皮が強化されているのだ。
「フランソワーズ、ソレハトモカク、ソンナニ顔ヲ近ヅケナクテモ会話ハデキルヨ」
「あら。ご、ごめんなさい。ジョー、私慌てちゃって…」
「いや、うん。いいよ」
何がいいのか自分でもわからないが、ジョーは曖昧に微笑んでみせた。
「それでね、あなたは誕生日が分からないけれど。でも私はあなたのお祝いがしたいのよ」
落ち着いたフランソワーズは、でもベッドの枠はきつく握り締めたまま、真剣な顔で言った。
「ソウダネ。僕モサスガニ改造サレル前ノ記憶ハナイカラ、生マレタ正確ナ日付ハ分カラナイナア」
「もう、そうじゃなくて!」
「ハハハハハ。ゴメン、チャント分カッテルヨ、フランソワーズ。アリガトウ」
「なら、言って?あなたの欲しいものは何なのか」
「何デモイイノカイ?」
「もちろんよ!」
「そうだよ。僕だって、他のみんなだって気持ちは同じさ。だから、何でも言ったらいい」
「ジャア…」
Cry for the moon !!
「ヒルダ、おれのことを愛しているか」
…
………
(今、何か聞こえたかしら?)
たっぷり一分間は伺候定子、いや思考停止したのち、彼女はようやく己を取り戻した。なぜだろう。世界が白く霞んで見える。そういえば横にいる男から発せられた音声が鼓膜を振るわせた気がする。それが言葉だとは認識できなかったが。
だが全ては錯覚に違いない。仮にそうでなかったのなら、恐るべき事態だ。きっと天地がひっくり返るべき日なのだろう。
「ヒルダ?」
「今日は風がきついわね…」
びゅう。突風が二人の間を通り抜けていった。
どこかここではない遠くを見る彼女の眼差しを見、ハインリヒはいぶかしんだ。ひょっとして、聞こえなかったのだろうか。確かに、彼女が言うようにひっきりなしに強い風が吹きすさんでいる。念のためにもう一度聞いてみることにする。
「ヒルダ、おれは君のことを愛している。君の心を聞きたいんだ」
ひゅう。再び風が笛の音も高らかに吹き抜けた。
「…アルベルト、あなた酔ってるわね。昼間からお酒飲んでるなんて、ろくな人生にならないわよ」
「俺はいたって素面だ」
だが、びしと指をこちらへ向けてポーズを決めたマイスイートハートは、人の話をまったくもって聞いていなかった。
「分かったわ!私に言えないようなことしたのね!」
「どこからそんな結論が出てくるんだっ?!」
「ひどいわ。これまで色々あったから、だからこそ私たちの間に隠しごとだけはなしにしようって、そう約束したのに…」
おまけに涙をにじませた。周囲の視線がこれでもかと人相の悪い男の方に突き刺さる。
「昼間からお酒は飲むし、そのうえ隠しごとだなんて、あなた私に恨みでもあるの?」
「その発想の転換は心底素晴らしいと思うぞヒルダ」
「おだててごまかそうとしたって、そうはいかないわよ。さ、白状しなさい」
「何だかもうともかく俺が悪かったから肩を揺さぶるのはやめてくれ」
毎秒26回という驚異的スピードで揺れるハインリヒ、眼が回って脳がいい感じになりながらも、ビブラートのきいた声でそれだけ言った。
「だいたいね、お酒に頼るほど悪いことなんて、人生には数えるほども起きやしないわ。お腹がすいてるから暗いこと考えちゃうのよ!さ、行きましょ」
私がおごるわ!!と妙に息巻いて先へ行ってしまう彼女を、彼はやれやれと肩をすくめて後から追った。
今日は風が強い。
だから、「あなたが好きよ」という声は風に紛れずにいるのは小さすぎたのだ。
拝啓、ギルモア君。
久方ぶりに君からの手紙を読んで、心の淵から懐かしさと嬉しさがこみあげてくる。
それにしても、机の上に突然封筒が現われたときは驚いたよ。少し目を離した隙に、さも机が作られたときからここにいましたよ、という顔つきで居座られていてね。差出人が意外な人物でなければ、とうとうぼけてしまったのかと思っていたかもしれない。
書いてあった通り、手紙は読んですぐに燃やしておいた。残念だが、これもしかたのないことなのだろう。友人からの手紙を燃さなくともよい日が来ることを、切に望む。
だが何十年ぶりかに君の筆跡を目にすることができ、どれだけ心が躍ったことだろう。大っぴらに差出人について明かすわけにもいかぬこと、とできうる限り顰め面で通していたのだが、言われてしまったよ。
「先生、今日は一段と嬉しそうですね」と。
そう、いつのまにか先生と呼ばれる立場になってしまった。自分が、偏屈な教授や分からず屋の講師たちに向かって、こっそり舌を出していたことなどすっかり忘れたような振る舞いをしている。おそらく、学生たちも敬った顔の下で舌を出していることだろう。
なに、人を教えるというのも良いものだよ。才能ある若者が育っていく様を見守っていると、こちらの気分まで浮き立ってくる。かえって教える側の我々が背筋を正すこともあるくらいだ。
――ギルモア君。手紙を読んで以来、ある一つの疑問が頭の隅に引っかかっている。
永遠の命というものは、果たして存在しうるのだろうか。
医療技術の進歩に伴い、人間の寿命は飛躍的に伸びた。また、仮に君の言うサイバネ技術が実用化されれば、理論的には半永久的に生き永らえることも可能となるかもしれん。
知っているかね?アメリカの某企業が不老不死の妙薬を開発した、という一報がもたらされた途端、その企業の株が高騰したそうだ。結局はデマだったのだが、永遠の命とはかくも人心の内に巣食っているものらしい。
しかしながら、我々の存在もまさに有限ゆえに成り立っているというのは、実に興味深い。無限ではなかったからこそ、これほどヴァリエイションに富んだ生命が誕生し、進化し、果てに一人の老人が友に宛てた手紙を書いているというわけなのだ。
そうそう。君と、君と共にやってくるという人々も勿論歓迎させてほしい。大人数だというから、しばらくの間は賑やかな生活になりそうだ。
現在の君にとって、外部との接触がどれほど危険なものかは、書かずとも分かる。そこを敢えて、こちらに連絡してくれた君の信頼に応えたい。この返事も、投函することはなく引き出しの中に眠ることとなる。文面上のやり取りではなく、生身の君と直接会話できることを信じている。
永遠に生きることが叶わないにせよ、長く続いた君との友誼に深く感謝する。
敬具。
ソファに座ってページをくっていると、またたく間に広がる活字の世界に溺れ、引き込まれていくのを感じる。だが足元からの声が、その心地よい集中をさえぎった。
「なぁ、3Kってなんだ?」
ピュンマは不服そうにページから視線を外した。見えたのは、ジーンズをはいた自分の足。そしてその横に、絵本を広げて床に寝転がったジェットがいる。
ジェットが突然日本語を覚えたいと言い出したときは皆が驚いたが、飲みこみは悪くない彼は、かな文字をすでに覚えたらしい。最近では、自発的に子ども向けの絵本を読むようになってきていた。今手にしている本も、教師役のジョーが買ってきたのだろう。
「さんけい?」
「おお。ここの意味が分かんねぇんだ。ピュンマ、何か知ってるか?」
「うーん、聞いたことあるようなないような…。他にどんなことが書いてある?」
「ええとだな、ちょっと待ってくれよ。あんたとなんかけっこんするわけないでしょ。せめて3Kくらいのじょうけんはそろえてもらわないと。でもあんたはべつのいみで3Kよね。…これってどういう意味なんだ?何がなにやらさっぱりだぜ」
それはどういう絵本だ。
意味がわからず頭を抱えるジェットの横で、ピュンマは別の意味で頭を抱えたのだった。
背中の男が意識を取り戻したようだ。
「……」
「どうした?」
応えはない。
最悪の予想が脳裏をかすめたが、005はともすれば鈍りそうになる感覚を総動員し002の様子をうかがった。弱々しい息づかいに混じって意味の取れないうわごとが、途切れがちに聞こえてくる。
その中にどうにか「水」という単語を聞き取ると、彼は安心させるように語りかけた。
「わかった。もう喋るな」
自分たちには、水の一滴に命を左右されることなどありはしない。だが機械化されたとはいえ、疲労の極みに達した体と、そして何より心が水を欲するのだ。
とうの昔に捨てられた実験場は乾ききり、水などどこにもありそうになかったが、005はどうしても002の喉を潤おしてやりたいと思った。
ことさらに慎重な足どりで歩を進める。確信ではなく、ただ予感があった。
そうして彼は夜露を見出した。有刺鉄線に絡みつく野いばらの上に。
005は仲間の体を地に横たえると、棘が傷に触れぬよう注意を払って葉の雫を飲ませてやった。すると002は、かすかに笑ったようだった。
後に聞いたところによると、彼はこのときこう思ったらしい。
わざわざ棘があるものどうしで、仲良くすることもあるまいに――と。
まったくもってそのとおり、と聞き手は肩を揺らして笑った。