Respekt für gealtert.

 「ああ、そういえば」
 カレンダーを見たジョーは、朗らかに呟いた。
 彼としては、独り言のつもりだったのだろう。だが何事についても間の悪いことは起きるというもので。
 「偶然だなぁ。今日は……」
 ジョーに罪はない。ただ、間が悪かったのは――
 「今何て言ったんだ?」
 そのときすぐ後ろにいたのが彼だった、ということだ。

 「おいお前ら。おれを敬え」
 ピュンマは爪を切る手を止め、まじまじとハインリヒを見つめた。腕を組み、にやりと物騒な笑みをこぼしてふんぞりかえっている。平たく言えばいつになく偉そうだ。
 常に泰然自若としているジェロニモですら、呆然と突っ立っている。今まさに金魚に餌をやろうとしていた彼は、掌から緑色した餌がこぼれていることにも気がついていない。それどころか持っていた箱から、中身が豪快に床に流れ落ちている。金魚は歪曲したガラス越しに口をぱくぱくさせ、見当違いのところへ餌を落とすジェロニモを批難しているようだった。
 「なんで?」
 つとめて冷静に、ピュンマは理由を訊ねた。日本の気候はまだ夏の名残を厳しくとどめていたが、冷房の効いた屋内は汗のかかない温度を保っている。暑さにハインリヒの脳がやられたとは考えにくかった。
 それにハインリヒはいつも無茶苦茶なことしか言わないが、彼がそう言うからには、相応の理由があるはずだ。たぶん。きっとそう。そうだといいな。
 「どうして、だと?」
 ふふん。鼻でせせら笑う勢いでハインリヒは胸を張って宣言した。
 「おれの誕生日だからだ」
 手が滑った。
 「あ痛ぁっ!?深爪したぁっ!」
 「ピュンマ。なんで深爪なんかするんだ。おれの誕生日だというのに」
 「僕の深爪と、君の誕生日にどういう相関関係があるんだ?」
 「決まっているだろう。おれの誕生日だからだ」
 もう何を言っても無駄だと言うことをいち早く悟り、頭を抱えるピュンマ。力をこめた指先が、ちょっと痛かった。痛い、ということはこの状況は夢ではない。悲しいことに。ああ、やっぱり異常な湿度でハインリヒの脳にはカビかキノコが生えたんだ。そうに決まっている!
 ざらざらざら。床にこんもりと緑の山を築き、金魚の餌の箱がからっぽになった。だがジェロニモは相変わらずぽかんと大口を開けたままで、援護は期待できそうにない。
 ピュンマは舌打ちした。いざとなればジェロニモにあとを任せ、とっとと逃げるつもりだったのだ。
 目の前には、さあ敬え敬えと全身で訴えているハインリヒ。なんだその構えは。なぜそんなに嬉しそうなんだ。ひょっとして僕をからかってるんじゃないだろうな?
 しかし哀しいかな。ハインリヒの目が本気だということは、ピュンマにもはっきり分かっていた。ああ、どうして博士は僕を再改造したとき、加速装置をつけてくれなかったのだろう。
 逃げる機会をうかがいながら、ピュンマは注意深く口を開いた。
 「ところでハインリヒ。敬うっていっても、具体的にどうすればいいんだ?」

 ………………

 「あー。いやーまあその、なんだ」
 「まさか深く考えもせず言ってみた、なんてことはないよな」
 「か、考えているぞ!たとえば、たとえばそうだな。カタタタキケンを二十枚とか、セナカヲナガスケンを十枚くれるとか――」
 必死に主張するハインリヒだが、目が泳いでいるのをピュンマは見逃さなかった。だいたい、台詞の意味もわけが分からなかった。
 「やっぱり考えてないんじゃないか」
 「感謝の心を述べる手紙をくれてもいいぞ。ノルマは一人につき一通」
 「何だよそれは。っていうかノルマ?ノルマなのか?達成できなかったら鞭で百叩きなのか?」
 「いいや、おしりペンペンの刑だ」
 「もっと嫌だ!僕は断固拒否するぞ!」
 「なんだと?じゃあピュンマは、怪しげなマスクをつけて鞭を振り振りチィパッパしているおれを見たいとでもいうのか」
 「そんなもの好きこのんで見たがる人間がどこにいるかぁ!」
 「失礼だな。いるかもしれねえだろ。ひょっとしたら世界に一人くらい」
 「いない。断じていない。だいたい感謝って何だよ」
 「ジョーが、こういう日はそういうものをくれるもんだって言っていたぞ。ちなみに文面はこう始まる。『こんにちはハインリヒ、いつもありがとう』」
 「だから感謝って言われても」
 「この前の戦闘で、後ろから狙われてたのを助けたじゃないか」
 「あれは!そのまた前に弾切れを起こしたところを僕に運ばれたんだから、チャラにしてくれって君のほうから言ったんじゃないか」
 悪びれもせずきっぱりとした態度のハインリヒに、ピュンマは思わず反論した。話をそらされたことに気付いていない。
 「人間、感謝の心を忘れるなってコズミのじいさんも言っていたじゃねえか。細かいこと気にするなよ」
 「確かコズミ博士、待ったをもらった次の一手で、ギルモア博士を窮地に陥らせていたよ。そう言ったすぐあとのことだけどね」
 (こいつ、覚えていやがった)
 ハインリヒはギルモア博士とコズミ博士の対局を引き合いに出したが、全員で観戦していたのでピュンマにあっさり言い負かされた。
 「ちっ、しょうがねえ。ならこれだけは絶対に譲らないぜ」
 「今度は何なのさ…」
 「ケーキは丸ごとおれが食う」
 「子どもか君は!いくつになると思ってるんだ!」
 「よくぞ聞いてくれたが永遠の三十歳だ。それに今日のケーキはバースデーケーキなんだ。おれが食ってもおかしかねえだろう」
 「発想が根本的におかしいよ」
 不毛な言い争いを続けている傍らで、凍りついていたジェロニモがぶるぶると震えはじめた。ようやく解凍されたらしい。
 「あ……ぐ……」
 わななく指先でハインリヒをさし、絞り出すように口を開いたそのとき。
 「危ないジェロニモォォォォッー!!」
 ハインリヒのドロップキックが炸裂した!
 ガラスを突き破った巨体は弧を描いて飛んでいき、地面をごろごろ転がって止まった。そのままぴくりとも動かない。
 「な、な…」
 「ふぅ。危ないところだったぜ」
 ハインリヒは汗一つかいていない額を、白々しい仕草でぬぐった。
 「何てことするんだハインリヒ!」
 「お前には見えなかったのか?ジェロニモの顎に巨大なスズメバチが今にも針を刺そうとしていたんだぞ」
 「そんなわけないだろ!ジェロニモ、のびちゃってるじゃないか!」
 「何だって?それは大変だ!打ち所が悪かったかもしれん。急いで博士のところに運ばねば!」
 言うが早いか、ハインリヒは部屋を飛び出しジェロニモの元へ走り寄る。流れるような身のこなしで彼を担ぎ上げると、脱兎のごとく駆け去って行った。その勢いがあまりにすごかったので、至近距離にいたピュンマは竜巻のように回転する羽目になった。
 「あ、ええぇぇぇぇぇぇ?」
 しばらく人間ゴマと化したあと、ピュンマは目を回してぶっ倒れた。

 「危ないところだった…」
 一方そのころ、裏庭に荒い息で膝をつくグレートの姿があった。その横には、白目をむいたジェロニモが横たわっている。
 「まったく、我輩決死の演技を明かそうなどと、何と空気の読めない御仁だ。おかげで重労働をしてしまった」
 やれやれ、と立ち上がろうとしたグレートだったが、腰に鋭い痛みが走る。
 「ああっ?た、立てない?まさか我輩としたことがぎっくり腰に?しかしサイボーグはぎっくり腰になってはいけないのだっ!」
 ぬおおおおおおおおお。
 驚くべき根性でグレートは立ち上がった。そう、ドロップキックからジェロニモを担いでの全力疾走に繋がるコンボが、いかに関節へ多大な負担を与えていようとも。膝がカクカク言っていても、サイボーグは立ち上がらねばならないのだ。
 「ふふふふふ。だがこの痛みも仲間のためと思えばこそ。せっかく今日が年長者を敬う日だということを、ジョーのおかげで知ることができたのだ。皆から敬われ、慕われる一日という贈りものを心して受け取ってくれよ、ハインリヒ」
 膝をカクカク言わせながら、満足そうに頷くグレートだった。見得を切るために踏みしめた足の下では、相変わらず白目をむいたジェロニモがうなされていたのだった。

 九月一九日、俗に言う敬老の日。
 その日、ギルモア邸で何が起こったのか知る者はいない。