どこだここは。
 (はぁて)
 いや違う天井に見覚えがある。
 そうではなく。
 (飲み屋の天井じゃねぇな)
 昨晩は一体どこで呑み潰れたのやら。

 疑問と反論が同時に湧き出、疲れきっていた脳みそは余計に混乱した。思考の形は考える端から崩れていき、断片を見失ってしまう。記憶をたぐり寄せようにも、肝心なそれは薄皮一枚で意識の表側とさえぎられている。とりあえず分かるのは一つきり。
 「酒に酔ってはいない」
 ということだけだった。血液が冷えるほど心地よい酩酊感と、胃の腑に石でも乗っかったような重圧感。ないまぜになったそれらは、断じてアルコールのもたらすものではない。
 しかし傾いた視界と妙な平衡感覚はどうにかならないものか。体は確かに床と水平だというのに、今にも頭から落下しそうに思える。
 姿勢を変えようとしたが、背中が台に吸いついたように動かない。焦っていると今度は寝返りの打ち方まで忘れそうになってきた。
 しかたがないので視線だけめぐらすと拘束された手首が見えた。台から生えたような金属製の輪。おそらく足の方も同様なのだろう。左腕には針が刺さり、その針には管が付いている。その管を目で追っていくと、液体の入ったビニール袋が見えた。要するに点滴。中身は想像もつかない。つきたくもないが。
 (道理で動けないわけだぜ)
 動けないならば動けないなりに、頭を持ち上げて何とか周りを見わたそうとしたが、即座に激しい頭痛が襲ってきた。同時に冷や汗がどっと吹き出す。
 
 そこでようやく頭が冷静に戻った。

 ひどい頭痛は治まらなかったが、それをとっかかりに思考することができるようになる。ついで、記憶がいもづる式によみがえってきた。移動ベッドで運ばれながら天井を眺めていた記憶はある。おそらくそのときに意識を失ったのだろう。倒れてからどれくらい経ったのか知りたかったが、もとよりこの部屋に時計の類がないことは分かっていた。聞けるような人間もいない。大体、自分がここに来たのがいつなのかも知らないのだ。数ヶ月、ひょっとしたら数年前の話かもしれない。
 実験だか訓練だかの後、疲労で動けなくなった。対象を瞬時に観察し、体細胞の配列を自らの意志のままに変換し、『化ける』。ほぼ一瞬で特徴をつかみ、配列変換を完璧に制御するのはかなりの負担だった。このままではさっさとボケるかもしれない。年寄りをこき使わないで欲しいものだ。
 酒瓶一本につられて、とんだことになったものだ。全く。
 落ちぶれた男が謎の組織に拉致され、改造される。そこで正義に目覚めた彼は組織から逃げ出し超人的な力で世界の平和を守るのだった…。

 つらつら考えた末、ありふれたヤンキーの映画であるな、と彼は評価した。役者や脚本の質ではなく、映像の派手さで見せる映画。
 まったくもって気に入らない。
 瞬間、腹の底で急激な感情の爆発が起きた。あらん限りの声で喚きたてるほどの。

 出せ、我輩をここから出せ。このろくでなしめ。何をやっている。我輩は、おれは――

 それは怒りの声だった。悔しさと後悔、自己憐憫と中年男が抱く諦めへの苛立ちを越えて、彼は怒りをおぼえていた。彼は今はじめて、今の身の置きどころに対して猛烈に立腹していた。
 だが、彼の叫びは室内を揺るがすことはついぞなかった。そうするだけの理性が働いたからではない。まるで怒りに呼応したかのような、激しい頭痛と吐き気が、渾身の叫びを発する機会を彼から奪っていった。胃の底から駆け上がってくる欲求に反射的に抵抗しながら、再び意識から明瞭さが失われていく。


 建物自体が古いせいだろう。扉は建てつけがひどく悪く、閉めるのも一苦労だった。だが一旦閉めてしまえば既に喧騒は遠い。扉ごしに響く意味のない叫びや笑い声が、打ちっぱなしのコンクリート床に広がっていく。
 耳障りなそれらを敢えて無視しつつ、彼は洗面台に嘔吐した。中年男の聞き苦しい呻き声も、撒き散らされる吐捨物の音も、蛇口から勢い良くほとばしる水音が打ち消してくれた。
 ひとしきり胃の中のものを吐き出してしまうと、吐き気に押しやられていた頭痛がよみがえってきた。まるで頭蓋が万力に締め付けられているか、ハンマーで叩いているような痛み。
 「くそッたれめ」
 蛍光灯に照らされた洗面台はやけに白かった。その色が目に突き刺さるようで、我知らず目を細める。素面のときであれば気にもとめないような、そんなことさえもが気に障り、また全てが忌々しく感じられた。
 「くそッたれめ」
 唸る野良犬のように毒づく。のろのろと顔を上げると、古ぼけたコートに身を包んだ痩せぎすの男が、鏡の向こうから自分を睨みつけていた。
 (何だい、この面ァ・・・)
 我ながらひどい顔色だ、とまばらにひげが生えた顎を撫でながら目をしばたたかせる。頬がこけて蒼白になった面差しの中、血走った上にぎょろついた眼ばかりが目立つ。
 いやはや、我輩としたことが、かように殺気立っていかがしたというのだ。襤褸をまとっていようとも、心は錦のようであれ。そう誓ったはずではないか。微笑みを、そうだ、微笑みを浮かべればいい。この不快な気分も、笑ってしまえば彼方に消し飛ぶであろうよ。
 さあ、笑うんだ。昔に学校で教わったろう。まさか、やり方を忘れてしまったわけはあるまい?目元に柔らかさをたたえて、唇を心もち持ち上げるのだ。いつものように、皆を楽しませる道化でもいい。
 笑え。笑うのだ。

 「くそッたれめ!」
 不意に生じた荒れ狂う感情にまかせ、鏡に拳を叩きつける。亀裂の走った音と同時に、下卑た笑みを浮かべた顔は視界から消えうせた。が、それだけではおさまらずに、彼は鏡を殴りつづけた。何度も、何度も。

 「ッ……!」
 いつしか血塗れになっていた拳を解くと、拍子抜けするほどあっさり感情は静まった。呼吸はいまだ荒いまま、よろける足元を支えきれずに座り込む。悪酔いに不意の激昂が災いしたものか、頭がくらくらして起き上がることができない。当然ながら右手は激痛を訴えてはいたが、よくよく見れば破片は刺さっていないようだった。
 「はは…年は取りたくないね。あれしきの量ですっかり腰が抜けてしまった。さて、早々に退散ねにゃ。鏡を壊したなどと知れたら、親爺に出入り禁止を食らっちまう」
 またどこかで景気づけに飲みなおそう。
 そう考えて立ち上がったものの、まともに歩き出せず無様に尻餅をついた。何気なしに目をやった傷口からは、血がどくどくと流れ出している。
 視界が歪む。
 「参ったね。本当に年は取りたくないよ。しかし痛いな。……痛いなあ」

 こみ上げる衝動のまま、理由のわからない哀しさに彼は泣く。がんぜない子どものように、傷の痛みのせいだと言い切れない何かに突き動かされ、ただ彼は嗚咽しつづけていた。