あるバーのある年のある聖夜前

 「というわけだ。よろしく頼む」
 何をだ。
 唐突過ぎて聞き返すタイミングを外してしまった。
 「稼ぎ時だからな。しっかり頼むぞ」
 「ちょっと待て。何を頼むって言うんだ」
 「ピアノに決まっているではないか」
 「弾くのか?」
 「ああ」
 「おれがか?」
 「他に誰がいる」
 「断る」
 「なんだと?!では一体何のために、ここにピアノがあるというのだ!」
 「おれが知るか。置いたのはあんたじゃねえか」
 「ようく聞くがよい。ここはどこだ?」
 言われてバーテンダーは視線を巡らした。その行為に意味があるわけではなかったが。
 ボトルの並んだ背後の棚。壁際に二つあるボックス席。奥に据え付けられたピアノ。自分が手にしているのはグラス。磨き上げられたカウンター。その前に整然と並んだスツール達。そして。
 その内の一つに座る、不心得者のウエイター。
 「バーだな」
 とりあえず返事をしておく。無視すると、余計にうるさくなるからだ。
 「そうだ。バー、しかもクリスマスといったらピアノが付き物ではないかね?」
 「思い込みだ。それは」
 「この際どっちでもいい。いいか?もうじきクリスマスだ。となれば稼ぎ時なんだが――残念ながら当店はそう名が知られているわけではない」
 「全くだ」
 「いるといえばむさ苦しい男が三人きり。うち一人は何がそんなに気に入らないのか、客商売のくせに人をびびらす仏頂面。いかに我輩が卓越した話術を備えているとはいえ、これではフォローも難しい」
 「…」
 バーテンダーが黙している間にも、ウエイターの語りはますます絶好調だ。
 「普段ならばそれでもいいだろう。奇特にもこの無愛想さが気に入ったという方までおられるのだからな。だが今度はクリスマス。当店の雰囲気に引かれ、ふと立ち寄られるお客様もおられよう!しかし出迎えるのは陰気なバーテンダー。これでは扉を開けた瞬間に回れ右となりかねないではないか」
 「……」
 「さて客数減の要因の可能性随一のバーテンダー殿としては、少しは客寄せとして働こうという気にならんのかね?」
 「弾かん」
 即答。
 「我輩の心からの説得に、耳を貸そうともしないのか」
 「そこまでぼろくそに言われて誰が弾く気になるか!」
 「少しはピアノのことも考えてみろ。せっかく弾ける人間がいるというのに、普段は飾り扱いだ。可哀相なことをしているとは思わんか」
 「道楽で置かれたピアノの方こそ、いい迷惑だろうよ」
 「ほう。どうしても弾かないというのだな」
 「当たり前だ!」
 「では致し方ない。店長命令だ。お前クビ」
 「…おい」
 「これからの時期に一人抜けてしまえば、確かにいささか厳しいかもしれない。だがあの青年にも、そろそろカウンターの中に立ってもらっても良い頃だろう」
 聞いちゃいない。
 本当に辞めるか?いっそのこと。
 いや待て落ち着け。もう青い真似をするような年でもない。大人の態度だ。
 「分かった。弾けばいいんだろう」
 「おや?一体何の話かね。元バーテンダー殿」
 ぴき。一瞬バーテンダーの額に青筋が浮かんだが、理性の力ですぐに消えた。
 「おれが、ピアノを弾くと、言ってるんだ」

 カララン。
 「おお!この寒い夜にようこそいらっしゃいました!ささどうぞこちらへ。ご注文はいかがされますか?」
 「…」
 「おおい!ドライマティーニをご所望だ。お客様、当店のバーテンダーはドライマティーニを最も得意としておりまして…」
 「クビになったんじゃなかったのか、おれは」
 その晩、普段の四割増は仏頂面でシェーカーを振るバーテンダーがいたとか、いなかったとか。
 
 閉店後。
 「では二十三日から三日間、よろしく頼むぞ」
 「何をだ」
 今度はタイミングを外さず言った。
 「先程も言っただろう。ピアノを弾くという話だ」
 「ちょっと待て。おれはクビになったはずだが。しかも日数が増えてないか?」
 「クビ?冗談に決まっているだろう」
 「あのなあ」
 「第一、自分からピアノを弾くと言ったではないか。反故にする気かね」
 「聞いていたのかよ…」
 「まあそういうことだ。観念してピアノを弾きたまえ」
 「…ついでに歌でも歌うか?」
 「それは困る。音痴は黙って演奏に専念しろ」
 畜生。


 更にその後、ある電話会話。
 『じゃあ、弾いてくれることになったのね?』
 「ええまあ。多少可哀想なことをしましたがね。何、自分から弾くと言ってしまったのだ。性格からして、言ったからにはきっちり弾きますとも」
 『あらいいのよ。彼だってたまには痛い目を見るべきだわ』
 ころころと楽しげな声に、ウエイターは共犯者的な笑みを浮かべた。それはどこかいたずらの成功した悪童に似ていた。
 「奴さん、仏頂面を通り越して悪人面で弾くでしょうな」
 『でも、本当にありがとう。あの人、怒っていたでしょう?わざわざこんなこと頼んでしまって…』
 「なんのなんの。麗しき淑女のお申し付けとあらば、これしきのこと、いつでもお引き受けいたします」
 『ふふ、お上手ね。…やっと聞けるのね、あの人の演奏』
 「あいつの驚く顔が目に浮かびますよ」
 『きっとひっくり返るわ。見せられないのが残念』
 「いえいえ。大事な時間を邪魔するほど、野暮ではございませんとも。それでは二十五日夜、特別に貸切にしてお待ちしております。閉店時間後にどうぞ」
 『楽しみにしてるわ。どうもありがとう』

 クリスマスの夜更け、久しく会っていなかった恋人にピアノをねだられ、不機嫌そうながらも満更でもないといった様子のバーテンダーがいたとか、いなかったとか。
 彼ら二人が幸せなひとときを過ごしたのかどうかは、カウンターの上のグラスだけが知っている。