背筋にぞくりと悪寒が走った。
思わず身を震わせながら、その男は立っている。
この街の夜はいつだって寒いもんさ。特におれたちみたいなのにはな。
そう言ったのは誰だったか。台詞だけは克明に覚えているというのに、肝心の人物の顔だけが灰色にくすんで見えないでいる。
普段なら気にもとめないような事だったが、今晩に限って無性に気になった。
らしくないことだ。
この寒さのせいかもしれない。何しろ骨の芯まで直接響く冷たさが、街中を這い回っているから。
そう。ここの夜はいつだって冷たいんだ。
昨日そこで寝ていたホームレスが、寒さで凍え死んだって誰が驚く?
今、隣で笑いながら酒を飲んでいる奴はお前のアガリを持ち逃げした。
来年どころか数秒後に息をしてるか、つっ立ってるだけの男に分かりはしない。
暖かい家がなけりゃ、この寒さから逃げ出せない。
だからこんな寒い晩に、男は身を震わせている。最前思い出した台詞を巡らせながら。
そんな晩もあるのだ。
らしくなく、なくなるような晩が。
「あんたか?」
「多分な」
声をかけてきたのは一人。
自分がいるのは路地の奥だったから、入り口に立つ相手の顔は逆光で判別できない。
息を吐けば白い晩。雪でも降ればなと思って、まだガキくさい事を考えている自分に苦笑する。
「ブツは」
「せっかちな野郎だ。長い付き合いになるかもしれないんだ、愛想良くして損はないぜ?」
肩をすくめてみせれば、相手がわずかに苦笑する気配が伝わってきた。
これだよ、と足元のアタッシュケースを蹴る。なめらかに滑ったそれは、靴先でぴたりと止められた。中を確認して、口笛。
「オーケイ。噂なんていかがわしい女しかいないと思ってたが、あんたのところはそうでもないらしい」
「へえ?」
さも、面白いことを聞いたという風に片眉を上げておどけた表情を作る。この暗さでは相手に見えなかったろうが。
「ここら辺りで頼みごとなら、持ちかける相手は奴一人ってな。最近の情報屋は宣伝までしてくれるらしい。それとも、あんたは広告費まで払ってるのか?」
「そこまで羽振りが良けりゃ、今頃暖炉の前でワインでも飲んでるよ。だがいまどき感心な情報屋だな。おれを良く言っただと?」
「ああ。後で礼金でも払ってやるのか?」
「いいや、そんな事をすれば…」
にやにや笑いで続けて言った。
「あとで宣伝の代金を請求されそうだ」
「確かにそうだ。あいつらの売り物は、いつも馬鹿高い」
言って足元のアタッシュケースを持ち上げ、懐から封筒を取り出した。投げ渡されたそれを見て、頷く。取引終了の合図。どうやら財布の冷え込みだけは何とかなりそうだ。
「前金と合わせてそっちの言い値どおり。おれはこいつを、あんたは金を。お互い万万歳ってとこだな」
「それじゃあな。今後とも御贔屓に」
立ち去ろうとする。立ち話には向かない晩であるし、何より仕事の相手とのんびり会話などしていても、ろくな事がない。
「しかし今日は特に寒い夜だ。風邪でもひかないうちに、ねぐらへ帰ったほうがいいだろう。おれも、あんたも」
それだけ言って彼らは消えた。だから自分のひとりごとが聞こえたかどうかまでは、気にもしていなかったろう。
踵を返しながら吐き捨てた言葉は、果たしてどちらのものだったか。
「この街の夜はいつだって寒いもんさ。特におれ達みたいなのにはな」
ああそうだ。あれは奴が言ったんだった。
暖かい家のないおれ達には、特に冷たいんだ。この街は。