K氏の消失

 「K氏文庫のことは、みんなも知っているだろう?」
 夜も更けたというのに明かりを落とし、人の集まった談話室、ぼそぼそとした語り口のかれを、全員が固唾をのんで取り囲んでいる。
 「そう、氏の集めたコレクションを保管している建物だ。この部屋からも見えるはずだよ。ちょうどあの窓からね」
 おもわず振り返って指し示された先を見る。最も、日の出ている時刻ならば木々の合間に垣間見えただろう打ち捨てられた灰色の姿は、カーテンと夜の闇によっていまは隠されている。
 「実際に入った人はいない、かな。あそこは見た目よりも狭くてね。どうも残された設計図と比べると、部屋がひとつ、足りないらしいんだ」
 これは先輩に聞いた話なんだけど、とかれは前置いた。テーブルの上の蝋燭が、だれかの息づかいで身じろぐように揺らめく。一瞬間、語り手の姿が暗闇に落ちた。
 「先輩の友人がね、あるとき中に入って調べてようとしたんだ。かれが言うには、『あそこには隠し部屋があるんじゃないか』…そういう話だったらしい」
 ささやく声は、うっかりすると聞き漏らしてしまいそうだった。一言たりとも逃すまいと、皆が黙りこくった部屋の空気は緊張感で満たされていく。
 「先輩は止めたんだけど、どうしても気になるからって、鍵を壊してむりに先輩を連れて入ったんだって。二人は部屋から部屋へと、こんこん…こんこん…と壁を叩いて回ったんだ」
 語る言葉に合わせ、かれは実際にテーブルを拳で叩いてみせた。静かな部屋にこだまする乾いた音は、聞き入る者の脳裏に、さながら自分が壁を叩いているかのような情景をありありと浮かばせていた。ひたひた、ひたひた。感情の波が寄せては返すたびに昂ぶっていく。
 「そうしたら、最後に調べたいちばん奥の部屋で音が変わった。まるで壁の向こうに空洞があるみたいに。そうしたらその人、『ここだ!キットここに違いない!』って、人が変わったみたいに騒ぎ出して。半狂乱になって壁を壊そうとしはじめたんだって。先輩も止めようとしたんだけど、異様な怪力で振りほどかれて――」
 バン!かれは急にテーブルを力強く叩いた。
 「暴れた拍子に、倒れた棚がぶつかって壁に穴があいてしまった。…その向こうには、真っ暗な部屋があって、生暖かい気持ちの悪くなる空気が向こうから広がってきたそうだよ。まるで、首を絞めてくるみたいにまとわりつく、重たい空気が」
 言葉が息苦しさを生み、聞き手の一人が我知らず襟元に手をやった。ゆったりうごめく気配がそれをさせたのだ。
 「穴を見て、その人はけたたましく笑いながら向こうへ入っていった。すぐに姿が見えなくなって、何度呼んでも返事はかえってこなかった。さすがに先輩も驚いて、人を呼びにいったんだけど…、戻ってきたら棚も倒れてなかったし、いくら探しても穴なんてなかったんだって。みんな、先輩達が入る前となにひとつ同じだった」
 そこでかれはゆっくりと全員を見つめ渡した。
 「だぁれもいなくなったその人のこと、見てないんだって。それから」
 「はい、そこまで」

 突然背後から声をかけられ、全員声も出せずに飛び上がった。コズミは、まさかそこまでぎょっとされるとは思わず、逆に驚いた。両者見つめあったまま、沈黙が数秒続く。
 「うわあ、もうびっくりした…。驚かせないでくださいよ、本当に」
 ひとりが言葉を発したのを契機に、皆は息を吐いてへなへなと腰を下ろす。コズミは苦笑を浮かべて壁を探り、スイッチを入れた。明るくなった室内に、ついさっきまで充満していた緊張感はもはやない。ただただ五六人の学生がいるばかりだ。
 「楽しいのは分かるけど、もう遅いからね。さあ出た出た」
 「まだ百話まで話してませんよ」
 「えっ、本気でやるつもりだったの?」
 「それより、見つかったのがスコットじいさんでないのを感謝しなくちゃ。もしもかれだったら、有無を言わさず鍵を閉められていたよ」
 「とにかく開いていると見たら閉めちゃうお人だからね。几帳面を通り越して病気だよ、あれは」
 「そっちのほうがよかったなぁ。いっそ朝まで籠もったら、百話達成できたのに」
 コズミは苦笑いを浮かべる。かれにもこうしたことの覚えはある。深夜に気心の知れた連中と他愛のないことで騒ぐ楽しみは、なにものにも代えがたい。すでに成年に達しているにしても、コズミが学生たちに寄せるなまざしはいささか年寄りくさい。ふと、そこで学生に混じって意外な人物が場にいることに気づいた。
 「…ギルモアくん?」
 どうしてここに。コズミが呟くのも道理で、ギルモアがこんな場にいるのはただただ意外としかいいようがない。目をぱちくりさせていると、学生の一人が耳打ちをしてきた。どうもたまたま談話室に居合わせたところを無理にひっぱりこまれたらしい。
 むっつりと不機嫌そうに黙りこんで見えるギルモアは、椅子に腰かけたまま微動だにしない。さて、らしくないところを目撃されてすねているのかな。コズミはなにげない風で声をかけた。
 「ギルモアくん」
 「…」
 返事は沈黙をもってなされた。それどころか目をあわそうともしない。これは相当だぞ、と思いながらコズミはとりあえず学生たちを談話室から追い出した。ギルモアの様子が気になるのだろう、ちらちらと視線を向けながら、かれらはあいさつをして去って行った。
 「ギルモアくん、時間も時間だし…」
 かたわらへ歩み寄り、やっとコズミは気づいた。
 ギルモアは目を開けたまま気絶していたのだ。


 翌日、同じ談話室でのできごとである。
 その日はあいにくの曇天でどこもかしこも薄暗かった。とうに南中したはずの太陽もまるきり姿を見せることがない。ギルモアは背筋に寒いものをおぼえつつ、談話室の隅で遅い昼食をとっていた。室内の人影はまばらで、ギルモアと同じく食事をしているものもいれば、数人でなにごとかを話し合っているものもいる。皆、この天候に合わせたように声は小さい。大声で騒ぎ立てる後ろめたさを感じさせる空だった。
 あの後コズミはなにも言わなかった。今日顔を合わせた学生たちの様子からも、昨夜の醜態はかれらに伝わっていないとみえ、ギルモアはコズミに心中でひっそりとした謝意をささげた。会ったらひとことなりとも礼を伝えるべきだろう。
 とはいえ、きまりの悪さが拭い去られるわけではなかったが。
 サンドイッチを口に運ぶ。ぱさぱさしたパン、水気のきれていないレタスにはさまれ、ハムの妙な生臭さが鼻につく。痛む胃を押さえて、ギルモアはことさらゆっくりとそれを咀嚼し、飲みくだした。
 騒ぎが起きたのはそのときだった。足音も荒く、不審さを周囲に与えるほど慌てた学生が談話室に飛び込んできた。なにか急ぎの用件でもあるのか、コズミを見かけないか、と問う。ギルモアの意識は胃痛に向けられ、やりとりをぼうと聞き流していた。次のひとことが飛び込んでくるまでは。
 「ああ、そういえばかれならK氏文庫に入っていったのを見たけど?」
 …なんと言った?
 「ええ?あんなボロ屋に、どうしてわざわざ」
 「建物は古いけど、あそこには珍しい資料があるからね。それを探しにいったんじゃないかな」
 「だとしても遅すぎるよ。朝に研究室を出て、そのままずっと戻ってこないんだから」
 交わされる会話を、ギルモアはほとんど聞いていなかった。ただ、耳の奥でひとつの単語がぐるぐると渦を巻いている。K氏文庫、K氏文庫、K氏文庫、K氏文庫、K氏文庫、K氏文庫、K氏文庫、K氏文庫、K氏文庫、K氏文庫、K氏文庫、K氏文庫――
 「あっ…!確かあそこって前に陥没事故が起きたんじゃ…」
 誰かが口走り、ざわめきが一層大きくなった。まさかコズミは事故に遭ったのか?談話室の空気は一気に緊張に包まれたものになる。数人が職員のもとへ向かい、残りのものは外へと走り出した。ギルモアは、なぜかその集団の中にいた。面倒ごとに近づきたくはない、自分が行く理由はない。だいたい、もし事故が起きていたとしたら、素人が向かったからといってどうなるというのだ。なのに足は持ち主の意思を裏切り、勝手にそちらへギルモアの体を運んでいく。ギルモアは混乱した。

 木々の間をつっきって足早に進むと、数分ほどで件の古ぼけた建物はかれらの前に姿を現した。窓は一切なく、薄汚れた外壁が「いかにも」恐怖をあおるたたずまい。だがその扉は厳重に施錠されていた。もともとそういう造りなのか、ここは外側からしか鍵をかけることができない。
 「おいおい、どうなっているんだ」
 「コズミくんが中にいるなら、鍵は開いているはずだよな…?」
 「もう、ここにはいないんじゃないのかな」
 ひどくなってきた寒気と胃痛をこらえつつ、ギルモアはひかえめな意見を口にした。研究室に戻らないのは、きっとなにか用事ができて足止めを受けているのだろう。人当たりの良いコズミのことだから、通りすがりの誰かに頼まれごとをされてもおかしくはない、と。
 今の状況では一番ありそうな考えに頷くものもいたが、職員を呼びに向かったうちの一人が伝えた、「コズミは鍵をまだ返却しにきていない」という言葉で覆された。鍵はすぐ返却するのが規則だ。コズミはあれでなかなかにゆるい気性だが、無責任なことをする人間ではない。
 「だとしたら、いったいどこへ消えたんだ…?」
 誰かが呆然と呟く。そのときギルモアはふとひらめくものがあった。大きく開いた虚穴、覗きこめばそこには血の気の引いた顔で横たわるコズミがいる――
 実際に目にしたがごとく、まざまざとまぶたに映った情景にギルモアはこめかみを押さえた。馬鹿な、ただの空想だ。夢見がちな子どもでもあるまいし、なにを考えているというのだ、僕は。寒気がおさまらないせいだろうか、なぜか落ち着かない。そして…ええい、あまり認めたくはないことだが、正直に言おう。あまりこの場所に長居したくない。
 ならば話は簡単だ。なんでもいいから、そう、たとえばコズミが立ち寄りそうなところを探してみるとか適当な理由をつけて立ち去ればいい。にもかかわらず足が動かないのは、どういうわけだろう。
 そこまで考えて、やっとギルモアは思い至った。
 (僕はコズミくんが心配なのか)
 強い寒気が一瞬視界を奪い、ギルモアはその場にしゃがみこんだ。

 「あれ?」
 室内に響いたコズミの第一声は、少々間が抜けたものだった。
 じんじん痛む後頭部を撫でさすり(コブができていた)、ゆっくり体を起こす。周りを手で探ると板の破片のようなものが落ちていた。
 見上げれば、白く光る丸。いや、天井に穴が開いているのだ。そこから漏れ出でる光で、コズミは自分の状況をうっすらなりとも視認することができた。どうやら自分がいるところは地下室らしい。壁には一面棚が並び、本が納められている。ほかにも、一見しただけではよく分からない物体が乱雑に置かれている。なんでこんなところに骨格標本がいくつも落ちているのだろう。
 確か、そうだ、資料を探していたら突然床に穴が開いて落下したのだ。そのときに頭を打ったせいで今まで気絶していたのだろう。まるで昨晩学生たちが話していた怪談と同じだなあ、とのんきなことを考えながらコズミは腰を上げた。怪談では壁に穴が開いたはずだったから、自分の状況と厳密には違うけれども。
 それにしても、いったいどうしたものか。地下室ならば階上へと続く階段なり、はしごなりがあるはずなのにそれらしいものは見当たらない。唯一戻れそうな天井の穴にしたって、コズミの身長では飛び上がってもへりに手が届かないだろう。なにか、踏み台になりそうなものは…と辺りを探すコズミの目が見開かれた。
 (こ、これは!)
 暗がりであるにも関わらず、ある一冊の背表紙に刻まれた金文字は正確に読み取ることができた。おそるおそる近寄り、棚から抜き出す。その手つきはまるで、触れてはならぬもの、神聖なものを扱うかのよう。
 表紙をそっとなぞり、おぼろな光で題名と著者を確認する。間違いない、一度は読みたいと願っていたあの本だ。留学したばかりのころ、もしやここなら所蔵されてはいないかと調べた際には見つからなかったのに。まさかこんな場所で手にすることがあろうとは、とコズミは感激にうちふるえていた。
 そういえば、この文庫はまだ未整理状態だと聞いたことがある。もともとは建物からして個人の蒐集品を所蔵するために作られたというから、地下室に未発見の本が眠っていてもおかしくはない。思わぬ僥倖にその場でスキップしそうなコズミだったが、ふと目の前の書棚を確認して妙な声を出した。
 「なんじゃこりゃ」
 棚に並べられているのは、見渡す限りすべて稀覯本だった。コズミの知らないものもあるが、それにしたってかなりの価値を有するものに違いない。コズミは本を抱えたまま、熊のごとく部屋を歩き回った。やたらと床に置かれた骨格標本を蹴飛ばしていたが、いまのコズミには些細なことでしかなかった。いそいそと天井の穴の下、かたわらに本を山と積んで腰を下ろした。至福の時の始まりを予感し、自然と頬がゆるむ。期待に胸を躍らせながらページを繰りはじめた。


 一週間後、学内にある噂が伝えられた。
 若手研究者の一人が行方不明となり、結成された捜索隊が最後に目撃された場所を中心に探し回ったものの、伝聞が錯綜し捜査は混乱を極めた。
 なお、行方不明となった直接の原因は、管理人のS氏が内部に人がいるかどうかも確認せず、施錠を行ったためだという。しかし当の管理人は「あそこは開けてはならない。誰一人入ってはならない」と怖ろしげに繰り返すばかりだったとその噂は語っている。
 結局、研究者は行方不明となってから二日後、閉鎖された某所にて救助されたらしいが、救助に入った人間の証言によれば、そこは出入り口のない、人骨の散乱する部屋であったらしい。また、その研究者も発見された当時は「出たくない!出たくない!」と叫んだといわれている。
 重ねて言っておくが、これらはすべて根も葉もない噂であり、断じて学内の公式な記録ではないことを明記しておく。