短文ログ2

 ぎこぎこ。
 自転車のチェーンが軋んでいる。そろそろ油をさしてやらないと。でなければまるで息切れした老人のようだ。心の中で「すまない」とうそぶいてペダルを踏みしめる。だってこっちだって、向かい風に負けないように必死なんだから。後ろの荷物も重いしさ!
 ぎこぎこ。
 きぃっ。
 「ちょっと、危ねえじゃねえか!」
 「ム……」
 いきなり現れた人影に驚いて、ブレーキを切ったときにはもう間に合わなかった。思わず怒鳴りつけた相手は、天をつくような大男。何てこった。
 だが意外なことに、大男は倒れた自転車を起こし、そしてこっちに手を差し出してきた。あれ、まさか手、貸してくれんの?何てこった。

 「ふーん。それであんた、あんな所から出てきたわけ?だからっていきなり出てくるのは危ないよ。いや、あんたじゃなくて他の人が、さ。あんたちょっとぶつかられても屁でもなさそうだけど。相手が怪我するよ。絶対」
 勢い良く喋りながら、散乱した箱を拾い集め、手際良く荷台にくくりつけていく。ジェロニモは手伝おうとしたが、「かえってやりにくくなるんだ」ときっぱり言われてしまった。その声はまだ幼い。
 「さて、終わり!じゃあな、夜道気をつけろよ!」
 帽子のつばからのぞく顔は、にっかと笑っていた。サドルにまたがり、思い出したように箱を一つ、放り投げてくる。
 「これ、余ったんだ。せっかくだからやるよ」
 「いいのか」
 「気にすんなって。メリークリスマス!」
 ほらさ、サンタなんて誰でもなれたりするもんなんだ。だからあんたも気にするな。
 ジェロニモはおそるおそる箱を開けてみた。中のケーキは潰れていた。

 赤い服を着たヒーロー、……は空を飛んでいた。なぜって?もちろん彼には泣いている人の声を聞くことができたからだ。
 寂しい心の声、悲しい子供の声、たとえ本当に泣いていなくたって、彼には確かに泣き声が届くのだ。
 そういうわけで、彼は今日も天高く飛んでいた。遠く遠く、どこまでも遠く。彼はこれまで聴いたこともない、体を引き絞られるような声を耳にして、もうずいぶんと長い間飛びつづけている。

 彼がようやく地上に降り立ったとき、もうあたりは真っ暗になっていた。山の端に沈みかけた太陽が、しゃがみこんだ子供の顔かたち、目の色髪の色を少しだけ照らし出している。
 「どうしたんだい、どこか痛いのかい」彼は訊ねたが、子供は首を横に振って答えない。ただ、じっと彼の顔を見つめているだけだった。
 (何という目をした子供だろう)
 彼は驚いた。いったいどれだけ涙を流せば、こんなに涸れ果てた底知れない目になってしまうのだろうか。
 「迷子になってしまって、帰れないの?」
 彼はもう一度尋ねた。けれどやっぱり子供は黙ったまま、もう一度首を横に振る。
 「おなかがすいているのなら、これをお食べよ」
 せめて何かをしてあげたいという思いにかられ、彼は自分の顔をちぎって差し出す。いつものように。誰にでも、いつもそうしてあげるように。
 なんたって、おじさん特製のパンなのだ。おじさんの心のこもった、優しく暖かいパンを食べればどんなに悲しい気持ちも吹き飛んでしまう。
 だけど、残り陽にきらきら光っている子供の目は、不思議な色をたたえて彼を見つめているだけだった。

 「それ、食べられないよ」
 「え?」
 「だって、それはアンパンじゃないもの。ネジでできているじゃないか」
 驚いて手のひらを広げ見ると、そこには錆びた鉄の塊からあふれ出るネジと、色とりどりのコードがあるだけだった。

 ……目が覚めた。
 「ヨク眠ッテイタヨ。ヤレヤレ、ドウシテ皆コレヲ見ルト寝テシマウノカナ」
 頭の中にイワンの声が響く。テレビには、目下彼のお気に入りだというビデオテープがかかっていた。ユーモアな顔立ちをしたヒーローが、自己を犠牲にしながら笑って戦いつづけている。
 お前はどれだけ犠牲にすれば気がすむのだろう。

 「暗いわ」
 フランソワーズは断言した。「夢のぞき機」から出てきて最初の一言がそれだった。
 「どうしてあんな可愛らしいお話を見て、こんな内容の夢になるのかしら」
 「何ナラ、楽シイ夢ヲ見サセテミヨウカ」
 「夢のぞき機」の中からイワンの声がする。そう、この悪趣味な機械(ダンボール製だが)の動力源はイワンなのだ。多分誰かが面白半分に言い出して、面白半分に作って面白半分にイワンを入れたのだろう。
 「例えば?」
 「タトエバ、恋人ト砂浜デ追イカケッコスルトカ」
 「あ、それはやめて。なんだか起きたら彼、もっと落ち込みそうな気がするわ」
 鼻の頭に皺が寄った。確かに夢の残り香なんて、考えてみただけでも恐ろしい。他の面々も、フランソワーズの言葉に頷いている。だが――
 (みんな割と勝手なこと言ってるなあ)
 ジョーは思った。口に出さないにせよ、ここにいる人間は全員楽しい夢などどこかに置いてきたに違いないのに。

 その城にはフクロウの家族が棲んでいる。
 ずっと昔に人間が暮らしていたころから、そして鳥や虫の他に訪れるものがいなくなっても、フクロウだけは変わらずいる。
 平和に、そして哲学的に暮らしていたフクロウだったが、最近仲間が増えた。
 羽もないし、そして何だか変な色をしているが、間違いなく仲間だ。フクロウはそう確信している。
 生まれつき飛べない雛が生まれることは知っていたし、そんな雛が何かの間違いで生き残ったのだろう。何より、首がぐるりと回転するのだ。そんな芸当ができるのは、フクロウ以外にありえない。

 ポゥ、ポゥ、ポゥ…。フクロウは月夜に尖塔へ現われて辺りを睥睨する。堂々とした姿は、この厳めしい城の主に相応しい。ポゥ、ポゥ、ポゥ…。森に静かにふくろうの声が透っていく。するといつのまにか、隣りに彼が来て焼け焦げた姿を晒しているのだ。
 ポゥ、ポゥ、ポゥ…。口をすぼめてフクロウのまねをしようとするのだが、声は出ない。彼は知らなかったが、もともと彼の喉に声帯は取り付けられていないのだ。何度やっても声は出ないので、しまいには首をグルグル、グルグル回転させるのだ。

 電話が鳴っている。だが、誰も出ようとはしない。誰もいない廊下で、ベルがこだましている。
 聞こえないのだろうか?いや、そうではない。気付いてはいるが、あえて出ようとしないのだ。
 「ジョー!お願い、電話に出てくれる?今手が離せないの!」
 フランソワーズの声がして、気配一つなかった廊下に影が差した。スイッチが入り、薄暗かった廊下は明るくなる。足音が進むにつれ、壁を影がぞわぞわ這いまわりながら伝っていった。
 「…もしもし」
 「ああ、おれだ」
 「この家には俺なんていう人はいません」
 ガチャッ。ツーツーツー。

 やれやれ。そっと息を吐いて振り返りもしない背を、電話のベルが呼び戻した。
 「俺だっつてるだろ!いきなり切るたぁどういう了見だ!」
 「この家には俺なんていう人はいません」
 ガチャッ。ツーツーツー。

 「電話誰からだったの?」
 「ああ、最近テレビでよく言ってるだろ。あのオレオレ詐欺だったんだ」
 「まあ!こんなところにまでかかってくるのね」
 「僕もびっくりしちゃってさ。だから何も聞かずに切っちゃったんだよ」
 「私だって怖いわよ。そんな電話があったら、絶対すぐ切るわ」
 「でも、それが一番いい対処法なんだよ」
 「そうね、変に話をさせないように気をつけないとね」

 その夜、地球のどこかで仲間に相手をしてもらえずに泣いたサイボーグの姿があったかどうか、定かではない。

 まだか、とベンチに座ったハインリヒは思った。
 まだ決まらない、と試着室のフランソワーズは思った。

 何着目かのスカートをはいた自分の姿を鏡で確かめ、口から出るのは溜め息だ。気に入らないというわけではない。あれこれ試着して、これがいいというのだってあるのだ。
 今年はミニスカートが流行りだって言うし、教室のみんなもどこのお店のがとか話題にしてるし、やっぱりねえ?
 と自分自身に言って、それでもフランソワーズは迷っている。理由は本当に他愛のないことで。
 「これを着ているときに事件に巻き込まれたらどうしよう…」
 動いたら見える。絶対に見える。もしそうなったら絶対に後悔する。
 …でも可愛いし。これ。
 そう思うと試着室から出られないフランソワーズだった。

 そんなに悩むならやめておけ、と後で聞いたハインリヒは言ったが、同時に「似合ってるんじゃないか?」とむくれたフランソワーズをフォローするのも忘れなかった。