ある哀しみ

 ドアを開けたらキスシーンに遭遇した。おれはいったいどうすればいいのだろう。
 考えるまでもない。簡単なことだ、何食わぬ顔をして横を通り過ぎればそれでいい。納得し、おれは靴を脱ぐと硬直しているふたりには目もくれず傍らを通った。
 キス、とはいうもののせいぜい小鳥がするような可愛らしいものだ。むろん、このふたりが交わすのだからただの挨拶とは絶対に言えない類のそれだろう。だとしても、そこまで照れずともいいだろうに。
 あえて言わせてもらえば、ひとときのロマンスの場所に玄関先を選んだのは失敗かもしれない。こうしておれが目撃する羽目になってしまった。
 だが。
 ふたりのいたずら小僧は、顔を見合わせて互いににやりと微笑み、ちょうど背中を見せる形になったおれに飛びついてきたのだ。
 完全に不意をつかれたおれの頬に、両側から柔らかに湿った感触。……やられた!
 「ごめんなさい!」
 「悪いね」
 たまらずよろめいた足元を立て直す間に、悪がきふたりは廊下を曲がって姿を消した。きゃあきゃあとにぎやかな声だけをあとに残して。
 思いきり引っ張られた襟首は伸びてはいないだろうか。言い知れぬ虚脱感を抱え、おれは長旅で重い体(実際にかなりの重量があるのだが)を引きずるようにリビングに繋がるドアを開ける。幸運にも、ふたりはそこにいなかった。
 「おやなんとしたことだろう。我が輩のくもった眼球に珍しい御仁が映っておるぞ」
 そのかわり、もっとややこしいのがいた。
 「ははあ、顔色が優れぬところを見ると疲れているな。ささ、旅の疲れを我が輩とともに癒そうではないか。ほれほれ」
 お前は酒を飲む口実がほしいだけだろう。だが、まあいい。今日はちょっとばかりこちらの愚痴につきあってもらうのも悪かないさ。

 数時間後。
 でれでれでれでれー。
 「……」
 ぼべぼべぼべぼべー。
 ソファの中央あたりに腰かけたジェロニモは、手の中の木片にナイフを入れている。右の膝にはハインリヒの頭、そして左の膝にはグレートの脚(らしきもの)を乗せて。
 完全に意識を失った男ふたりの体重を預けられているのに、気にした風もない。平然とナイフを動かしつづけていた。ごく普通のナイフだが、人並みはずれた体格のジェロニモが持つと、冗談のように小さく見える。
 こうなった経緯は……とりたてて語るほどのこともない。たまたまリビングをのぞいたら、酒盛りをしていたグレートとハインリヒに巻き込まれた。ただ、それだけ。
 ハインリヒがよくわからない愚痴をこぼしつづけ、グレートが酔いつぶれて能力を暴走させ、なんだかよくわからない物体になりさがった。それだけのことなのだ。
 しかし、よくわからないなりにこれは少々危険なのではないだろうか。ジェロニモは、もはや不定形生物と化したグレートに視線をやる。イワンか博士を呼んだほうがいいかもしれない。
 でもまあ、いいか。
 心配をあっさり彼方へ放り投げる。実はジェロニモも酔っていたのだ。かなり。
 動かないのは枕を務めているため。酔いつぶれたふたりの眠りをさまたげないため。そういうことにしておこう。

 翌朝、みんなはジェロニモ作の「よくわからない木彫り」を目撃するが、ついにその正体をあかすことはできなかったという。
 「ハインリヒの悲しみのために作った……はずだ」というジェロニモの証言で、結局ハインリヒが押しつけられることになったが。