サンダーソニア

 「本当なら時期じゃないんだけど」
 一度来てみたかったんだ。付き合せて悪かったね――振り返って言うコズミの声は、謝罪というより晴れやかさの方が勝っている。
 「はあ」
 明らかに話半分にしか聞いていないギルモアの相槌など気にならないのか、コズミは微笑してまた歩きはじめた。その後ろをぶらぶらと付いて行きながら、ギルモアはどうやって宿へ戻ったものかと思案する。もともと、散歩に行こうと言い出したのはコズミのほうなのだ。こちらに付き合う義理などない。だが。
 (ここからどうやって帰ればいいんだ)
 ギルモアの前には「道が分からない」という最大の問題が立ちふさがっていた。そうでなければ、さっさと一人で戻っているというのに。来るときに、うっかり道を覚えていなかった自分にほぞを噛む。
 それもこれも、誘い出したコズミが悪いのだ、と八つ当たり気味に睨みつけた。前を行くは糊のきいたシャツに包まれた背中。

 彼らを含め、研究生たちが所用でワシントンを訪れたのが二日前のこと。ばたばたと過ごしているうちに、今日になってぽっかりと予定が空いてしまった。
 思いがけなくもたらされたこの空白を有効活用すべく、ギルモアは早速鞄から論文の下訳を取り出したのだが、気がつくとこの暢気な事態だ。なぜだ。さっきまで観光に出かける者を横目に、確かに机に向かっていたはずなのに。
 「散歩に行こうよ。たまには外の空気でも吸わないと」
 にこやかな誘いにうかうかと乗ってしまった自分に舌打ちしつつ、ギルモアは帽子を脱いだ。適当に押しこんでいた髪の毛が、風にかき回されてばさばさと広がる。行儀悪く伸びた前髪を見ると、そろそろ切らねばと思うのだが、結局いつもそのままだ。
 ちりり。軽く肌を焼く感覚。見上げれば、葉の間から真っ白に輝く陽光が降ってくる。ギルモアは手をかざすと木漏れ日の中に立ち、しばし目の眩むような感覚に沈む。夏という季節は、どうしてこんなに美しいのだろう。たとえ望まぬ地に立っていたとしても。
 道は池に沿ってゆるやかにカーブし、生い茂る木々は水面に光と影を投げかけ、緑が輝くばかりに映える。そういえばコズミは、この並木についていたく誇らしげに語っていたのだったか。
 曰く、故郷の花がここに移植されているとかで、一度は見ておきたかったのだという。咲き誇る花々、匂い立つ香り、爛漫たる春の風景。いつも物静かなコズミにしては珍しい熱っぽい口調は、聞き手をもまるでその場に立っているかのように錯覚させただろう。だが目の前の木々は葉のみを茂らせ、すでに散った花びらの面影を見出すには、あまりに緑が鮮やかだ。
 ギルモアとて花の美しさは知っている。彼の故郷では限られた時期以外は目にすることはかなわず、誰もが花の咲く季節を心待ちにしていたから。そういえば母は折を見て手に入れては花瓶に飾り、食卓に彩りを添えていたのだった…。記憶の光景が脳裏をよぎる。眩しさと違う理由で、ギルモアは目を細めた。
 (ああ、そうか。そういうことなんだな)
 気付いてみれば簡単なことだった。今の今まで、考えようともしなかったことだけれど。
 ギルモアは想像してみた。この並木道がひと色に染まる風景を。そしてその花で埋めつくされるという友人の故郷を。見も知らぬ国の光景に思いを馳せるというのは、なぜだろう、不思議な感じがする。
 「そろそろ帰ろうか」
 たぶん、ほんのわずかな時間だったろう。コズミの呼びかけで浮遊していた意識は引き戻された。
 しかし向き合ったまま立ち尽くすうち、両者とも嫌な予感がしてきた。
 「まさか…コズミ君、道が分からないなんて言うんじゃないだろうね」
 「いや、実はさっきから来たところを探していたんだけど」
 ギルモアの一縷の望みは、あっけからんとした返答に打ち砕かれた。ギルモア君、どこからこの公園に入ってきたか分かる?
 それで延々歩いていたのか、と納得すると同時、めまいがしてきた。

 いったいどうやって帰ればいいんだ。