適量:大さじ1

 アイザック・ギルモアは、その日とても虫の居所が悪かった。元から調子を崩していた胃腸が、日頃の扱いの悪さにとうとう腹を立てたのだろうか。反乱を起こしたのである。
 キリキリキリキリキリキリキリキリ。
 痛い。いや、すでに痛いとかそういった域を越えている。引き絞るような甲高い音が、今にも皮膚を通して聞こえてきそうだ。この調子では、神経の一本や二本がちぎれていても不思議ではない。
 (まるで胃袋がロデオを踊っているみたいだ)
 ふと思いついた表現に、脂汗にまみれた笑みがこぼれる。なかなかいい表現だ。僕って詩人かも。
 まるで見当違いの方向に自画自賛しながら、ギルモアは壁伝いによろよろ進んでいった。苦悶の形相で体を引きずる彼に出くわし、気の毒な学生は反射的に飛びすさった。

 寮食堂にたどり着き、どうにかトーストと紅茶を獲得したギルモアは席を探した。あまり人の行き来が激しくない、落ち着けるところ――
 「やあギルモア君。おはよう」
 どこも満席だった。
 しかたなく、声をかけてきたコズミの向かいに席を取る。この日本出身の留学生は、人の良さそうな童顔そのものの性格をしている。性分なのか、よくあちこちに気を回すので、東洋からの客人を珍しがる周囲ともすぐ馴染んでいた。
 「よう、ジョニー!調子はどう?」
 「ジョニー、昨日の論文についてなんだが…」
 誰だよジョニーって。
 むっつりとギルモアがトーストを口に運ぶ間にも、通りすがった同僚らが声をかけていく。いずれも、コズミはにこにこと人当たり良く応対し、ときに軽く冗談を飛ばして笑いを誘っていた。
 ギルモアはコズミと同席したことを、後悔しはじめていた。ここは人の集まりが絶えないからだ。しくしく痛む胃をなだめるためにも、ゆっくり食事がしたかったのに。
 ただ一つ救いだったのは、話しかけられることはしょっちゅうでも、テーブルにつこうとする人間がいなかったことか。おそらく不機嫌丸出しのギルモアが怖かったのだろう。コズミが心配そうな表情を見せる。
 「ギルモア君、顔色が悪いけど、大丈夫かい」
 どうも何も最悪だよ。
 と、わざわざ口に出すようなことはせず、ギルモアは黙ってトーストをかじった。その表情は憮然としたもので、威嚇しているかのようでさえある。
 どんな相手にでも――そう、たとえどれほどの好意を受けたとしても、ギルモアは一線引いた態度を崩そうとしなかった。さる研究所からやってきたというが、どこから来たのか、また以前どんな研究をしていたのかもあまり語らない。人間不信を前面に押し出して、誰とも関わるのを避けている。なのに、コズミはしょうがないなあと笑って付き合っているのだった。
 一方のギルモアはというと、かたくなさは変わらないものの、コズミを邪険にする様子もない。どうやら二人は友人と言えるだろう、というのが周囲の出した結論だった。
 というのも(ギルモア自身は気付いていないのだが)、コズミはギルモアのひねくれた部分を和らげるところがあるのだ。それを数十年後の日本では、俗に「和み系」というのだが、それはまあ今は関係ない。

 「コズミ君」
 純粋に心配そうなコズミに対し、ギルモアは全く別の事を口にした。
 「君、それはなんだね」
 「これかい?故郷の母に送ってもらったんだ。情けない話だけど、これがないとやっていけなくて」
 そう言うコズミが抱えていたのは、黒っぽい液体のつまった瓶だった。かなり大きい。それをコズミはさっきから、デザートがわりなのか匙ですくいとっては皿に移している。
 「ジャムに似ているね」
 ギルモアは食後の紅茶に大量のブルーベリージャムを放り込んだ。たちまち、紅茶は液体からゲル状に変化する。
 「そうだね。ちょっと似ているかな。とても健康にいいんだよ」
 「へえ」
 面白くもなさそうに、ギルモアは紅茶をすすった。コズミは、その馬鹿にした様子が面白くない。珍しく、少し強い調子で瓶を押し出す。
 「君はいつもジャムをそんなに使うけど、一度これを食べてみたらどうだい?」
 気圧されて、ギルモアはしかたなく瓶を受け取った。ラベルに印刷されているのは日本語だったので、ギルモアには読めない。それでも少しはかじっていたおかげで、「プル…」とか何とか幾つかの字は読み取れた。ポットから、二杯目の紅茶を注ぐ。
 どばどばどば。
 (あ……)
 するとどうだろう、ギルモアはジャムと同じ感覚で大量に入れてしまったのだ!
 「ご馳走様。失礼した」
 飲み干してしまうと、そっけない言葉を残してギルモアは立ち去った。あとには、心配そうなコズミが残された。
 「きくんだよなあ、あれ。ギルモア君、胃腸が弱いって聞いた気がするけど、大丈夫なのかなあ」
 日本人として便秘気味のコズミは、やはり大量使用を止めるべきだったかと後悔していた。

 次の日、ギルモアがお手洗いにこもりきりだったことは言うまでもない。
 人種と民族の違いがもたらした悲劇である。