トン、とカウンターに軽い音を立てて肘が置かれる。
その肘はくたびれた白シャツに包まれていて、更にはシャツの襟の上に乗っかった中年男の顔が「いつもの」と口を利くのだった。
バーテンダーはあっさりと無視した。グラスを磨いていたので。
「おいおい、注文聞いてくれよ」
「今営業中だ」
「堅いこと言うなよ」
「職務怠慢だ」
「後三十分で閉店だ。それにこの雨じゃ、誰も来やしない」
「客なら閉店時間を過ぎようが注文を聞くさ。だがお前さん、従業員だろう」
「そう言うが、閉店時間になったらなったで「酒は出せん」となるんだろうが」
「わかってるじゃないか。なら文句は無いな」
「労働は確かに神が与えたもうた神聖なる義務だ。しかし――」
「労働の疲れを癒す芳醇な雫もまた、神の授けし安らぎだ、か」
「…どうしてわかった」
「五回ほど前の台詞がそれだった。語彙が尽きたな、ミスターシェイクスピア」
「やれやれ、これだからあんたのお国柄ってやつぁなぁ」
「おれの性格を出身でとやかく言われたかねえ。だいたい勤務時間内に 飲酒しようとする方が間違ってるんだ」
そういう所がお堅いんだよ。
カララン。
ウエイターが反論しかけたそのとき、涼しげなベルの音が客の来訪を告げた。同時に、激しい雨音が店内に侵入する。
「すみません、まだ大丈夫かしら」
「もちろんですとも、マドモアゼル。当店はいらしたお客様に、こころゆくまで過ごして頂くことをモットーとしております。閉店時間などという無粋なことはお気になさらず」
ありがとう、と彼女――客は美しい女性だった。しかもとびきりの!――は濡れてさえ軽さを感じさせる髪をかきあげて、笑む。すかさずウエイターが差し出したタオルを優雅に受け取り、椅子に腰かけた。
「どうぞ」
「?」
目の前には湯気を立ち昇らせるマグカップ。
いぶかしげに眉をひそめる。まだ注文はしていない。
「サービスでございます。外はお寒かったでしょう。温まりますよ」
「…ありがとう」
今度の微笑は、ウエイターにはどうしてか泣きそうなものに見えた。
「ご注文はいかが致しますか」
「いいわ。今日はあまり酔いたい気分じゃないし。これで十分よ」
もう一杯いただけるかしら。
「左様でございますか。では、どうぞごゆっくり」
静かな店内に、先程の雨音で中断されたレコードが、再びささやかなメロディーを奏でだす。
外は雨。
客は一人。ウエイターはカウンターに引き返し、バーテンダーは相変わらず無表情でグラスを磨く。
「…おい」
「何だ」
「ワケありだとは思わんか?」
「だから、どうしたんだ」
「お前な、御婦人がお困りの様子を目にして何とも思わんのか」
「あのな…」
また悪い癖が出た、とでも言いたそうにバーテンダーは眉根を押さえた。最近眉間の皺が深くなったと言われてるんだよ、おれは。振られたらどうしてくれる。
「前にも似たようなことがなかったか?そんときゃ、延々相手の泣き言に付き合った挙句男の家に殴り込みをかけた」
「う」
「おまけに飲み代も払ってもらえずじまいだったな」
「うう」
「人助けをするなっつってるんじゃねえ。あんたの場合はだな…」
「いやいや待たれいバーテンダー殿よ。彼女を見てみろ、この雨の中わざわざ閑古鳥が鳴いてる店に入ってきてくれたんだぜ?それに困ったご婦人を放っておけるか?それほど冷酷な男だったとは知らなかった」
まさに立て板に水。こうなったらウエイターを止められないことを、バーテンダーは経験上よく知っていた。
ついでに、自分が百パーセント巻き込まれることも。
「もうし、マドモアゼル」
あ、畜生。隙をつかれた。
バーテンが一瞬物思いにひたったところをウエイターは見逃さなかった。女性に近付いて話しかけている。
…結局こうなるんだよな。嘆息しつつ、バーテンダーは同僚が女性の話を親身になって聞いているのを、半ば投げやりな気分で眺める。
外は、雨。
グラスが全てバーテンダーの気に入るまで磨き上げられた頃、二杯めのココアとともに女性の話は終わりを告げた。
「ほほう。それはまた…!」
「分かってはいるんです。自分が勝手だってことくらいは。でも、私はどうしても納得いかないんです」
「そんなことはないですぞ、マドモアゼル。麗しい御婦人の願いが身勝手だったことなど、歴史を通じてありましょうか」
あるぞ。
バーテンダーはつっこんだ。
きっとあんたは何回引っかかっても、同じ事を言い続けるんだろうな。
そう思って、バーテンダーは手袋をはめた。さて、指がなまってないといいんだが。
突如軽やかに流れてきたピアノの音色に、ウエイターと女性は驚いて顔を上げた。前者は意外さに、後者は純粋な驚きの為に。
レコードは何時の間にか回転を止め、ただ白と黒の鍵盤が紡ぎだすメロディーだけがそこにあった。
早く、軽快に。どこか知らない国の音楽をピアノは歌う。
我知らず、女性は目を閉じて聞きほれていた。
あの野郎、結局最後に良い目を見やがる。舌打ちを飲み込んでウエイターは毒づいた。
甘さを含むくせに手の中には何も残さないような調べを閉じ、たった一人の観客に向かってバーテンダーは立って一礼した。
「ありがとう、ございます」
彼女は柔かく微笑った。でもやはりその笑顔はどこか哀しい、とウエイターは歯痒かった。
そのとき、一人の若者が駆け込んできた。扉が勢いよく開け放たれ、ベルが不平そうな音を鳴らす。
「良かった…見つけた…!」
「どうして、どうして私なんか探しに来たの?だって私…」
「いいんだ。悪いのは僕の方だったんだから。僕の思い上がりで君を傷付けてしまった。君を傷付けないように、そのことだけを考えていたのに」
ぎゅう、と若者は彼女を抱きしめて切羽詰ったように囁く。
「本当に、ごめん」
「そんな、謝らないで。私だって随分ひどいことを言ったわ。身勝手なことばかり考えて、あなたを傷付けたわ」
「でも」
「ふふ。きりがないわ。二人とも謝ってばかりじゃ」
「そうだね。それじゃあ、半分こ」
「ええ。半分こね」
「行ったな」
「ああ、行った」
恋人達は去り、後に残るはしがないバーテンダーとウエイター。最後の客を送り出して、看板を下げる。閉店時間はとうに過ぎた。
「そういや、珍しいことをするもんだな」
「何がだ」
「自分からピアノを弾くなんて、一体全体どういう風の吹き回しだ」
この天然たらしめ。今回は胸にしまっておいてやる。
「そっちが言い出したことだろうが」
紳士たるもの、困った様子の御婦人には手を差し伸べるべし。
雨の夜に、今日も一つのバーが店仕舞い。