そのバーは、表通りから外れた少しばかり見つけにくい所にある。
お世辞にも流行っているとは言えないが、さりとて閑古鳥が鳴いているわけでもない。そんなところだ。
従業員は三人。酒飲みの店長はとにかく困った人で、客のいないときを見計らっては商売品に手を出そうとしている。それを阻止するのがカウンターの主であるバーテンダーだ。ほぼ三日おきにカウンターをはさんで争いが繰り広げられている。
そしてアルバイトであるこの僕。いや、もう一人増えそう、というか増えたがっているんだけど。
ところで、この店には鉄則がある。
ひとつ。店長はウエイターと呼ぶこと。
僕たちにもそうだが、客から「マスター」「店長」と呼ばれたりすると、わざとらしくウインクなどして「我輩には店長という役柄は荷が重過ぎる!せいぜいウエイターが相応にて」などと芝居がかった調子で言う。
ふたつ。バーテンダーを怒らせてはならない。
あまり大きな声ではいえないことだが、この人は細かい。それはもうすごく。
やたらと綺麗好きで(いつも暇さえあればどこかを磨いている)、グラスに注ぐときの壜の角度にもこだわりがあるのはともかく。沸点が低いうえ一度不機嫌になると、なかなか上向きに回復しない。
しかし慣れてしまった常連客にとっては、それすらも面白いらしい。
かくいう僕も「ひょっとしてこの人はじじむさいだけなのでは」と最近思うようになってきたところだ。
みっつ。
「ここで働かせてくれ」
雨の日、夜更けに飛び込んでくる客はきまって小さな騒動の種を持ち込んでくる。
僕はちらと横をうかがう。案の定、急速に気圧が低下し不機嫌な気配をまき散らしている。きっと、
(おれの真正面に座って注文もしねえとはいい度胸だこのガキ)
くらいは思っているだろう。
「働かせてくれっていきなり言われてもなあ」
対して、この場で一番の年配者は困惑した表情でつるりと顔を撫でた。
「頼むよ。俺、ここが気に入ったんだ」
「人は足りてるんだ。どこか他を当たってくれ」
「ちょっと待ってくれよ。せめて一回くらい聞いてくれたっていいだろう?!」
「聞く?」
「ああ!こいつに関しちゃ、ちっとは自信あるぜ」
得意満面といった表情で足元の黒いケースを持ち上げる。形からみてギターだろうか。
「何だお前さん、働くってここで演奏させてくれって意味だったのか?」
「あれ…言ってなかったか?」
あらぬ方を向いて口笛を一小節。たぶん僕とそう大して変わらない年齢だろうか。全身に爆発しそうなほどエネルギーが詰まっているようで、楽しげに目がきらきら光っている。ふと、彼がどんな音を出すのか興味を持った。
「ほう、ギターか。聞かせてもらおうじゃねえか」
…良かった。どうやら天気は回復に向かっているらしい。そういえばこの人もピアノを弾くんだったよな。まだ聞いたことはないけど。
「弾かせてくれるのか!?」
「やーれやれ。妙な方に転がっちまったな。まあ一度弾いてみてくれや」
「ありがとよ。何かリクエストはあるかい」
「お前さんの一番得意なやつをお願いするよ」
「任しとけ!って…あれ?」
殺気までの自身満々の態度はどこへやら。ケースを開けたままの姿勢で何やら凍結している。三人で同時に覗き込んで見てみれば。
「それにしても何だったんだろう」
「いつものことだろう。雨と共に現れ、そして雨と共に去る!実に当店の客らしい」
「客じゃないだろうが。おれは自分の楽器さえ管理できない人間に、ここで弾いてほしくはないがな」
相変わらずきつい。あれほど見事に弦が切れていたんだから当然かもしれない。
「おおい青年、そろそろ閉店時間だ。片付けに入ってくれ」
はい、と呼ぶ声に返事をかえし、僕はまた雨上がりの路地を見た。しょぼくれた後姿はもう見えなかったけれども、やはり気になった。何だか気の毒だなあ。
しかしながらその晩に限って、来客は通り雨とはならなかったようだ。
「よう!!」
「…来やがった…」
「まさかまた来るとは…」
「……」
それぞれ何とも言えないような表情で彼を迎える。
「言っただろ?ここが気に入ったってさ。おっと、今日は客として来たんだぜ」
うきうきとスツールに腰掛け、水割り一つなー、とはしゃいだ様子で注文する。
どうやらまた、妙な客が居着いてしまったらしい。