12. 喉

 「ゴミ溜めより少しはましな」アパートから一歩外へ踏み出すと、路上に色濃く影が落ちる。太陽はすでに高く昇っており、朝というには少々はばかる時間だと告げていた。
 事務所はレースが始まる前に開けておかなくてはならない。前日、文字通り身ぐるみはがれてすっからかんになった人間でも、最後の望みをかけて駆け込んでくるからだ。絞首台に立った人間が逆転することなど、無論起こりえないのだが。
 それはそれとして、彼は急ばなくてはならないことに気付いた。
 (旦那に準備させちゃ、立つ瀬がねえや)
 ゲーリーの上司であるウィッジは、少々の遅刻でいつまでも絡む人間ではない。だからといって、目下の彼が重役出勤をしてもよいという理由にはならないのだ。ウィッジは尊敬に値する男だったし、彼の手を煩わせるようなことはできる限り自分がすべきだとゲーリーは心得ていた。場末の闇金融事務所に、それほどの煩雑さは存在しなかったとしても。
 つまり、彼なりのけじめなのである。

 事務所につくと、雑巾がけをしていたブランドンが軽く頭を下げてきた。一言の挨拶もないが、ブランドンは喋っているほうが珍しい人間なので気にもならない。
 ざっと目視したが、とりあえず準備は整っているようだった。先日来たばかりこの新入りは、仕事を覚えるのが早く、また細部への気配りも上々ときている。が、その無口さゆえに、本来なら新入りのブランドンがこなすべき電話の番は、いまだにゲーリーの仕事と化していた。
 それでもここ最近は、どうやら応対が様になるようになってきてはいた。ゲーリーとしては、九官鳥かなにかの訓練でもしている気分である。
 ラジオをつけ、新聞を広げて配当をチェックしていると電話がけたたましく鳴り響いた。すかさずブランドンが受話器を取ったが、どうしたことか耳に当てたままぬぼっと突っ立っている。
 ゲーリーが、何か喋れ、と目で合図しても困惑した表情で首を横に振るばかりである。
 (電話、通じて、いねえのか?)
 ジェスチャーで問うてみるが、またブランドンは首を横に振った。
 (それじゃ、いったいどうしたんだ)
 重ねて聞くと、ブランドンもジェスチャーで何かを伝えようとしている。どうやら、単にいつもの無口ぶりを発揮しているのではなさそうだった。
 くいくい、と受話器を顎で挟んだまま手を振り足を振りしているのだから、かなり器用である。
 (だから、何だって?)
 くいっ、くい。ばさばさばさ。
 負けじとゲーリーも小粋なジェスチャーで問い返す。手に持った新聞紙が、翻って派手な音を立てた。
 くいくいくい、くいっ。くいくい。
 (分かんねえって)
 くい、くいっくい、くいくいくい、くいっ。くいくい、くいくい、くい。
 くいくいくいっ。ばさばさばさばさばさ。くい、ばさばさ。くいくい、ばさ、くいっ。くい。
 くいくいっ。くい。くいくいくいくい、くい、くいくい。

 「お前たち、それは新しい挨拶か?」
 (あ、旦那)
 (おはようございます)
 ウィッジの声に、奇怪な踊りを繰り広げていた二人は揃って頭を下げた。

 それでお前ら、と深々と腰掛けたウィッジは呆れ顔で言う。
 「朝っぱらからどうした。酔っ払いでもしたのか」
 (いえね、ブランドンの野郎が)
 「ゲーリー、いいから口を使ってくれ。もしお前さんが口よりも手の方が役に立つ、なんて考えてるんでなければな」
 「あ、すいません旦那。いやね、この野郎ときたら、さっきから電話に出ても返事もしねえ、うんともすんとも言わねえんでさあ。それでこっちも身振り手振りで聞いてるうちに、つい」
 「ほう、ブランドン。一体どうしたんだ?お前さんのことだ。喋らないにしても、ちゃんと理由があるんだろう」
 くいくいちょ。
 「ふむ、そいつは災難だったな」
 ブランドンのわずかな指の動きだけで得心してみせるウィッジ。
 「…なんで分かるんですか、旦那」
 「何を言ってるんだゲーリー。奴は十分、分かりやすく言ってるじゃないか」
 「全然分からないっすよ!?しかも親指立ててるじゃないっすか!」
 言われてウィッジは顎のあたりを撫でた。しばし黙考した後、おお、と納得したように声をあげる。
 「はっはっは。歳は取りたくないもんだな」
 会話になっていなかった。
 「いや…もういいですからブランドンが何を言ってるかだけ教えてください」
 「これのせいでなんだと。ブランドン」
 呼ばれて、ブランドンはがぱ、と関節が外れるほど豪快に口を開けた。
 「…」
 恐る恐る口内を覗き込んだところ、扁桃腺がこれでもかと立派に腫れているのが目に入る。
 「おめえ、それで声が出なかったのか…?」
 こくり。
 電話を取るまで気づかなかったんだとよ、と後ろからウィッジが補った。先ほどのジェスチャーで読み取ったらしい。もともと喋らない人間が喉の異常に気付くのは難しいのだろう。だとしても、鈍感にもほどがあるが。
 「それはいい、それはいいんだがな…。声が出ねえなら出ねえなりに紙に書くぐれえのことは思いつけ!」

 その日、彼らは一人の客を逃し、一人の病人を得た。